第66話 シュルル VS デカハナ ②
「良かった……」
その安堵の吐息は、シュルルにとって二重の意味があった。
一つは、あの男が無事に生きていたという安堵。
もう一つには、眼前の男がその事に怒っているだけの事で、肉屋ギルドの指金とは違うだろうという安堵だ。
これならば、何とかなる!
そんな漠然とした印象が、シュルルの中に芽生えた瞬間であった。
それは、シュルルにとって臨戦態勢を解除するという、いささか早計過ぎる行動につながるのだが、それには訳があった。
お友達を、大切にする人なのね……
デカハナの時には苛烈過ぎる行動の中に、熱い友情の迸りを見たからだ。
刺す様な敵意も、情熱の現れ。
友を傷付けられた怒り。苦悩。悲しみ。
そう想えば、あの夜、死をまとう行倒れに止めを刺した冷酷さも、敵意、蔑み、下卑た物言い、粗野な仕草、全てが飾りの無い、素朴な生き様の様に思えて不思議だ。
言い換えれば、年端もいかない子供の衝動に似て……
「女とは、げに恐ろしき生き物よ……」
途端に女のまとう空気が変わった。
このシュルルという女、矢張り恐ろしい女だ。
ああいえばこういう的な。その状況に応じて、ころころ態度を切り替える事の出来る自己管理能力。
今、目の前で劇的に生じた変化に、デカハナは更なる戦慄を覚えずにはいられなかった。
外面だけでは無い。内面、その感情のそれすら変じて見せたのだ。
安堵と慈しみ。
こちらの怒気を削ぐ為に、今までお面の様に固い表情を浮かべていたのが、その内なる心根まで別人であるかの如く、穏やかで優し気なそれを浮かべているではないか?
「どんな手を使った? 言ってみろ!」
じり……半歩、前へ出る。
それだけで、これまでの態度が嘘の様に、焦りや、動揺の匂いが。
誘っているのか!?
「さあ、何の事で御座いましょう? わたしは何も……」
「嘘をついても判るぞ! この俺にはなぁ~……」
熱い鼻息が届く程に、にじり寄るデカハナに、シュルルは気押された。
気押されてしまった。
嘘はつきたく無かった。
交渉術で言えば、はぐらかす話法は幾つだって存在するのだが、驚くべき事に今のシュルルはそれを使いたくは無いという、感情に押し負けていたのだ。
嘘はつきたくない。
しかし、嘘をつかなければ、仲間たちが困難に陥る。自分が連れて来た、子供達にも。
だが、どういう訳か、目の前の男に伝える言葉が見つからない。
何とかなると思ったのに、何ともならん!
あわわ……
近い! 近い!
「言えいっ!!
何をしたっ!!?
貴様の口から、僅かに血の匂いがするじゃねえか!!
お前ぇがやったんだな!!?
お前ぇの仕業だなっ!!?」
がっしり。両肩を掴まれ激しく揺さぶられた。
その巨漢に見合った大きな手だと、シュルルは頭の片隅でそう思う。
厚手のグローブを通し、デカハナの異常な迄の熱気が、もろに伝わって来る。焼き鏝でも押し付けられたかの力強い掌握に、振り払おうとすれば出来る筈が、まるで腫れものを触るかの様に、その腕にそっと手を添えるだけに留まった。
獣に比べれば貧弱な筋肉、細い骨格だが、人の身では相当に鍛錬されたそれに想え、その熱気と相まってのしかかる圧力は、心地良くもあり。何しろシュルルは、雄の成熟した熊を担いでうろつける程の力があり、この程度で手折られる程に見た目程やわでは無い。
正に人外のそれ。
不条理の中の条理。
だがしかし、地下迷宮で無法者の冒険者と殺し合いを演じていた程には、その心根が和らいでしまっていたのが、人の街で生きて行こうと思うが故の条理。
殺伐とした荒野のそれと、また違った、日の灯りの下を生きるが故のそれ。
「そ、それはきっとワニの血でございます。
血には滋養がありますから、今朝仕留めた時に皆で飲みました」
「ワニだあっ!?」
すかさず兵士の数名が荷台の布をたくし上げた。
「牛とワニです!」
「ほら。この通り……」
苦しい言い訳をと、デカハナは思った。
だが、シュルルからはあからさまな嘘の匂いはしない。しかし、微妙なニュアンスが全くの真実では無いと語っていた。
「だが、何かが違う……それが、俺には判る!」
家族の中でも、年々嘘が巧妙になる。嘘か本当かを匂いで言い当てるデカハナに対し、姉や妹達は、事ある毎に真実を織り交ぜて誤魔化そうとする様になっていった。
稚拙であるが、最初はそれに騙されもした。
今、目の前の女からは、言い訳の際、それに似た何かが混ざった匂いが、一瞬漂った、そんな気がしてならない。
何だ、この違和感は?
全身を覆う怒気。それに押され、デカハナは全神経を女へ集中させた。
一つの嘘も、見落としまいと。
「手前ぇ~、さっきから急に媚を売り始めやがって、これだから女って生き物は油断出来ねぇぜ……」
「そ、そんな……」
その赤い唇が開いた瞬間、確かに血の甘い臭気が腹の底から沸き立つ様にあふれ出る。
本当に、ワニの血の匂いなのか!?
身を乗り出し、その唇の奥を覗き込む。
血だ。
血の匂いがする!
思い出せ!
ナンコーの血の匂いと、全く全然違うのかをっ!?
集中だ!! 全神経を集中だ!!
あと数センチで、鼻と唇が触れ合う。そんな距離まで詰め寄り、女の息を嗅ぐ。
その意図を察したのか、最初は戸惑う様子であったシュルルも、遂に観念したか、目を閉じ、くっと下あごを差し出す様にして、デカハナへ口を開いて見せた。
元より、ナンコーの内ももにあった血は、ほんのわずかなもの。
そして、シュルルの胃より立ち昇る匂いは、既にかなり消化が進んだもの。否、消化が進み、血流に乗って全身へと巡り巡り、その身全体より立ち昇るもの!
その判別は超絶困難を極めた。
呼吸を整え、息を深く吸い、異常に高まる動悸を抑えようと……なんだ、この異様な感覚は!?
呼吸がおかしい!?
デカハナの身体を戦慄が走った。
瞬間、自分も気付かずにナンコーと同じ様に、何かをされているのかと疑った。
だが、そこで全く状況が違う事に目を見張った。
匂いだ!
匂うのだ!
ナンコーからは、一切このシュルルの体臭が感じられなかったでは無いか!?
この甘く香しいかおりは、今、正に腕の中にあるシュルルから立ち昇るもの。それは、デカハナの身体にまとわりつく様に漂っている。数時間、いや、半日以上、これは残る!
何故だ!?
報告では、ナンコーめはこの女を今の自分と同じ様にかき抱き、その身に触れていた筈!
女は、ほぼされるがままであったと……
それは今の状況と同じに思えた。
最早観念したかに、目を閉じ、口を開き、その身を己に任せている。
しまった!!
やられた!!
これが、この淫売の手口なのだ!!
放り出したい衝動が、このままでありたいという衝動にかき消された。
離せぬ!
友よ!
無念……
怒りが急速に萎え、全く違った情動が、デカハナの手足から怪力を奪い去る。
無理乱暴に扱おうにも、まるで粉砂糖で出来た人の形を、崩さぬ様に崩さぬ様に……
バカな!?
このデカハナ様とあろう者が!?
これが、魔性の力……
くわっと目を見開き、改めて女の顔を見た。
まるで作り物めいた精緻な美貌。
普通なら、まぬけ面も良いところのそれが、美しくも愛らしいと想えてしまう不思議。
魔性……魔性!
デカハナは、左手でシュルルの右肩を抱え込む様に支え、震える右手から口でグローブを外した。
そして、その指で、シュルルの舌先へ。
その二股に分かれた、蛇の如き細い舌に触れてみた。
シュルルの口の中は、白い歯並びも良く、生温かでぬるぬるして、触れた部分は少し冷たかった。少しの間、外気に触れていたからだろう。
「人では無い……のだな……」
かすれた声が小さくこぼれ出ると、女は薄目を開けてデカハナを見つめ、次には閉じた。
指にまとわりつく舌先に合わせ、口腔に触れると、その唇もやさしく閉ざされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます