第51話 わたしを離さないで、今はまだ
大広間から、しだいに人影が減っていく。
最奥にぽつんとのこる棺に、午後の光が長くのびて差していた。青竜サフィールはしばらく棺に顎をのせて別れをおしんでいたが、やがて翼を力強く動かして、天窓へと飛びあがって出ていった。新しい
エサルたちは鉱山爆破後の片づけを支援してから南部へ戻るという。グウィナら黒竜の竜騎手たちは、ひと足さきに王都に戻っていった。
別れのときが近づいているのだ。
ほかの竜たちも、おのおの飛びたっていき、残ったのはアーダル一柱となった。冴えた月のような色の目がリアナを見つめている。手をのばして鼻さきを撫でてやっていると、デイミオンから手まねきされた。
用があるなら自分で歩いてくるタイプの男だし、そもそも〈呼ばい〉を使えばいいのだが、リアナは疑問ももたずに近づいていく。黒髪からのぞく簡易冠がにぶく輝き、もう日没も近いのだと気がついた。
なにか声をかけようと思ったが、目線でおしとどめられる。
巨大な翼の
唇がやわらかく触れ、音もたてずに押しあてて離れた。
「竜の陰にかくれてなんて、あなたらしくないわね」
「堂々とするのがはばかられる行為なのは、わかっている」
デイミオンはかすかに笑った。「だが、長期戦になりそうだからな。その間ずっとおまえに触れずにいるのはつらい」
言いながら、親指の腹が目の下を軽くこすった。……冷たくあしらわれているあいだは
「考えたんだが……」
まだ広間に残っているだれかに聞かれたくないのだろう、デイミオンは身をかがめて彼女の耳にささやきかけた。「おまえにその覚悟があれば、ふたつの家庭をもつこともできる」
「……!」
思いもよらない言葉に、リアナは目を見ひらいた。淡青の目を見あげるが、冗談を言っている顔ではなかった。
「そんなこと……ほんとうに考えたの? あなたが?」
あの地下水道でのときといい、最近のデイミオンはずいぶん、以前のかたくなな男とは違っている。それでも、リアナにはにわかに信じられなかった。デイミオンの口から、『ふたつの家庭』などという言葉が出てくるとは。
「誰も、愛する者の第二の夫や妻になりたくはない。もちろん、俺も嫌だ」
低い声が、彼女の耳にそそがれた。「だが、おまえと一緒に過ごす道が開かれるなら……考えてみる価値はある。少なくとも、こうやっておまえの愛情をかすめ取るような真似はせずにすむ」
先日からの
「たしかに、二人と結婚すれば不貞ではなくなるけど……」
デイミオンの前腕に自分の手のひらを置いたまま、彼女はとまどった。「わたしたちのあいだで、それができるとは思えない……」
竜族には複数婚が許されているが、うまくいっている夫婦ばかりではない。リアナの知るかぎりでは、エサルやタナスタス卿など、ごくひと握りだけだ。自分たち三人が、その数少ない例外になるとは思えなかった。二人の男の愛情は、リアナを分けあうには激しすぎる。
「最善の道だとは言っていない。選択肢のひとつだ」
デイミオンは言った。「唯一の男として選ばれる希望は捨てていないが、どちらを選んでも、おまえはどうせ悩みつづけるだろうからな。負担を減らしてやろうと思って言ったまでだ」
「それは当たってるわ」見すかされているのが悔しいような、おかしいような気分で、リアナは苦く笑った。
こんなに悩んでいるのにデイが涼しい顔をしているから、つい、恨みごとがもれる。
「あなたたちが悪いのよ。……隠れ里に迎えにくるときに、二人同時に来たから。いつも二人で、わたしを守ってくれたから。それからずっと……」
その続きは言えなかった。だが、デイミオンにはわかっていただろう。いまのリアナは、二人の男をおなじだけ愛している。
「相続会議の場で、おまえは……」
悩みはじめたリアナを見おろして、デイミオンは別の言葉を口にした。「アーシャに向かって、『わたしたちは千年の春を生きるのよ』と言ったな?」
その言葉に、彼女はうなずいた。たとえ自分の命を狙った過去があったとしても、やりなおしの機会はあたえられるべきだと。
「俺もおなじことをおまえに言おう。誓いが永遠だとは言わない。だが、一度や二度の選択で、永遠に決別するわけじゃない。千年の春をおまえと過ごすために、俺は準備をしているんだ」
「デイ……」
「王都で待つ。……答を用意しておいてくれ」
アーダルとともに王が出立したあとも、かれのその言葉が、耳にいつまでも残った。
♢♦♢
居室に着くころには、すでに窓枠から夕陽がしたたり落ちはじめていた。その赤さのせいなのか、デイミオンとの会話のせいなのか、ケイエでの最初の一日が思いだされた。
家族と呼べる里人たちを失ったあの日にくらべれば、いまの悩みは贅沢すぎるものだということは自覚していた。デイミオンが、自分の誇りを曲げてまで彼女の意思を大切にしてくれていることも。
だから、考えなければ。
愛する二人の男のことと、ふたりの子どものことを。どちらか片方ではない未来という選択肢のことも。
フィルは
「松葉づえで移動できるようになったら、王都におもどりになれますよ」
医師はそう言ってフィルを励ましている。ついこのあいだまで左腕しか動かせなかったのに、もう歩く訓練をはじめているなんて、驚くべきことだった。
食事の準備のために医師と乳母が下がると、二人きりになった。手すりをつたって家族用の食堂にむかうフィルに、リアナもつきそう。
ほんの半日離れていただけでも、話題はつきなかった。訓練のこと、娘の様子、相続会議のてんまつに、レヘリーンとエリサの奇妙なやりとり。笑いながらたあいなく話していたが、ふとフィルが立ちどまった。
手すりをつかむ左手に目線を落とし、「指輪、なくなってしまったね」と言った。
内心を見すかされたようでどきりとしながらも、リアナは「ええ」とうなずいた。飾りのない素朴な指輪は、彼女のもとを出ていくとき、フィルが残してくれたものだった。竜族の
「『ただ一度だけ、あなたを助ける』。そのための指輪だったのに」
残念そうな声で言うので、リアナははげますように肩をたたいた。
「そのつもりだったわよ」
「だけど、俺が助けられるがわだったなんて、思わなかった」
「でも、助けが間にあってよかった」
リアナは本心からそう言った。「夫婦なんだから、わたしが助けることだってあるわ。そうじゃない?」
リアナの身の安全については、デイミオン以上に頑固だったフィルだ。自分の方が助けられたことに、納得のいかない思いがあるらしかった。なにか言いたそうにしているので、リアナも黙ってつづきを待った。
「俺は、あなたの自由を奪っている」
まだ指に目を落としたまま、そんなふうに言う。「あなたは優しくて、俺を見捨てられないから。それを利用しているんじゃないかと」
「薬のことも、今度のケガのことも、足かせだとは思っていないわ。結婚したのは、ローズのことがたしかにきっかけだけど、わたしは自分の意志で、あなたのそばにいるのよ」
手すりに寄りかかるようにしているフィルの、その腰にそっと腕をまわして抱きついた。
「放っておけないからそばにいるんじゃないのよ。弱くてずるいところも、そう見せたがっているより優しいところも、戦いと喪失の過去を背負えるほど強いところも好き。この、傷だらけの背中も」
そう言って、広い背中に額を押しあてた。「……でも、不安にさせてごめんね」
〈呼ばい〉は使えないけれど、それ以上にカンのいい男だ。おそらく、彼女の様子からデイとの会話のなにかを感じとったのだろう。肩甲骨の下の筋肉が緊張していて、かれの苦悩をリアナにつたえていた。
「愛してるよ」
フィルは前を向いたまま、背中がわのリアナにつぶやいた。「たとえ何百回の季節が過ぎようと、俺の春はすべてあなたのものだ。これからもずっと」
「ええ」
リアナはまだ背中に額をあてたまま、目をとじた。「あなたと一緒にいるわ、フィル」
「あなたを解放してあげたいけど、俺にはやっぱり手放せない。この愛を、デイと分けあうこともできないよ」
「それでいいわ。……わたしを離さないで」
手を離さず抱きしめているのはリアナのほうだったが、二人は日が沈むまでずいぶん長いことそうしていた。今はまだ、という言葉があったとしても、二人が口に出すことはなかった。
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