第39話 汚泥にまみれたキスを
「手をこっちに」
聞こえた声は、竜騎手キアランのものではなかった。他人に命令しなれた、よく響く低い声。暗闇にぼんやりと見えるオレンジは、火球を明かりにしているのだろう。
水中でもうろうとしているリアナの髪をつかんで、竜騎手が向きを変えようとしているのが感じられた。と、別の誰かの手にしっかりとつかまれる。おそらく竜術で身体を浮かそうとしているらしく、不自然に持ちあげられた感覚がした。その誰かは空中に浮いていて、低い天井に足をかけ、そこを支えにしてリアナを引っぱりあげているらしかった。ざぱあっと派手な水音がする。身体をくの字に折られて抱えあげられ、ついで竜騎手キアランの赤毛が逆さに見えた。かれは腕をつかまれて腰まで持ちあがると、あとは自力で浮術を使い、地下水の流れから脱出した。
「げほっ、ごほっ」
ようやく通路に戻った。水のなかでは重さを感じなかったのに、濡れたコートが驚くほど重くて立っていられない。膝をついて激しくむせると、誰かが背をたたいて水を出してくれた。
「陛下」竜騎手キアランが拝礼して呼びかけるのが聞こえる。「リアナさまは……」
「水を飲んでいるが、無事だ」
男の声がした。「ここは私ひとりでいい。上に行って避難を手伝ってくれ。南に20ヤードほど下ると私が来た出口がある」
「はっ」
キアランは濡れた靴音を響かせながら、流された方角とは逆に向かって走っていった。
「……デイミオン」リアナは膝をついたまま、かぼそい声で呼んだ。暗い地下水路をオレンジの明かりがわずかに照らし、二人の姿をぼんやりと浮かびあがらせている。
「竜術で乾かすぞ」
デイミオンも彼女の前に膝をついた。その指先がコートに触れると、水分が蒸発する音がしゅわしゅわと響き、湯気となって一気に立ちのぼった。
「便利ね」
その熱でようやく人ごこちついたリアナは、なんとか言葉をつぶやいた。「でも、まだ寒いわ」
そう言うと長い腕が彼女をかこい、温めてくれた。
「そうだな」デイミオンは彼女を抱きしめたまま、そう言った。「おまけに泥まみれで、信じられないほど臭い」
「最悪」
黒い
匂いはもう感じなくなっていたが、
「何があった?」
そう尋ねられ、簡単にここまでの経緯を説明した。河川の氾濫をおさえることに成功したが、地下の民たちが気になって避難を手伝いに来たのだと。ぎりぎりのタイミングで
あいかわらずの無鉄砲をとがめられているらしい。そのくせ一番に助けに来てくれたのだから、デイミオンこそあいかわらずの過保護ぶりだった。
好意を当てにしているようできまり悪い思いもあったが、おかげで助かった。リアナは説明を続けた。
「ネクターが不安がって、嵐の制御に集中できないらしいの。ルルとわたしも手伝わなくては。いま、スヴェトラーナの支配権も持っていて……」
「〈呼ばい病み〉は?」
「今は大丈夫」
「では、地上まで連れていこう」
そう言ったくせに、デイミオンはなかなか
デイミオンはようやく腕をゆるめると、頬をつつみながら目をあわせた。うかがうようなわずかな間があって、唇があわさった。拒む間はあったが、リアナはそうしなかった。
久しぶりのキスは、たしかに汚泥の味がした。だがデイミオンの唇は温かく甘く、魂まで奪われそうな気がした。
泥でもついていたのだろう、大きな指が彼女の頬をぬぐってから、またキスに戻った。舌がからまると、一気に熱をおびる。口づけの合間に見つめる目から彼の欲望が伝わってきて、リアナの身体も熱くなる。……二人のあいだにはずっと、まなざしだけでたがいの情熱がつたわる絆があった。見えない火花が散るように、おたがいが欲しいタイミングがわかるのだ。頬をつつんでいた手が耳をふさぎ、キス以外の音が聞こえなくなる。このまま、なにも考えずに身をゆだねられたら……。
「これでようやく、
こんなときにも、いつもの皮肉はやめないらしい。リアナは笑いながら彼をこづいた。「なに言ってるのよ」
「おまえのために道を踏みはずしたい、と言ったんだ」
「デイ……」
それは、彼らしくない言葉だった。デイミオン・エクハリトスは王として領主としてつねに正しい道を選び、竜騎手の規範であろうとする男のはずだった。その姿は、暗闇のなかで炎をもって民を先導するアルナスル王と重なっている。出会ったころから、デイミオンは本質的に不道徳と無縁だった。
「あなたは、そういうことを言わないと思っていたわ」
「俺もそう思っていたとも」鼻先にちょんとキスを落とし、悪びれもせず、そんなふうに言う。
「道を間違うことは許されないと思って生きてきた。自分で自分に驚いている」
「デイ、わたしは――」
リアナは口を開いたが、なんと言いたいのか自分でもよくわからなかった。二人の先にもう道はないと思っていたが、デイミオンの言葉にありもしない希望を信じそうになる。かれが何かを見つけてくれるのではと期待してしまう。フィルを愛しながら、苦しいほどにデイを求めてしまう気持ちへのなにかの答えを。その答えが陳腐なものであることは、リアナにもよくわかっていたが……。
「シーッ」指が唇にあてられた。「誘惑はあとだ。
「……ありがとう」
答えを先延ばしにしたのは、デイミオンなりのけじめなのだろう。ほっとして悲観的になりかかっていた気分が晴れ、驚くほど力がわいてきた。「今なら、どんな嵐も止められそうな気がするわ」
♢♦♢ ――フィル――
溺れながら酸素を求めるように、フィルは目ざめた。
視界がきかない、と一瞬思ったのは、周囲をすべて
顔と胸の前には
もう一度、身体を動かそうとしてみる。ぎこちなくはあったが、今度はわずかに動いた。左手と左足は、無事に動かせるようだ。右手はなにかに挟まれているようで、苦心して引き抜く。引き抜くことはできたが、負傷しているのか自由に動かない。そして右足はまったく動かず、ひどい圧迫感だけがあった。おそらく、瓦礫の下敷きになっているのだろう。
「誰か! 来てくれ! 誰か!」
大声で叫んだつもりだったが、思ったような声が出たかはわからない。しばらく叫んだあと、体力を無駄に使うのはよくないと気づいた。自由な左手をくわえて指笛を吹く。これなら、声よりも遠く響くはずだ。
しばらく慣らし続けたが、助けが来る気配はなかった。ロイが女たちを帰していたことをぼんやりと思いだす。クルアーンが
(〈呼ばい〉が使えればな)
最近ではめったに感じない、「心臓もち」たちへの羨望を、ひさびさに感じた。指笛よりももっと遠くまで確実に、救助者まで届くだろうに。
(待てよ。〈呼ばい〉……「心臓もち」が、ここにいるはずだ)
「ロイ!」フィルは再び叫んだ。「おい、ロイ、無事か? 近くにいるのか?!」
可能なかぎり首をめぐらせてみると、右奥にロイのものらしいズボンの色が見えた。が、フィル同様瓦礫の下じきとなっており、胴体は確認できなかった。
そして左側、作業台のない窓の近くには、クルアーンのものらしい節くれだった手があった。どちらからも応答はない。作業台の下にいたロイはともかく、崩落の直撃を受けたクルアーンが生きている可能性はかぎりなく低かった。
おそろしく静かだった。もしかしたら、聴覚がおかしくなっているのかもしれないと思うくらいに。視界も、しだいにまた暗くなってきて……。
「くそっ……」
――こんなところで、俺は死ぬのか。あのキャンピオンの予言どおりに。
焦りと絶望がおしよせてくる。それを味わう間もなく、ふたたび意識が遠のいていった。
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