四 幽歩道(2)

「――うんん…………はあ……今、何時だ?」


 真人の葬儀に出席した翌日の朝、俺は泊まったペンションの一室でずいぶんと早くに目を覚ました。


 枕もとのスマホを手にとってみると、時刻はまだ5時半前。朝の弱い俺としては珍しい早起きである。


 ベッドの上で上体を起こすと、全身ぐっしょりと寝汗をかいている……よくは憶えていないが、なんだか悪い夢を見ていたような気する……それも、あずさが命を落とすみたいな縁起の悪い……。


やはり、この建物の裏山が真人の亡くなった現場だという事実に影響されたものであろうか?


 悪夢の残滓のように寝覚めの悪さを感じていたが、俺はベッドからのそのそ降りると古風な木造の窓に近づき、瀟洒なレースのカーテンを開けて外の様子を眺めてみた。


 俺の割り当てられた部屋は二階にあり、その窓からは建物の面した湖畔の景色が一望できる……夏だけあって、この時間帯でも外はもう白んでおり、蒼白い光に包まれた世界の中、薄らと湖上に霧の立ち込める光景はなんとも幻想的だ。


 このペンションはもともと別荘だったという話だが、確かにこのロケーションならば、この村が避暑地として人気があるのも頷ける。


 ……しかし、昨日はありすぎってくらい、いろんなことがあったな。


 いまだ夢でも見ているかのようにぼんやりとした頭のまま、そんな美しい湖の風景を眺めながら、昨日あったことを思い返してみる……。


 幸信達旧友との久方ぶりの再会も大きな出来事であったが、その印象が薄らぐくらい、真人の死におかしな点のあったことは俺の心を激しく動揺させた。


 いや、動揺したのはそのせいばかりじゃない。その死の原因に、もしかしたら俺の見たあの〝白いワンピースを着た真っ白い肌の少女〟――〝シラコ〟と呼ばれる、この村で囁かれている都市伝説の幽霊が関わっているかもしれないのだ。


 それに、何かを隠しているような、あいつらの奇妙な態度……俺の失われた記憶――つまりは、俺がこの村を離れることになった心の病にまで、そのシラコが関係しているとでもいうのか?


 だが、だとしたら、やつらもシラコの都市伝説を以前から知っていたことになるが、あの時の態度からしてほんとに初耳だったみたいだし、なによりも調査をすると言い出したあずさの行動とは大いに矛盾してしまう。


 今日の昼、そのシラコについて調べた結果をあずさが報告してくれることになっているが……本当に真人はシラコに取り殺されたのだろうか? 昨日の夕方、ここで会った時にはなんだか意味深なことを口にしていたが……。


 真人のことといえば、奇しくもこのペンションの裏山がやつの転落死した場所だというのにも驚かされた。


 その上、その場所は俺達がこどもの頃によく遊んでいた場所でもあるのだ。


つまりは、このペンションの建つ湖畔も含め、俺もよく来ていた場所だということになる……無意識にもそんな所を宿泊先に選ぶとは、なんという偶然の悪戯であろうか!


 ああ、偶然といえば、昨日、あずさが言い残していった、俺達とはまた別の「意外なお客さん」という話。


 それは、真人の葬儀で偶然出会ったあの初老のご夫婦のことだった。なんと、あの二人も驚くべきことに、俺同様、このペンションに宿泊していたのである。


 ちなみに俺は二階の安部屋だが、やはりお金持ちなのか、二人は一階のちょっとお高価たかめなハイグレードの部屋だ。


 初めは真人が裏山で亡くなったのを知っていて、それであえて追悼の意を込めてここに泊まることにしたのかとも深読みしたが、話してみると前々からここを定宿にしているらしく、真人の死亡現場がすぐ近くであることを知った時はやはり大いに驚いたそうである。


 これまたなんという偶然! ここまでくると、最早、偶然ではなく、何か超常的なものの力が働いているのではないかとさえ思えてきてしまう。


 もしかして、俺がこの村に帰って来たことからしても、その〝何か〟の意図したものだったとしたら……そして、それこそが〝シラコ〟なのだとしたら……。


 やはり、当時、俺が心を病んでいたこととシラコは関わりがあるのか? ……都市伝説の話の通りならば、もしかしてその頃、俺もシラコに命を取られそうになって、それで記憶を失う程の心の病に……。


「……っ!? あ、あれは……」


 早朝の静かな湖畔の情景を眺めながら、昨日知り得た情報を思い返し、そんな普通に聞けばトンデモとしか思えないような可能性に辿り着く俺であったが、ふと視界の隅に映った水辺に立つ白い影に焦点を合わせると、その思考は一瞬にして吹き飛んでしまう。


 その白い影――それは、あの〝白いワンピースの少女〟だったのである!


 それも、ただそこに突っ立っているだけではない。麦わら帽子の下に覗く白い顔には、淋しいいような、悲しいような、なんとも恨めしそうな表情を浮かべ、こちらをじっと見上げているのだ……明らかに、俺のことを見ているのである!


 それがなんであるかを認識した瞬間、俺は一瞬も躊躇うことなく、無意識の内に部屋の外へ飛び出していた。


 真人を殺したシラコの霊かもしれない彼女の姿を目にしても、不思議と恐怖のような感情は感じられなかった。


 それよりも好奇心……いや、違うな。なんだかその正体をどうしても確かめねばならないような、そんな使命感みたいなものに支配されていたのである。


 部屋を出ると木彫の手摺りのついた階段を駆け下り、しんと静まり返った建物内を走り抜けて玄関へと急ぐ。まだ宿のオーナー夫婦も起きてはいないようだったが、かまわずドアの鍵を開けて朝霧の中へ突っ込んで行った。


 こんな急な外出にも、パジャマではなくTシャツと短パンで寝ていたのが幸いした。玄関を転がり出ると建物を回り込み、早朝の、夏とは思えない肌寒さの空気を掻き分けて少女のいた水際へとひた走る。


「あれ? どこ行った……?」


 だが、俺がその場所へ辿り着いた時には、もうすでに彼女の姿はそこになかった。


 一面、蒼白い夜明け前の薄明りに染まった世界をぐるりと見回し、俺は少女の白いワンピースをその中に探す……。


「…………いたっ!」


 すると、いつの間にそんな所まで移動したのか? そこからは20m近く離れているのだが、彼女は湖畔から周囲の森の中へと続く遊歩道の入口に立っていた。


 薄明りの中、目を凝らすと、やはり憂いを湛えた表情をその白い顔に浮かべ、こちらをじっと見つめている。


「……あっ! ちょ、ちょっと待ってっ!」


 そして、俺がそちらへ一歩足を踏み出そうとした瞬間、彼女は急に走り出し、森の遊歩道の中へ消えて行ってしまう。


「ま、待ってくれっ! ……くそっ…!」


 やむなく俺も、再び全速力で彼女の後を追った。


 湖の傍を90°に折れ、森の樹々に囲まれた遊歩道へ入ると、10mくらい前を走る少女の後姿が見える。


 よし。これならすぐに追いつける……そう思い、さらに足を加速させる俺だったが。


「……ハァ……ハァ……な、なんでだ……?」


 相手はこどもだというのに、どんなに走っても追いつくことができない。それも不思議なことに、見た感じはそんなに速いスピードで進んでいるようには見えないのにだ。


「…ハァ……ハァ……ま、待って……」


 爽やかな朝の森の空気に美しい黒髪をたなびかせ、長い距離、俺と同じ速度で走ってるはずなのに息一つ乱していない少女の白い背中を追いかけ、対照的に心肺機能の限界を覚えながらも俺は必死で走る。


 …………あれ? なんだろう、この感覚は?


 だが、心臓と肺が破れそうなほどの苦しさを感じる中、俺の脳裏にふと、この場にはそぐわない奇妙な感覚が去来した。


 懐かしさ……というのが一番近いだろうか? 緑の木々が生い茂る深い森の中、こうして少女の背中を追いかける光景に俺はなぜか見憶えがある……俺はどこかで、たぶん、これと似たようなシチュエーションを経験したことがある……だとすればどこだ? 考えられるとすれば、やっぱりこどもの頃に……。


「……ハッ!」


 と、その瞬間、突然、少女はくるりと向きを変え、遊歩道から脇に茂る樹々の間へと分け入ってしまう。


 慌てて俺もそこへ到り、彼女の入っていった森の中を覗うと、少し行った先にある切り株の前に、少女はこちらを向いて立っていた。


 そして、やはり淋しげな表情を浮かべたまま、すうっ…と、森の気に溶け込むかのようにしてどこへともなく消え失せてしまう。


「なっ……!?」


 明らかにこの世のものではない現象を目の当たりにし、唖然と俺はその場に立ち尽くしたまま、少女の消えた切り株の辺りをじっと見つめ続けるのだったが、その内にふと、切り株の前に何か異物の転がっていることに気がついた。


 それは、周りの草木とは異なる質感の物体……ジーンズの布切れ? ……いや、人形? ……い、いや、そうじゃない! 人間だ! 下草の間から見える、その布切れのようなものから肌色の手足が生えた物体――それは、そこに倒れている人間のそれである!


 見た感じの服装からして女性だろうか? ここからでは生死はわからない……なぜ、そんな所に倒れているのか知らないが、まだ息があるのならば救急車を呼ばねば。


「……あ、あのう……大丈夫ですかあ?」


 俺はゆっくりと、慎重に下草を踏みしめるようにしてそちらへ近づき、全容の見えてきたその人間と思しきものにおそるおそる声をかける。


「…………っ!」


 だが、その…彼女の顔を見た瞬間、俺の体の中を流れる血は一瞬にして凍りつき、石のようにその場で固まると絶句してしまう……。


 そこに倒れていたのは、頭から伝うドス黒い流血に知的なおでこを無惨に汚し、もうすでに冷たくなっている松本あずさだった――。

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