第79話 Extend birthday 前編

 今日は思考が追い付かない出来事が本当によく起こる日だ。


 帰宅したら部屋の前に瑞樹がしゃがみ込んで寝てたり、誕生日を祝ってくれるって言い出したりと、それだけでも混乱してるってのに今は買い出しから帰ってきてみれば瑞樹が飛んできて抱き着いてきて大混乱だ。


 彼女が俺の胸元に顔を埋めている。

 小さな肩が震えていて、背中に回した彼女の両手が俺のジャケットを握り締めていた。


(……いったい……なにが)


 俺の左腕は自分の体と瑞樹の体重を支える為に床に手をついて踏ん張ってるんだけど、利き手の右手が行き場を失って宙を彷徨っている。


 正直、今の瑞樹がどういう感情を揺さぶられて涙を流しているのか分からない。

 だけど、抱き着いてくる直前に、一瞬だけど口角が上がっていたように見えが気がする。


 思えば瑞樹が俺の前で涙を見せる度に、新しい姿を見せてくれた。始めは注意深く見てないと、見逃しそうになるくらいの小さな変化だった。

 でも、合宿や夏祭りに駅前と次第に変化が大きくなっていった。

 そして、俺の部屋で瑞樹が中学時代のトラウマを話してくれた時、彼女が何かを脱ぎ去ったように感じた。


 それからの瑞樹はクラスメイト達との距離をとらなくなり、ずっと自分を偽ってきて過ごしてきた時間を取り戻そうと、高校生活を楽しむようになった。


 そんな話を嬉しそうにする姿が、俺にはとても眩しく映ったものだ。


 だけど、今の彼女から感じる雰囲気は、今までと違う感じがする。言葉にするのは難しいんだけど、何と言うか帰ってこれたという感じだろうか。


 そんな事を考えていると、ずっと宙を彷徨っていた右手の使い方がわかった。


 俺は自分の胸元に顔を埋めている瑞樹の頭にそっと右手を添える。サラサラの髪の流れに沿って優しくゆっくりと撫でると、綺麗な髪の上を右手が驚く程滑らかに流れていく。


「……ん」


 瑞樹の嬉しそうな声が漏れる。

 どうやら撫でられるのがお気に召したらしい。


 暫く黙って髪を撫で続けていると、肩の震えが止まり、両腕に入っていた力がスッと抜けて、殺していた小さな泣き声も何時しか聞こえなくなっていた。


 腕の中にいる瑞樹に声をかけようとした時、彼女の体がゆっくりと離れた。

 だけど彼女は俯いたままで、どんな顔をしているのかは伺えない。

 そんな彼女に今度こそ声を掛けようとしたが、瑞樹が動き出すのが一瞬早かった。

 瑞樹は床にペタッと座り込み、両手も床に着けた状態で見えなかった顔を見せるように俺を見上げる。

 瞳にはまだ涙が残っていて、その涙にオレンジ色をした部屋の照明が反射してとても美しく見えた。

 彼女は俺を見つめたまま、言葉を発する事なく口を動かしている。

 その動きをジッと見ていて『間宮さん』と言っている事に気付いた時、体が一瞬で熱くなるのを感じて部屋の空気までもが確かに変わった。


『何も言わずに』瑞樹が抱き着いて俺に言った言葉。

 この言葉は、瑞樹が唱えた呪文だったのかもしれない。

 それから何も話せず、瑞樹も何も発する事もなく、無言のまま口だけを動かして俺の名前を告げた時、彼女の呪文が完成したのだと思った。


 魔法にかかった俺は、ずっと抑えてきた気持ちを隠せなくなった。


『瑞樹志乃を好きだという気持ちを』


 深く澄んだ瞳を見つめていると自然と引き寄せられそうになり、上体を少し彼女の方へ傾けると、ずっと俺を見ている濡れて小さな光を放っている瑞樹の瞳が静かに閉じられていく。

 俺はそのままゆっくりと吸い込まれる事に抗わず、彼女の顔に自分の顔を近付けていく。

 お互いの吐息が聞こえてきそうな距離まで近づいた時、俺には効果抜群だった瑞樹の呪文はどうやら無機質な物質には効果がなかった事を知る。静まり返った部屋に安っぽい電子音の聞き慣れたメロディーが鳴ったのだ。

 日常生活の中では気にならない程度の音量なのだが、物が極端に少ないこの空間では十二分によく響き、お互いがお互いの存在だけを受け入れていた俺達の思考を現実に引き戻すのには十分な威力があった。


 空気をぶち壊した電子音の正体は、瑞樹がセットしておいてくれた炊飯器が炊き上がりを知らせる通知音だった。

 チープな炊飯器の通知音が魔法を解除してしまった瞬間、俺達の唇と唇が重なる寸前で何かに弾かれるようにパッとお互いの顔から離れた。


 我に返って、お互いの目が大きく見開かれる。


「あ、はは……。さ、さてと! 買い出しもしてくれた事だし、急いでご飯作るね」

「……あ、あぁ、な、何か手伝う事ないか?」

「だ、大丈夫! さっきも言ったけど、間宮さんは主役なんだから今度こそゆっくりしてて」

「……ん、わかった。でも、何かあったら言ってくれよ?」

「はーい」


 ゆっくりしてろと言われても、ついさっきの事を思い出すと呑気にテレビなんて見る気も起きない俺は、カウンター席に座って黙って料理をする瑞樹の手元を眺める事にした。


 料理に取り掛かった瑞樹の顔はまだ赤いままだったけど、手慣れた手付きで下ごしらえを進めていき、初めて立ったキッチンとは思えない程に彼女の動きに無駄がなかった。


(でも、なんていうか……急ぎ過ぎてる気がする)


 急ぎ過ぎて怪我でもしたらと心配になった俺は、慌てなくてもいいと声を掛けようとした時「痛っ!」と声を出した瑞樹が自分の指をついさっき俺の唇が触れようとした口に当てて、切り口から出てくる血を吸った。


(言わんこっちゃない!)


 俺は山積みにしてある段ボールから救急箱を取り出して絆創膏を手に持って、すぐに瑞樹の元へ戻った。


「え? だ、大丈夫だよ」

「血が出てんじゃねえか」


 俺はまるで壊れ物を扱うように、白くて細い指から真っ赤な血が滲み出てくる傷口に絆創膏を巻いていく。


「……あ、ありがと」

「ん、気を付けてな」


 小さくて柔らかい手から瑞樹の体温が伝わってきて、何だか照れ臭い。

 瑞樹も同じ事を思ったのか、モジモジと頬がまた赤く染まっている。

 そんな時、俺が付けている腕時計と料理前に外していた瑞樹のペアになっている腕時計から、同時に同じ電子音が鳴った。


「あ、ああ! お、終わっちゃった……」


 瑞樹が急にキッチンに両手をついて項垂れて、声を上げた。


「ビックリした! 急にどうしたんだよ」

「……終わっちゃったの」

「何がだよ」

「……日付が28日になったから……間宮さんのお誕生日が終わっちゃったの!」


 お互いの腕時計から知らされたのは、午前0時を知らせるアラームだった。つまり瑞樹が言うように、俺の30歳の誕生日の終わりを告げた事になる。


「何とかご飯だけでも食べて貰うおうと思ってたのに……おめでとうだって言えてなかったのに……」


 悔しそうにそう話す瑞樹だったけど、あの時間からだと一流のシェフだって無理があったはずだ。

 それでも本気で悔しがる彼女に、心が温かくなるのを感じた。


「……間宮さん、ごめんね。私が抱き着いて泣いたりしたから」


 完全に料理を中断してキッチンの床にしゃがみ込んでしまった瑞樹に、俺はカウンターに頬杖をついてクスっと笑みを零す。


「なぁ、瑞樹」

「……なに?」

「誕生日を延長する方法があるんだけど――聞くか?」

「え? それホント!? ど、どうすればいいの!?」


 瑞樹は誕生日を延長出来る方法があると聞くと、物凄い勢いで立ち上がってぐいぐいと詰め寄ってくる。想像以上の喰いつきに俺は思わず椅子から落ちそうになる程に身を仰け反った。


「はは、びっくりした! これは親父の持論なんだけどな――」


 俺は昔を懐かしむように、瑞樹に誕生日の延長方法を話始めるのだった。


 ◇◆


 あれは俺が小学校3年生の時だったと思う。

 その日は俺の誕生日で、仕事に追われている親達も今日は早く帰ってお祝いしようと言ってくれていたから、朝からずっと楽しみにしてたんだ。


 学校から帰ると、妹の茜と弟の康介が婆ちゃんと一緒に部屋の飾りつけをしてくれていて、様変わりした部屋を見て今日は自分が主役の日なんだと心を躍らせていた事を、今でもハッキリと覚えている。


 メインの料理は親達が買ってくる事になってたから、婆ちゃんが副菜を作っているのを隣でわくわくして見てた。


 準備は滞りなく終わって、後はメインの料理を持った親達が帰ってくるのを待つだけとなった。

 待ち始めの頃は妹達と誕生日プレゼントの事でわいわいとはしゃいでいたんだけど、予定していた時間を過ぎ始めた辺りからわくわくが段々とそわそわに変わっていった。

 まさか帰ってこないって事はないよなと一物の不安が過ったけど、俺はそんな不安を掻き消す様に何度も頭を横に振った。


 まだ幼児だった康介は早々に撃沈して、程なくして幼稚園児だった茜も夢の中に旅立ってしまった。

 婆ちゃんが2人を寝かしつけた後、親父に怒り口調で何度も電話をしているのを聞いて、俺は涙がボロボロと止まらなくなった。


 婆ちゃんはもう寝ようと促してきたけど、俺は意地になって待ってると起きていたら、親達は23時過ぎに帰ってきた。

 結局祝えなくてごめんと謝って終わるんだと思ってたんだけど、親達は買ってきたメインの料理を温め直して、パーティーの準備を始めだしたんだ。


 俺は何をやっているのかと訊くと、親父が当然のように俺の誕生日パーティーをやるんだと言う。


 俺は「もう誕生日は終わったで」と言ったんだけど、2人共準備を止めようとしない。


 結局テーブルの料理が出揃って俺達が席に着いた頃には、とっくに日付が変わっていて誕生日は完全に終わっていた。


「お父さん、お母さん、もう僕の誕生日は終わってもうたで」

「何言うとんねん! 良介の誕生日はまだ終わってへんで!」


 俺は親父が何を言ってるのか理解出来ないと首を傾げたんだけど、親父は得意気にこう言ったんだ――。


 ◇◆


「寝んかったらまだ27日! お前の誕生日やってな」

「――ぷっ! あははっ! 何よそれ!」


 落ち込んでいた瑞樹だったけど、親父の名言がツボに入ったみたいで吹き出して笑いだした。


「あの時はハァ!? って感じだったけど、今思うと要は気の持ち方次第って事なんだろうな」

「ふふ! そうなんだろうね。雅紀さんらしい」


 結局あの夜は午前3時くらいまで誕生日を祝ってくれた。

 小学3年生をこんな時間まで起こしてまでした事は親父達の自己満足だろうって愚痴りながらも、眠い目を擦りながら最後まで起きてたっけな。

 翌日の学校は強烈な睡魔との闘いで一日が終わった。

 親父の屁理屈のせいだって一日中ブツブツぼやいてたけど、今日初めてあの時の親父に感謝した。

 俺じゃ眠らなきゃ誕生日は終わってないなんて馬鹿な発想、思いもつかなかったと思うから。

 その馬鹿な持論のおかげで、落ち込んだ瑞樹の笑顔を取り戻す事が出来たんだから。


(そういえば、あの誕生日会の最後に食べたオカンの手作りのロールケーキ……美味かったな)

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