第77話 2人きりの再会 前編

「な、なんで……」


 衝動的に東京まで行って散々探し回って会えなかった瑞樹が、俺の部屋の前でしゃがみ込んでいる。


 余りの驚きに、思考が追い付かない。


 この状況に現実味を感じない俺は、漫画のように目をゴシゴシと擦ってからもう1度部屋の前を見てみたが、やっぱり何度見ても瑞樹がしゃがみ込んでいるようにしか見えない。


 しかも、よく見てみると眠っているみたいだ。


「お、おい! 瑞樹!?」


 どう考えても願望が見せた幻とは思えず、俺はしゃがみ込んで動かない瑞樹に声をかけてみたが、彼女からは何も反応がない。

 何度か同じように声をかけても、結果は同じだった。


 だけど、早く起こさないと風邪をひかせてしまうと、今度は声を少し大きくして呼びかけてみた。

 すると、しゃがみ込んでいる瑞樹の肩がビクッと跳ねたかと思うと、勢いよく顔を上げて俺に顔を見せた。


「……ま、間宮……さん」


 お互い目を見開いて見つめ合っていると、ハッと我に返ったかのように立ち上がろうとする瑞樹の顔が歪んだ。


「ッ!!」


 立ち上がろうとして急によろめき、咄嗟に通路の手すりにしがみ付いて難を逃れた瑞樹に、ハッと我に返り慌てて駆け寄る。


「お、おい! どうしたんだ!?」

「あ、はは……長い時間しゃがみ込んでたから、足が痺れちゃって……」


 よく見ると、春物のロングスカートから覗かせている白い脚が、プルプルと震えているのが分かった。


「一体、いつからここに……」


 あの痺れ方は、ちょっとやそっとじゃならないはずだ。

 一体瑞樹はいつからここにいたんだ?


「ん-。しゃがみ込んだのは8時くらいだったと思うけど、ここに着いたのは5時過ぎだったかな」


 という事はと、腕時計で時間を確認したら午後10時をかなり過ぎていて、2時間以上この場にしゃがみ込んでいた事になる。

 あの痺れ方を見るに、納得出来る時間だった。


 それに、こいつは5時間以上も俺を待っていたのか?

 何でそこまでして……。


「あ、そうだ。これ!」


 言って、瑞樹は痺れる足を無理矢理踏ん張らせて、足元に転がっていた黒い大きな巾着袋を拾い上げ、袋ごと俺に投げ渡してきた。


 袋を受け取った俺は、袋の形で中に何が入っているのか直ぐに分かった。

 袋から取り出した物を床に勢いよく落として、ドンドンと久しぶりの音を響かせてみると、口角が自然と上がる。


「これって俺のボールだよな」

「そうだよ、持ち主に置いて行かれて寂しそうだったから、持ってきたの」

「バタバタと東京を離れたから、すっかり忘れてたよ。ありがとうなって! そうじゃなくて!」


 訊きたい事が山ほどある。

 俺はその場で質問攻めを始めようとしたんだけど、彼女の表情が僅かに歪んでいる事に言葉を詰まらせる。

 本人は平静を装うとしてるみたいだが、時折我慢できない痛みがあるようだった。


 とりあえず、部屋の中に誘う場面なのかもしれない。

 だけど、、彼氏がいる女の子を1人暮らしの男の部屋に入れるというのは、どうにも抵抗があった。

 しかも、目の前にいる女の子と彼氏の邪魔をしに東京まで行ってきた俺としては、この状況をどうすればいいのか見当もつかないのだ。


 手すりに掴まっている瑞樹の足は相変わらず小刻みに震えていて、このままここに立たせる罪悪感に耐えられなくなり、俺は頭をガシガシと掻いて溜息をつくように迷っていた言葉を吐きだした。


「とりあえず足の痺れ辛そうだし、こんな場所で立ち話もなんだから、散らかってるけど中に入るか?」

「……いいの?」

「岸田には黙っとけよ」


 俺は岸田の事を考えるとバツが悪くなったが、これは緊急事態だからと自分に言い聞かせながら玄関の鍵を開錠してドアを開けた。


 荷物を持つのも大変だろうからと、ドアの側に置いてあった瑞樹の荷物らしきバッグと、その脇に置いてある可愛らしい箱を拾い上げようとすると「ちょっと待って!」と慌てたような瑞樹の声が飛んできた。


「え? なに」

「その箱は私が持つからいい!」

「いや、でも……」

「いいから! 悪いけど、バッグだけ運んでくれると嬉しい」


 必死に止めようとする瑞樹に釈然としなかったが、俺は言われた通りにバッグだけを持ち上げると、瑞樹は辛そうな顔つきで箱をゆっくりと慎重に拾い上げていた。


 瑞樹は呟くように「お邪魔します」と言って玄関に入り、下駄箱に掴まりながらゆっくりと靴を脱いだ。


 靴を脱いでいる瑞樹が不憫に感じた俺は、彼女に掴まれと手を差し伸べる。


「う、うん。あ、ありがと」


 差し伸べた手を恐る恐る掴まった事を確認した俺は、グッと力を込めて瑞樹を引き上げるようにリビングへ誘導した。


 俺がゆっくりとリビングへ誘導っして部屋の電気をつけた時「なに……これ」と瑞樹が目を見開いて部屋を見渡した。


 シンプルイズベストという言葉がある。

 それは無駄を省いた状態が良いという意味で、確かに俺は以前彼女にシンプルな物を好むという話をした事がある。

 だが、この部屋はシンプルを通り越して、物が極端に少ない殺風景な部屋だった。

 まず、リビングのど真ん中に何故かマットレスだけのベッドが鎮座しているだけで、テーブルすら見当たらない。

 テレビは一応あるのだが、テレビ台などなくフローリングに直置きにしていて、リビングにあるのはそれが全てだったのだ。

 対面式になっているカウンターキッチンには辛うじて冷蔵庫はあるものの、生活感などまるで感じられない状態だ。

 引き戸式になっているドアから見えるのは寝室なのだが、そこにはベッドなどなくて封が開けられた段ボールが数個積み上げているだけで他には何もないのだから、彼女が驚くのは無理もない。


「その足じゃ床に座るのは辛いだろ」


 俺は彼女の辛そうな足を気遣って、カウンターテーブルに設置している専用の座面の高い椅子に座るように勧めた。


 瑞樹は「ありがとう」と礼を言いながら椅子に座ると、足がかなり楽になったようで、彼女の表情が和らいだように見えた。


「珈琲でいいよな」


 それから変に沈黙が流れてしまって居たたまれなくなった俺は、咄嗟にキッチンに向かいながら瑞樹に問う。


 殺風景で生活感のない部屋だったが、珈琲だけはちゃんと淹れているのは、それだけ珈琲が好きなのだ。


「早速色々と訊きたい事があるんだけど、取り急ぎ2つ訊いていいか?」


 俺は珈琲を淹れる準備をしながら、まずすぐに知りたい事を質問しようとした。


「え? あぁ、うん」


 瑞樹はまだこの部屋の異常さに辺りを見渡していたが、俺がそう声をかけて我に返り頷く。


「まず、瑞樹はどうしてここの住所を知ってたんだ? 松崎にすらまだ教えてなかったはずなんだけど」

「……涼子さんに教えてもらったの」

「りょう……こって、オカンか!?」


 そういえば、入院中にオカンから瑞樹の番号が入った携帯を渡された事があった。てことは瑞樹がオカンの番号を知っていても不思議じゃないのか。

 それに、退院して実家から新潟に向かう時、荷物を持っていくのが大変だったから郵送で送って貰う事になって、ここの住所を教えてたんだった。


(そうか……そこまで頭が回らなかったな)


「ストーカーみたいな事して……ごめんなさい」

「いや、連絡しなかったのは俺なんだし……な」


 住所の出所が分かった事で、当然のように次の疑問が湧いて来る。


「じゃあ2つ目の質問だけど、瑞樹はここへ何しに来たんだ?」


 岸田との関係を邪魔しようと東京まで行った奴がどの面下げてとは思うが、それなら余計に瑞樹がここへ来る理由に見当がつかなかった。


「それは……間宮さんのお誕生日をお祝いする為だよ」

「俺の……誕生日?」


 この子は自分が何を言っているのか分かってるのだろうか。

 岸田と付き合ってる彼女が他の男の誕生日を祝う為に、1人暮らしの男の部屋に来る事がどれだけ馬鹿な事をしているのかを……。


「な、何言ってんだよ! 岸田がこの事知ったらどうなるか、お前にだって分かるだろ!?」

「違うよ……。そうじゃなくて、岸田君とはその……駄目になったの」

「……え?」


 駄目になった? 

 それは別れたって事か!?

 岸田が瑞樹にとってどういう存在かは、中学時代の話を聞いて知っている。

 岸田が瑞樹の事をどれだけ想っているのかも、名古屋で話をして思い知らされた。

 その2人が付き合いだしたんだぞ!?

 こんなに早く別れてしまうなんてあり得るのか!?

 どう見てもお似合いのカップルだったはずだ。

 ……俺が嫉妬して、東京まで行ってしまう程なんだぞ!?


 呆気にとられて言葉を失っていた俺に、瑞樹はまっすぐ俺を見つめたまま「でもね」と続ける。


「別れたからここへ来たわけじゃないんだよ?」

「いや、だって……」

「岸田君と別れていなくても、今日だけは絶対にここ来て間宮さんのお誕生日をお祝いしてた」

「バッ! そんな事したら岸田に余計な疑いを向けられんだろ!? それが原因でそれこそ駄目になってしまう事だって!」


 そうだ。岸田は瑞樹のそんな行動を許すタイプではないはずだ。

 わざわざ瑞樹と付き合う事になったのを、病室にいる俺に宣言しに来るような奴なんだから。

 今思えば、あの時は頭が回らなかったけど、あれは俺にもう彼女に近づくなと釘を刺しに来たんだろう。


「例えそうなったとしても、私は絶対に来てました」


(どうして……そこまでして……)


 瑞樹の強い意志がこもった目に、俺は言葉が継げなくなってしまった。


「というわけで、早速お誕生日会を始めよ!」

「は? いやいや、ちょっと待て! そんな事してたら今日中に東京に帰れなくなるだろ!」

「はぁ……あのね、間宮さん。今何時だと思ってるの?」


 言われて壁にかけてある時計を見やると、すでに23時を少し回った所を指していた。


「そういえば、帰ってくるの遅かったんだった」

「そうだよ。今からどうやって東京に帰るの?」


 確かに電車はもう絶望的だ。かといって、まだ実家から車を引き取っていない俺には、車で送って行く選択肢もない。

 タクシーという手段があるにはあるが、東京までの距離を考えると現実的ではないだろう。


「こんな時間になったのは、間宮さんが帰ってくるのが遅かったらかなんだからね! どこ行ってたの? 今日はお仕事お休みだったんだよね?」


 瑞樹の心配をしていたら思わぬ反撃を喰らってしまい、動揺を隠せずに目が泳いでしまった。


「どこって……まぁ、その……色々だよ」


 咄嗟に誤魔化したけど、下手な誤魔化し方だったのは自覚してる。だけど、この状況でとてもじゃないが、目の前にいる瑞樹に会いに東京に行っていたなんて言えるはずがない。


「間宮さんのせいってのは冗談だけどね。夕方にここに来るって決めた時点で、日帰りなんて無理なのは分かってたし」

「じ、じゃあ、どうするつもりなんだ?」

「事前に調べておいたんだけど、駅前にネカフェがあるでしょ? そこで朝まで時間潰して始発で帰るつもり。だから間宮さんに迷惑かけないから安心して」


 そのプランのどこに安心できる要素があるのだろうか。

 まず、ここから駅までは徒歩だと結構な距離になる事だ。

 こんな時間に彼女のような若い女性が、1人歩きしていい距離ではない。

 まぁ、それは俺が送って行けばいい話なんだけど、行く先のネカフェにも問題がある。

 昨今、ネカフェ絡みの事件が相次いでいると聞く。

 そんな場所に朝まで1人でいるなんて、心配の種しか存在しないではないかと思うのだ。


「……今晩はウチに泊まっていけ」

「……えっ!?」

「い、いや、違うからな! 変な誤解すんなよ!? お前がウチで寝て、俺がネカフェで寝るって事だからな!?」

「……泊めてくれるなら、間宮さんも一緒でいいじゃん。初めてってわけじゃないんだし……さ」

「バッ!? 変な言い方すんな! 大体あれだ! この前も思ったけど、瑞樹は俺を安全だと思い込み過ぎなんだよ!」

「どういう事?」

「だから俺だって男だって事だ! 安心なんてされても困るって事だよ!」


 俺は焦ったわけじゃなくて、少し腹がたって口調が荒くなってしまった。


「……別に、今まで1度も間宮さんは安心だからなんて……思った事ないもん」

「え? なんだって?」


 いきなり下を向いてボソボソと話ものだから、全然聞き取れなかった。


「別になんでもないでーす。冷蔵庫開けるよ」


 瑞樹は俺の追及から逃げるように、足の痺れが収まったのか颯爽とキッチンに入って冷蔵庫の中を覗き込んだ。


「うわー、冷蔵庫の中も生活感ないじゃん。ビールばっかり入ってるし!」

「男の一人暮らしなんて、そんなもんだろ」

「えー? 東京にいる時はまだマシだったと思うんだけどなぁ。普段何食べてたんだか……まったくもう!」


 男って奴はどうしてこういう時に素直になれないのだろう。

 確かに瑞樹の言う通り、東京に住んでいた時は割と自炊していたんだ。

 なのに、こっちに来てこんな生活を送っていた理由は『お前を諦めないといけないのが辛かったからだ』って言えばいいのに、わざわざ東京まで行って気持ちを伝えようとしていたのにも関わらず、くだらない見栄を張ってしまう俺って本当にくだらないと思う。


 瑞樹は簡単に冷蔵庫の中身とキッチン周りにある食材を確認してから、何やらメモを取り始めた。


「ねぇ、この辺りでまだ営業してるスーパーってある?」

「あるにはあるけど、ここからだと結構距離あるぞ」


 瑞樹はまだ営業している店があると知って良かったと安堵しながら、鞄から手帳を取り出して俺にそこまでの簡単な地図を書いて欲しいと言ってきた。


「え? 瑞樹が今から行くつもりなのか?」

「うん、勿論だよ。今日は間宮さんが主役なんだから、ゆっくりしてて。あ、でも自転車貸してくれると嬉しいかな」

「こんな時間に何言ってんだよ! 買い出しなら俺が行ってくるからそのメモ貸してくれ」

「でも!」

「いいから!」


 半ば強引に瑞樹が手に持っていたメモを奪うように手に取って内容を確認した俺が玄関に向かうと、瑞樹もまだ少し違和感がある足を気にしながら玄関先までついてきた。


「あの、ごめんね間宮さん。お祝いなのに結局手伝わせちゃって」

「それは別にいいから、気にすんな」

「うーん……、やっぱり私が買い出しに――」

「――携帯の充電器は持ってるのか?」

「……へ?」


 また自分が行くと言い出しそうだったから、俺はそれを遮って話を全然違うものに変えた。


「え? う、うん。持ってるけど」


 泊まる場所はまだ決まっていないが、今日中に帰れなくなったのは間違いない。

 だから、俺が買い出しに行っている間に携帯を充電して親御さんに連絡しておけと告げて、これ以上瑞樹に有無を言わさずに部屋を出た。

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