第57話 追い求めるもの
「私も炒飯取ってきます」と隣に座って焼いた肉を頬張っていた川島が立ち上がり、皆が集まって列を作っているコンロの方に向かおうとした足が、数歩進んだ所で止まった。
「あ、そうだ! さっきの話なんですけど」
さっきの話? あぁワザと言ってるのかってやつか。バカな事して凹んですっかり忘れてた。
「うん」
「彼女、絶対に間宮さんの事が好きですよ。それもかなり!」
「何でそう言い切れんの?」
「あっはは! 言い切れちゃいますねぇ。だって、あの時のあの子の目。あれは完全に恋する乙女の目でしたから!」
「恋する乙女の目……ね」
「――なぁんだ」
「ん?」
「驚かない所を見ると、心当たりがあるんですね」
心当たり……か。川島さんのいうゼミでの時点では、そんなものはなかった。いや、正確には今でもそんなものはない。
ただ、もしかして――と思った事はあるが、あまりにもバカバカしい発想だったから、自意識過剰かよとそんな意識に蓋をしてきたんだ。
「ま! 自覚があるなら、私の出る幕はなさそうですね! それじゃ炒飯取ってきまーす!」
言って、手を振って皆が集まっている方に駆けて行く川島さんの背中を見送ってから、俺は額に両手を当てて俯いた。
川島さんの言葉を受けて、ずっと否定してきた事に目を向ける事にしたのだ。
かなりご都合主義な考え方を敢えてしてみようと思う。
こんなの誰かに言ったりしたら、絶対に妄想癖があるとか言われてしまうだろう。
もし――もしもだ。
もし、瑞樹が以前から俺の事を好きなってくれていた体で、今までの彼女の主だった行動を検証してみよう。
例えば、あの文化祭が終わった時、マンションの前にずぶ濡れの瑞樹が俺を待っていた時だ。
俺は早く瑞樹を家に帰す為に出したとんでもない条件を飲んで、瑞樹がウチの風呂でシャワーを浴びた事なんてどうだろう。
俺はかなり焦ったけど、瑞樹が無警戒に家に上がってしかもシャワーまで浴びたのは、俺を兄のように慕っていて信用しているからだと思っていた。だけど、本当は好きな男の部屋だから――もし、そんな事になったとしても覚悟の上だと思っていたのだとすれば……俺はあいつに物凄く酷い事をしてしまったのではないだろうか。
これまで何度か俺の腕の中で泣いた事もそうだ。
その殆どが俺の方から引き寄せたんだけど、妹的な意味で兄に甘える感覚でそれを受け入れたのではなくて、好きな男の腕の中だから無防備に涙を見せたのだとしたら……。
俺が風邪でライブに行けなかった日も、瑞樹は一目散に俺の元にやってきた。
後で茜から聞いた話によると、あいつはマンションの中に入れなくてエントランス前でしゃがみ込んでいたらしい。
兄と慕ってるだけの相手に、果たしてそこまでするだろうか。
極めつけに、俺が刺されて意識が戻ったあの朝だ。あいつが引き続き看病すると言い出した事。確かに責任を感じてというのもあったのだろうとは思う。だけど、本当にそれだけだったのだろうか。
意識のない不思議な夢の中で、俺は優香に自覚した気持ちを打ちあけた。
だからこそ、意識が戻った後も泊まり込むと言ったあいつの言葉が気に入らなかった。いくら傷が痛んでまともに動けないとはいえ、個室に入院している意識が戻った俺と寝食を共にするというのはあまりにも無警戒だったからだ。だから俺は、男としてみられていない事が気に喰わなくて彼女の気持ちを迷惑だと突き放したのだ。
でも、もし――瑞樹が俺の事を男としてみていて、俺を好きだと思ってくれていたとしたら……。
◇◆
そこで午前0時を知らせる電子音が、俺が愛用している瑞樹とのペアになっている腕時計から鳴った。
ずっと目を閉じて29歳になってからの事を振り返っていた俺の瞼が自然と開いた。
……すごいな。
10代を振り返る時でも、こんなに時間かからなかったんだけど、まさか日にが変わるまでに間に合わないとは思わなかった。
結局あのBBQの時に描いたご都合主義の妄想は、意識の奥に仕舞い込んで考えないように新天地での仕事に打ち込んだ。
いや、考えないように努めただけだ。今更、どうしようもない事なんだから。
あいつは岸田と上手くやって、今頃キャンパスライフってやつを楽しんでいるのだから、今更俺が出張っても場違いってものだ。
だけど、今日だけはどうしても考えてしまうのは仕方がないだろう。だって、29歳になった1年間の中心にいたのは間違いなく彼女なんだから。
あれだけ濃い時間を過ごしたというのに、いざ30歳になってみたらと、俺は自分の新しい部屋を見渡してみた。
リビングの端に小さなテーブルが置いてあって、部屋のど真ん中にまるで適当に敷いた布団のようにマットレスが置いてあるだけ。一応1LDKの部屋で寝室があるにも関わらずリビングにマットレスが置いてあり乱れたシーツもそのままだ。どれだけ今の部屋に興味がないのかが分かる。
食器類も必要最低限の物だけ段ボールから取り出して、他の物は未だに箱の中で眠っている。
元々東京で住んでいたマンションは家具が備え付けだった為、殆どの家具を買わないといけないのだが、仕事以外の事はどうしてもやる気が起きなくて、買い物は近所のスーパーにしか行っていない。だから、この部屋には極端に物がなくて殺風景でやたらと広く感じる。
節目の年だってのに……どうしようもないスタートになっちまったな。
誕生日を迎えてそう独り言ちる言葉とは裏腹に、瑞樹と初めて会った日から丁度1年になるのかと、今は遠く離れた1人の女の子の姿を思い浮かべた。
1人を望んでいたはずだ。
もう誰も好きにならないと決めた……はずだったのに。
「今更考えても仕方ない……よな」
俺はすっかりぬるくなってしまった缶ビールを飲み干して、抱いてしまった気持ちや後悔を洗い流したくて浴室に向かった。
「もう、忘れよう」
湯船に浸かっていい加減気持ちを切り替えようと、そんな事を独り言ちて、俺は30歳になって初めての眠りについた。
◇◆
翌日、間宮にとって良いのか悪いのか、今年の誕生日は日曜日で仕事が休みだった。
いや良いのか悪いのかで言えば、間宮にとっては後者だろう。
休日に誕生日を迎えられたのだが、今の間宮には余計な時間でしかない。
離れてしまった瑞樹の事で後悔を引きずっている状況で、休日に誕生日を迎えても1人で部屋にいるだけで、忘れようとしている事をどうしても考えてしまう時間にしかならないからだ。
その点、平日であれば新しい環境に変わって覚える事だらけで、頭の中は仕事一色で余計な事を考える暇なんてなくなるからだ。
「1人で部屋に篭っててもどうしようもないよな。気分転換に、いい加減家具でも見に行ってみるか」
間宮は重い腰を上げて身支度を済ませると、そそくさと部屋を出て行った。まるで、空っぽのこの部屋から逃げるように。
間宮の住んでいるハイツは2階建てで、建ってからまだ2年程しか経っていない為、とても綺麗で洒落た外装になっている。
2階から降りてくるとすぐに駐車場があり、その一角に何も停まっていないスペースがあるのだが、そこは間宮が契約している駐車スペースだった。
東京にいる時は必要性を感じなかったからと、ずっと大阪の実家に預けていた車を引き取る為に、先に駐車スペースを確保したのだ。
川島が言うように、確かにここ新潟では間宮も流石に不便を感じていた。なにせコンビニに行くだけでもかなり距離があり、雨天時では自転車だと問題がある。
とはいえ、今の間宮の移動手段は自転車しかない。
年季の入ったあの黒い自転車は向こうで処分してもらって、こっちに来てすぐに新しい自転車を買い直した。
駐輪所に向かうと、その真新しい自転車が持ち主を待っていた。
折角だからと、以前から少し興味があったクロスバイクタイプの自転車を買ったのだ。
住んでいるハイツから仕事場まではそこそこ距離があるのだが、電車を使う程の距離ではない為、快適に走れる自転車にしようと奮発したのだ。
普通のシティーサイクルとは違い、片手で持ち上がられる程に本当に車体が軽い。
その軽さは絶大で、大した力をかけなくてもかなりのスピードが出るのだ。
間宮は新しい自転車の跨り、スピードを楽しみながらここから一番近くにある総合家具を扱っている店に向かった。
5月の下旬だったが、まだ梅雨独特の湿り気を帯びた空気ではなく、カラっとした爽やかで心地いい風が間宮の体を吹き抜けていく。そんな心地よい風に吹かれても、やはり間宮の頭の中は『あの事』で一杯のままで、気持ちの良い気候と反してその表情は一足先に梅雨入りしたものだった。
やがて目的地の看板が見えて来た。
自分の身に纏わりついている重い空気をスピードで置き去りにしようと、ペダルを漕ぐ足に更に力を込めようとした時、自転車のリアタイやがロックして小さなスキール音と共に、間宮の自転車は来た道の方に向いていた。
ペダルを力強く漕ぐのと同時に、力いっぱいにブレーキレバーを握った為、ブレーキがロックして車体が小さな白煙を上げて180度ターンしたのだ。いや、正確には自転車を180度ターンさせたのだ。
間宮はターンさせた自転車を斜め向きに支えながら俯き下唇をギュッと噛んだ時、腕時計から午前10時を知らせれるアラームが鳴った。
そのアラーム音がまるでシグナル音であるかのように鳴ると、俯いていた顔を上げた間宮は、再び勢いよくべダルを漕ぎ始める。
何も思ったのか、突然向かおうとしていた家具屋に背を向けて、明後日の方角に自転車を走らせたのだ。
スピードを上げてこまめに時間を気にしながら向かったのは、間宮のハイツから最寄りにある駅だった。
自転車を駐輪所に預けた間宮は駆け足で駅に向かい、丁度ホームに滑り込んできた電車の飛び乗った。
走り出した車両内で乱れた呼吸を整える事もせずに、窓ガラスに映っている困惑した表情をした自分の顔を見る。
まるで本能と理性が激しくぶつかり合って、理性を上回った本能が自分の体を使って行動したような、間宮の中にそんな不思議な感覚があった。
やがて間宮を乗せた電車が到着したのは、新潟駅だった。
電車を降りた間宮は早速時刻表に掲示されたダイヤを確認したかと思うと、口角を上げて窓口に向かう。
もう間宮の中で争っていた本能と理性の決着はついていて、今の間宮の体は勝利した本能が動かしていると言っていい。間宮の目にはもう葛藤は感じられなかった。
自由席の切符を買って急いでホームに向かい、後30分程で到着する新幹線を待つ間宮は、ホームの銀傘を見上げて大きく息を吐く。
新幹線のホームだけあって周囲にはスーツ姿の者達が多く、そうでなくてもしっかりとした服装の乗客達の中に、間宮だけどう見ても遠出するような恰好ではなかった。
近所の家具屋に行くつもりだったのだから当然だ。
だが、間宮はそんな事を気にする素振りもなく、ただ向かいたい場所に連れて行ってくれる物に飛び乗ったのだった。
飛び乗った新幹線はとんでもない速さで走り、約1時間後に間宮が降りた場所は、すでに懐かしさを感じる、東京駅だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます