第45話 間宮の海
私は重い荷物を引きずるように病院の1階に降りた。外来の開院時間前でまだ薄暗く、辺りは静まり返っている。
受付では数名のスタッフが準備に追われているようだ。
いつもなら受付のスタッフに挨拶してるところだけど、心中穏やかでない今の私にはそんな余裕もなく、黙って病院を出た。
病院の外に出ると、今朝は天気が良くて青空が広がっていた。
自分の気持ちと真逆な空を恨めしそうに見上げていると「おはよ! 瑞樹さん」と聞き覚えのある声が聞こえた。
「岸田君? おはよう。こんな朝早くにどうしたの?」
「間宮さんの意識が戻ったって連絡貰ったから、早速お見舞いにと思ってね」
愛菜に連絡した時、あの現場にいた岸田君に連絡しないのはおかしいと思ってメッセージを送っていた。それにしてもせっかちな程に早いお見舞いに苦笑するしかない。
「そうなんだ。でも一般の面会時間まで、まだ1時間以上あるよ?」
「え!? そうなの!? 病院にお見舞いとかした事なかったからなあ。どうりで病院の中が薄暗いと思ったよ」
岸田君の天然な行動に少し笑いが零れて、さっきまであった苛立ちが少し治まった気がした。
「ところで、瑞樹さんはそんな大きな荷物持ってどうしたの?」
「うん。これは……その」
「ああ! 一旦持ち帰るんだね。連日泊まり込んだら洗濯物とか溜まっちゃうもんね」
「……ううん。一旦じゃなくて、ホントに今から帰ることだったんだ」
意識が戻っても傍にいると思い込んでいたみたいだったから、私はついさっきの話を聞かせた。
「……間宮さんがそんな事を? ホントに?」
迷惑だと言われた事を解せないと言わんばかりに、岸田君が首を捻っている。
「こんな嘘つくわけないでしょ。そういう事だから私は帰るね」
大好きな人の事を想ってしようとした事を迷惑だって言われたなんて……冗談でも言われたくなかったな。
私は溜息をついて、ボストンバッグを肩にかけ直して「じゃあね」と帰ろうとした。
「まっいいか! それよりさ、瑞樹さんって朝飯食べた?」
言われてみれば、明け方に間宮さんの意識が戻って慌ただしくしてて、朝食の事なんて頭の片隅にもなかった。
でも、あんな事があった後だから思い出しても食欲はないんだけどと自虐めいた事を考えながら、私は岸田君に背を向けたまま首を横に振った。
「それは丁度よかった。俺もメッセージ見て急いで支度して出てきたからまだなんだ。よかったら一緒しないか? 勿論御馳走するしさ!」
「うん、いいよ。でも、それは私に御馳走させてくれない?」
「いや、、でも誘ったの俺なんだしさ」
「あの時、気が動転してて出来なかったんだけど、岸田君にも助けてもらったのにお礼すら言えてなかったから」
お礼にご飯を奢らせてと言うと、予想してたとおり岸田君は何もしてないと言う。
「奢らせてくれないんだったら――私はいかないよ?」
「そういう言い方はズルいでしょ……。んー分かった、御馳走になるよ」
岸田君の観念したような仕草に笑いながら、どこか歩きながら適当な店を探そうと「いこっ」と通りに向かって歩き出す。
慌てて岸田君が小走りで隣に来ると「持つよ」と私の返事を聞く前に肩にかけていたボストンバッグを抜き取った。
重いからいいと言ったんだけど、「全然重くないよ。競泳選手舐めんな!」と岸田君は軽々と私の荷物を持ち替えた。
元々知り合った時も小学生から水泳をやってるだけあって肩幅は広かったけど、高校でその肩幅が更に広くなってガッシリとした体になっていて、何だか私のボストンバッグが小さくなったみたいだ。
「岸田君って体とか大きくなったよね」
「そうかな。瑞樹さんが成長してないだけじゃないの?」
「なっ!? 失礼ね! 私だって成長してるもん!」
当然、岸田君からディスられて冗談だと分かっていても、思わず彼の背中をパンパンと数回叩いてしまった。
痛い痛いと訴える岸田君だったけど、顔は何だか嬉しそう。
そんなこんなで私達はお店を探している最中、これから始まる大学生活の話に華を咲かせた。
こうしていると中学の頃、2人で並んで下校していた時と違うと感じる。
隣で歩いている彼は背も伸びて、体も大きくなって逞しくなった。あのオドオドしていた岸田君の面影はすっかりなくなって、中学のクラスメイト達が言うように確かに格好良くなったと思う。
こんな人が引っ越して離れてしまってからも、私に想いを寄せてくれている。1人の女として嬉しく思うとこなんだろうな。
実際正直に言うと、私だって女の端くれとして嬉しいと思うし、光栄だとも思ってる。
だけど、彼の気持ちを受け入れる事は出来なかった。
それは勿論、間宮さんの事を想っているからで、今朝間宮さんに拒絶された今でも隣で歩く岸田君にドキドキしないのは、きっとあの夢のせいなんだろう。
◇◆
間宮さんが眠るベッドで突っ伏して眠ってしまったからか、夢の中に間宮さんが出来てきたんだ。
不思議な夢だった。
いつものように間宮さんが私に柔らかい笑顔を向けてくれているんだけど、何故かその笑顔の裏側を覗き込めてしまったからだ。
笑顔の裏はとても透き通っていて綺麗だけど、底がどこにあるのか分からない海があった。
そんな海を見つけた私は、迷う事なくまるで吸い込まれるように飛び込んでいた。
本当に不思議な海だった。
水中なのに呼吸が出来るし、水が全然冷たくない。それどころか、誰かに抱きしめられているのかと錯覚してしまうような温もりがあったんだ。
呼吸が出来るならもっと深くにと潜っていくと、そこでもっと不思議な事があった。
水中にいるはずなのに、間宮さんと誰かが話をしている声が聞こえてきたんだ。
しかもその声が耳から聞こえたんじゃなくて、うまく言えないんだけど全身の細胞が反響して? 聞こえるというより感じると言った方が正しい表現に思う。
――肝心の会話は断片的にしか覚えてない。
でも分かった事がある。
まず声色で間宮さんが話をしている相手が女性である事。
そして、相手の名前が『優香』という事だ。
私が知らない女の人の名前だ。
聞いた事がないし、勿論会った事もない。
だけど、声の主が身近にいた気がするのは何故なんだろう。
そして、私がその夢で一番気になっていた事。
『――俺……は、瑞樹……志乃が……す……き……なん……だ』
この私に対しての間宮さんの告白の台詞だ。
目を覚ました時、この告白が私の願望が見せた夢の中での言葉だと思ってた。
でも――もしも……もしもだけど、私が目を覚ます前に間宮さんの意識が戻りかけていて、寝言のようなものだったとしたら……?
馬鹿な夢だと思っていた事が、実は本当に間宮さんが言ってくれた言葉だとしたら……?
そんわけがないと言い切れないのは、あの不思議な夢のせい。
間宮さん本人に訊きたかった。
だけど迷惑だと拒絶されてしまって確認する勇気が萎んでしまって、逃げ出すように病室から出て行く事しか出来なかったんだ。
◇◆
昨日の夢の事を想い返していたら、丁度いい感じのカフェがあって私達はそのお店に入る事にした。
スタッフに案内された席に着くと、何でもご馳走するから遠慮しないでお腹いっぱい食べてと言ったんだけど、岸田君は食べ盛りのスポーツマンだというのに、大してボリュームのないモーニングセットだけを注文した。
完全に遠慮しているのが見え見えで、それが癇に障った私はもう1度スタッフを呼んで適当に目に付いた色んなメニューを注文してやった。
勿論、私じゃ半分も食べ切れない量だけど、岸田君なら余裕で平らげる事だろう。
完全な自己満足ではあるけれど、何でもご馳走すると言ったのに変に遠慮されるのは気分が悪いものなのだ。
次々と運ばれてくるメニューに始めは困惑していた岸田君だったけど、暫くするとモリモリと空になった皿を積み上げていく。
「やっぱりお腹空いてたんじゃん」
「はは……ごめん」
苦笑いを零して別に謝る事ないけどと、私はサラダを咀嚼しながら美味しそうに食べる岸田君を眺めていた。
「これで昼からも練習頑張れるよ!」
「今日の練習って午後からだったんだ」
「うん。だからここを出たら訊きたい事も出来たし、予定通り間宮さんのお見舞いに行くつもり」
「訊きたい事って?」
「あーそれは……内緒かな」
そう言う岸田君に釈然としなかったけど、その後も食事を進めながら色々な話題に花を咲かせた。
ずっと病院にいたからこういう時間は久しぶりで、また沈んでいた気持ちが少し上向いたのを感じた。
「あ、岸田君。口元にソースついてるよ」
「え? うそ!」
岸田君が恥ずかしそうにおしぼりに手を伸ばそうとしたけど、私がタッチの差でそのおしぼりを手に取って、岸田君の口元に当てた。
「ん! 綺麗に取れたよ。ふふ、大きな子供みたい」
「……あ、ありがと」
照れ臭そうにする岸田君に笑っていたら、周りにいたお客さん達の微笑ましい視線に気付いた。そこで初めてとんでもない事をしてしまったと慌てて身を乗り出していた体を自分の席に戻して、恥ずかしくて窓の外に目を向ける。
「つい反射的に……ごめんね」
「あ、謝らないでよ。スゲー嬉しかったんだから」
顔を真っ赤にした岸田君を見て益々恥ずかしくなった私は、少しでも赤くなった顔の熱を冷まそうと、グラスに入っている溶けて小さくなった氷を口に含ませた。
コロコロと口の中で更に小さくなった氷を転がしていると、顔を真っ赤にしていた岸田君がいつになく真剣な顔つきになっている事に気付く。
「なあ、瑞樹さん」
「ふぇ? な、なに?」
まだ口の中で氷を転がしていたから、変な返しになってしまった。
何時の間にか周りいる他のお客さん達の視線が、何かを期待しているものに変わった気がするのは考え過ぎだろうか。
「あ、あのさ! これで最後にするから……。もうこれ以上は絶対に言わないから……聞いて欲しい事があるんだ」
少し身を乗り出すようにそう話す岸田君に、私は慌てて口の氷を嚙み砕いて呑み込んだ。
「……う、うん」
「俺……やっぱり君の事が好きだ。瑞樹さんは間宮さんの事が好きなのは知ってる……。だけど、俺ならずっと傍にいる! もう離れたりしない! 絶対に寂しい思いなんてさせない!」
岸田君も間宮さんが遠くへ行っちゃうの知ってるんだね。
このタイミングでそんな事言うの……ズルいよ。
以前、駅のホームで気持ちを伝えられたけど、その時はちゃんと誠意をもって断った。
でも、彼は宣言通りにまたこうして気持ちを周りの目なんて気にせずに真っ直ぐ伝えてくれている。
私も恥ずかしいけど、岸田君はもっとの恥ずかしいはずだ。
元々、そういう男の子じゃなかったはずだしね。
気持ちがグラついてる。そんな事は絶対にないと、例え相手が岸田君であってもないと思ってた……のに。
「好きなんだ! 俺と付き合って欲しい!」
夢で聞いた間宮さんの言葉が岸田君の言葉に上書きされる……そんな感覚だった。
もっと気持ちの強い女だと思ってたんだけど……な。
私は真っ直ぐな岸田君の告白に静かに息を吐いた後、テーブルに落としていた視線を上げて真っ直ぐに岸田君の目をみた。
「……ありがとう。岸田君の気持ち――凄く嬉しい」
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