第42話 夢の中で

 間宮さんが刺されて10日が過ぎた。

 私は病室に泊まり込み、母親である涼子さんが面会時間が終わるまで一緒にいる。

 傍にいても大した事は出来ない。

 文字通り傍にいるだけだ。

 お医者さんや看護師さんにとって、邪魔でしかないかもしれない。

 事実、遠回しに帰れと言われた事もあるからだ。

 だけど……、誰にどう言われようと離れる気にはなれなかった。


 この10日間の間に私や涼子さんの面識がない人達も、多くお見舞いに訪れた。

 初めの頃は知らない人がくる度に、どう接すればいいか分からずにオロオロしてるだけだったけど、会社を営む雅紀さんの奥さんである涼子さんはこういう事に慣れているのか、どんな関係の人間が訪れても完璧な応対で、気品すら感じるまさに社長夫人といった感じだった。

 涼子さんばかりに頼っていては何の為に泊まり込んでいるのか分からないと必死に涼子さんの対応を勉強して、5日前くらいから私もしっかりと対応できるようになったと思う。


 私が必死に応対方を覚えたのには、もう1つ理由がある。

 それは初めの頃は気にならないくらいだったんだけど、入院して5日くらい経ってから涼子さんが1日に数回担当医に呼び出されて席を外す事が多くなった。それからは呼び出される度に悪くなっていく涼子さんの顔色を少しでも和らげられるように、負担を少しでも減らせるように努めるようになったんだ。


 呼び出された内容は訊いた事がない。

 怖くて聞けなかったけど、間宮さんの症状についての話だったのは明白で、そして聞かされた内容は悪い話ばかりだったに違いない。


 間宮さんの容態だけでも私の心は日を追うごとに沈んでいくというのに、その他にも1つ気がかりな事がある。


 ――松崎さんの事だ。


 私を襲って間宮さんを刺したのは、松崎さんの義理の弟である平田だ。

 その事は恐らく愛菜から伝え聞いているはずだから、松崎さんが愛菜達とお見舞いに来た時に詳しい説明を話している最中も、ずっと病室の入口付近で立ち尽くしている松崎さんの事が気になっていた。

 嫌な予感がしたんだ。

 そして嫌な予感ほど当たるもので、あの日から松崎さんは警察に捕まる前に探し出して殺そうとしたと、4日前に愛菜と一緒にここへ来た松崎さんの口から聞かされた。


 愛菜が止めてくれて、本当に良かったと思う。


 松崎さんの気持ちも分かるけれど、やっぱりそんな事するのは間違ってるし、何より間宮さんが喜ぶはずがないと思うから。


 それから松崎さんは毎日、間宮さんの様子を伺いに病室を訪れるようになった。

 松崎さんも忙しい立場なのだから、何かあれば連絡すると言ったんだけど、どんなに忙しくても例え数分だけであっても必ず顔を見せに来るのだ。


 今回の事件で責任を感じている人間が多いと思う。


 決してそんな事はないと言いたいのだけど、何だか私が言うのは違う気がして口を閉ざしてきた。


 2人だけの病室で眠る間宮さんの髪にそっと触れて、間宮さんの意識に働きかけるように呟く。


「間宮さん、皆心配してるよ。目を覚まして、またいつもの笑顔を見せて。話したい事が沢山あるの――お願い間宮さん」


 ◇◆


 ずっと暗闇の中をふわふわと浮遊しているような感覚。

 体がどこにも触れる事なく、途方もない空間を彷徨っている心細さを感じた。

 意識はあったが、目を開けていても閉じていても真っ暗な闇しか見えない。

 どうせなにも見えないのだからと、ずっと瞼を閉じている。


 眠っているのかさえ、よく分からない時間がどれだけ過ぎたのだろう。

 そんな事を途切れそうな意識の中で考えていると、閉じている瞼から僅かに光を感じた。

 真っ暗だった視界の端が薄い赤に染まっていて、何時以来か分からないぶりに、瞼を開けてみる事にした。


「――あれ? ここは……」


 ピクピクと小さく震える瞼を開いて、まだぼんやりしている思考のまま辺りを見渡してみた。


(ここって、昔住んでたアパート?)


「あ、起きた? 良ちゃん」

「――え!?」


 そこは上京してから住んでいたアパートだった。

 懐かしい石油ストーブからチンチンと音が鳴り、小さな炬燵テーブルに突っ伏していたようだ。

 そんな俺の耳に懐かしくてスッと耳に馴染む声が聞こえた。

 ずっと聞きたい声だった。

 もう聞けないんだと諦めていた声だ。


 俺は恐る恐る突っ伏していた上体を起こして斜め右の方向に目を向けると、そこには頬杖をついてこっちを見ている優香の姿があった。


「優香!?」

「久しぶりだね、良ちゃん」


 視界に優香の姿が入ると、ぼんやりしていた頭が一瞬で覚めて、俺が生きて来た中でこれ以上開けた事なんてなかったかと思う程に大きな口を開けて固まってしまった。

 そんな俺を見てクスクスと笑みを零して眺めている女性は、紛れもなく俺が愛した香坂優香その人だった。


 自分が置かれている状況がイマイチ呑み込めない俺は、あからさまに挙動不審に陥り、パクパクと鯉のように口を動かす事しか出ない。


「くっくっくっ……あははは!」


 優香はそんな俺を見て我慢出来なかったと言わんばかりに、元気な笑い声をあげる。


「もしかして、俺って……死んだのか?」

「うーん、ちょっと違うかなぁ。向こう側の一歩手前って感じ?」


 俺の質問にそう答えた優香は、また可笑しそうに笑う。


 何がそんなに可笑しいんだろう。

 仮にも元婚約者が死んでしまったというのに、普通ならそんな態度はとらないと思うんだけど……。


「……何がそんなに可笑しいんだ?」

「だって、良ちゃん相変わらずなんだもん」

「……なにが?」

「――正義の味方!」

「――は?」

「相変わらず自分の事を顧みずに、誰かを助ける正義の味方やってるんだもん」


 優香にそう告げられた俺は、あの時瑞樹を助ける為に刺された事を鮮明に思いだした。


 正義の味方……か。

 そんなつもりはない。


「あの人なら、そうするって考えたら勝手に体が動いてただけだ」

「昔、1度だけ話してくれた人の影響なんだね」


 そうだ。昔、上機嫌に酔った俺は、1度だけ誰にも話した事のない『あの人』との出来事を優香に話した事があった。


 ◇◆


 昔、俺が小学3年生の事だ。


 当時、両親が営む会社が軌道にのって、生活が豊かになりだした頃。生活が良くなる度に両親の帰宅が遅くなり、長男である俺が茜や康介の面倒を見る事が増えた。

 そのうえ、学校の同級生達から嫌がらせを受け始めたんだ。

 原因は実にくだらない事で、俺の身なりを妬んだ事だった。

 生活が豊かになると、身なりに金をかけ始める。

 俺が通っている小学校は私服だった為、安いメーカーの服装だったのがブランド物に変っていく様をクラスメイト達は、嫌でも目の当たりにした。

 初めの頃は羨ましいという声が多かったように思うが、やがてそれは妬みの感情を生んだようだ。

 そんな環境に我慢していたら、親が良い土地が手に入ったからそこに家を建てようと言い出して、やがて大きな家に移り住む事になった。

 その事が住所変更の手続きにの件で、当時の担任が悪乗りしてホームルームの時間に皆の前で言うものだから、更に居たたまれない立場になり、果ては「お前みたいなボンボンが俺らの気持ちなんて、わかるわけないだろ!」というような事を何度も言われて完全に孤立するようになってしまった。

 ブランドなんて欲しいなんて思った事なんてない。

 別に大きな家に住みたいなんて言った覚えもない。

 なのに、俺の意志と関係ない所で歪んだ感情が溢れ出してしまったんだ。


 その事が大いに不満だった俺は2人を寝かしつけた後、親父達の帰宅が遅いのをいい事に、夜遊びするようになった。

 警察に補導されないようにだけ気を付けていれば、絶好のストレス発散になっていたんだ。


 そんな生活が暫く続いたある日、いつものようにゲームセンターで遊んだ俺はそろそろ親が帰ってくる時間だと、急いで家に帰ろうとした時だった。


 薄暗い路地を自宅に向かって歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。

 咄嗟に警察かと警戒したのだが、どうやらそういう類に人間には見えなくて安堵したのも束の間で、声をかけてきたのは確かに警察には見えなかったが、見るからに怪しそうな風貌をした2人の男だったのだ。

 俺は男達を無視して立ち去ろうとしたんだけど、背中を向けた瞬間頭に衝撃受けて意識を失った。


 意識が戻った俺は気が付くと、見知らむ建物の中にいた。

 口は堅い素材の布のような物で塞がれていて、手足もロープで縛られていた。そこで初めて自分は誘拐されたのだと気が付いた。

 映画やドラマの中だけだと思っていた事が、今現実に起きている。


 俺はこれからどうなってしまうのだとうと、心底恐怖に怯えていた事を覚えている。


 俺を拉致した男達は誰かを待っているようだった。

 やがて遅れて部屋に入ってきた男に、俺を拉致した男達が得意気に俺の事を話しているのが聞こえてきた。

 次の瞬間、遅れてきた男が俺を拉致した男達を瞬く間に倒してしまった。

 俺は何が起こったのか理解出来なかったけど、次は俺の番なのかと恐ろしさが増して思わず漏らしてしまったのは、忘れたくても忘れられない俺の黒歴史の1つだ。


 男達を瞬殺した男は険しい顔つきで、俺の方に歩み寄ってくる。


(――もう駄目だ!)


 子供ながらにそう覚悟した俺はギュッと目を閉じて、歯を食いしばった。


「悪かったな、ぼうず。痛かっただろう」


 目を閉じた真っ暗な視界の中で男のそんな言葉に驚いて目を開くと、男は俺の前で屈んで申し訳なさそうな表情をしていた。


 男は倒されていた俺を起こして、縛られていた手足を解放して口を塞いでいた布を取り除いた。

 俺は予想だにしなかった状況に理解が追い付かずに唖然としていると、男はそのまま俺を抱き抱えた。

 漏らしてしまった汚物が自分の服に付着する事など、全く気にする素振りすら見せずに俺を抱き抱えたまま建物を出た。


 建物の前に戦車の様な大きな車が停めてあった。

 車の助手席に座らせれた俺はどうにかして漏らしてしまった汚物がシートに付かないようにしようとしたんだけど、どうにも出来ずに結局シートに収まってしまった。

 車を走らせ始めた男はそんな事を言に返さぬまま、ただ黙って前だけを見てステアリングを握る。


 走り出した車の中で、俺がこんな目に合った経緯を子供にも分かるように説明を始めた。


 凌ぎという収入源が減少して組の存続が危ぶまれていた為に、1部の組員が独断で身代金目当てに、俺を誘拐したらしい。

 だから、あのビルに呼び出されるまで男は俺を誘拐した事を知らなかったと言う。

 どんな苦しい状況にあっても、例えはみ出し者の人間であろうと、一般人に、しかも子供に手を出すなんてあってはならない。男がそう俺に告げた時の、辛そうな顔をハッキリと覚えている。


 そんな話を聞いていると、やがて車は何かの店の前に止まった。

 車を降りて店を見上げると、店名から恐らくアパレルショップだと気付いたが、その店はすでにシャッターが下りていた。

 もう夜中の時刻を指しているのだから当然だ。

 だが男がどこかに電話をしたかと思うと、閉ざされたシャッターが静かに上がり、店内からの灯りが漏れた。

 そして本来なら自動でドアが開くのだけど、店内から姿を現した男の店員……いや、男の雰囲気を見ると恐らくこの店のオーナーらしき人が手動で重そうなドアを開けたのだ。


「営業外にすまんな」

「いえ、問題ありません」


 男と店員がそんな事を言っているかと思うと「こっちだ」と男に連れられて俺も店の中に入った。


「この子に似合う服を見繕ってくれ」

「畏まりました」


 男が店員にそう告げると店の奥から女の店員が現れて、俺は2人の店員に店の奥に案内された。


 こんな非常識な時間にも関わらず、2人は親身になって俺の服を選びにかかる。

 漏らしてしまった汚物から臭い匂いだってしているはずなのに……だ。


 やがて店員が用意した服の中から適当に選んだ服に着替えて試着室から出ると、汚物で汚れた服を思い出して試着室に振り返ったのだが、もうそこには脱いだ服がなかった。


 着替えた服を男に見せると、「ん、まぁいいだろう」とだけ言って男の店員に現金を手渡した。


「無理言って、すまなかったな」

「とんでもございません。薮田さん」


(そうか。この人は薮田というのか)


 初めて男の名前を知った俺に「いくぞ」と薮田は車に戻る。

 慌てて俺も着いていき、また助手席に収まると薮田は車を走らせた。

 その間、薮田は一言も話す事なく、気が付けば拉致された場所に戻っていた。


「着いたぞ。ここでいいんだよな」

「う、うん」


 俺は恐る恐る車から降りて薮田の様子を伺っていると、薮田も車から降りて俺の前で屈みこんだ。


「今日は本当にすまなかった。謝って済む事じゃないのは分かってるんだが……」


 俺は怖くて黙ったまま首を縦に振った。


「気を付けて帰れよ」

「えっと……はい」


 俺はそれだけのやり取りをして、薮田に背中を見せて家に向かって歩き出した。

 少し歩いても後ろから車に乗り込む音がしない。まだ俺を見送っているのだろうと極力バレないようにチラっと横目で薮田の方を見ると、そこには両手を後ろに組んで俺に向かって深々と頭を下げている薮田がいた。


 俺は見てはいけないものを見てしまった時のように、慌てて顔を前に向き直して、少しでも早く薮田に頭を上げて欲しくて足早にこの場を立ち去った。


 やがて完全に薮田から見えなくなる場所まで歩いた俺は、歩く速さを普段のスピードに戻して、トボトボと静けさに満ちた真夜中の道を歩く。


 痛かったし、なにより怖かった。

 だけど、それ以上にあの薮田って人をカッコいいと思ってしまっている自分がいたんだ。

 世間的に胸を張って言える職業の人ではない。

 善か悪かで言えば、きっと後者なのだろう。


 でも、俺はカッコいいと思ってしまったんだ。

 それは決してそんな職業の人になりたいと思ったわけじゃない。

 とてつもなく強くて、だけど横暴な態度をとらずに非があれば例え子供であっても、深く頭を下げて謝罪できる薮田という男に強い憧れを抱いたんだ。

 本当の意味で強い男になりたいと思った。

 嫌がらせくらいで、いちいち凹んで自棄になるような男はもうやめだ。


 その時、世間でどう言われていようと、俺は薮田のような男になりたいと目標を立てたんだ。


「――だから、俺は正義の味方になんてなった覚えはないんだ」

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