第37話 絶望へのプロローグ
優香の実家を出て、今は最寄り駅のA駅に向かう電車に揺られている中、車窓から流れる景色を目で追いながら小さく鼻歌なんて歌ってみる。
心と体が凄く軽い。
こんな事って何時以来だろう。
思えばこの数か月は色々な事があって、その度に思い悩んで眠れない夜だってあった。
そんな時に優香の両親と和解する事が出来て、何より優香が背中を押してくれた事が何よりも嬉しかった。
A駅に電車が到着して降りる他の乗客達の流れにのって、俺も電車を降りた。
(帰ったら明日の準備しないとな)
粗方荷造りは済んでいて、明日の午前中に引っ越し業者が来る予定になっているんだけど、細々した物が残っているからそれを終わらせないと明日大変な事になってしまうからな。
そんな事をぼんやりと考えて送別会で飲んだ酒がいい具合に体内を循環してふわふわした感覚を楽しみながらホームを歩いていると、ふと項垂れるようにベンチに座っている男が気になって足を止めた。
別に項垂れていたから足を止めたわけじゃない。座っている男に見覚えがあったからだ。
男を横目で見つつ少し覗き込んでみると……。
「やっぱり岸田君じゃないか!」
「あ、……間宮さん」
体格と髪型に見覚えがあると思ったら、やっぱり名古屋であった瑞樹の恩人の岸田だった。
彼も俺の事を覚えてくれていたみたいだけど、名古屋で会った時とは別人のように目に力がなかった。
俺の岸田への一番強い印象は目力が凄く強い男というもので、多少の誤差も強引に帳消しにしてしまう感じと言えば伝わるだろうか。
だから瑞樹から聞いていた印象とはかけ離れていて、初めて会った時は戸惑ったものだ。
しかし今の彼からはそれが全く感じ取れない。
どちらかというと、迷子の子供のそれに見えた。
「もうこっちに来てたんだね」
「はい、先日に……。それで今日は瑞樹さんの卒業式だったから祝ってあげたくて、英城学園に行ったんですけど……」
「そうなんだ。それで? その瑞樹がいないみたいだけど、帰ったのか?」
「家まで送るつもりでここまで来たんですけど、どうやら余計な事を言ってしまって怒らせてしまったみたいで……」
言って、岸田はまた項垂れてしまった。
(なるほど。目力がすっかり影を潜めているのは、それが原因か)
「余計な事って?」
「あの……つい話しちゃったんですよ。間宮さんは瑞樹さんの事を友人としか見てないとか、瑞樹さんの事を頼むって言われた事……とか」
「……え?」
本当に余計な事を話したなと溜息が漏れた。
当人がいない所で話を完結させられたのだから、瑞樹じゃなくても怒って当然だろう。
「それで? 瑞樹は怒って帰ったのか?」
「……いえ、寄る所が出来たからここでいいって、置いて行かれたんです」
寄る所があるのではなく、寄る所が出来た……。それは岸田の話を聞いて寄る気になった場所だったとすると――俺のマンションだろうな。
「わかった。後の事は俺に任せて岸田君はもう帰った方がいい。大学の寮生活なら門限とかあるんだろ?」
「そう……ですね。門限はとっくに過ぎてますけど」
「なにやってんだよ、まったく。とにかくもう帰りなさい。悪い様にはしないから」
そう言って、俺も瑞樹と同じようにションボリしている岸田をホームに置いて駅を出て、駐輪所へ向かう。
この駐輪所は今月いっぱいまでで契約を切っているんだけど、もう利用する事はないだろう。
乗り慣れた年季のはいった自転車の鍵を開錠して、両手でハンドルを持って自転車を支える。
もう停まっていない瑞樹が契約しているスペースに目をやると、あの時の事を思い出す。
ここで初めて瑞樹と会った時の事を。
良かれとした事への暴言に本当に腹が立って、年甲斐もなく缶を地面に投げつけたっけ。
そんな最悪の印象しかない出逢いだったのに、合宿で再会してから何時の間にか大切な存在になってるなんてな……。初対面の印象なんてアテにならないって事なんだろうなと、思わず笑いが零れた。
――チリン
建物の中だから当然風もないし、キーホルダーを付けている鞄も自転車のカゴに入れているから揺らしてなんていないのに、何故かキーホルダーに付いている鈴の音が聞こえた。
そういえばお義父さんから逃げようとした時も、誰もいないのに鞄を引っ張られた拍子に鈴が鳴ったんだよな。
偶然と考えるのはあまりに不自然だ。
もし、このキーホルダーが瑞樹の言う様に何か特別なものがあるんだとしたら……。
(――何だか胸騒ぎがする)
俺は急いで自転車を駐輪所から押し出して、ペダルを力いっぱい漕いだ。
その時、嫌な予感で頭が一杯になって俺は失念していたんだ。
酒をかなりの量を飲んでいた事を。
◇◆
瑞樹は岸田と別れて間宮のマンションのエントランス前でしゃがみ込んでいた。
到着してからそろそろ1時間くらいになるだろうか。
その間に何度も親から携帯が鳴り帰宅を促されたが、どうしても今日じゃないといけない用事があるからと、半ば強引に電話を切ってこの場から離れようとしなかった。
何時もの癖で手持ち無沙汰になった手の上にキーホルダーを乗せて、指で鈴を転がす。
ただ以前と違うのは弄っているキーホルダーが岸田に貰った物ではなく、京都で間宮とお揃いで買った物だという事だ。
キーホルダーをギュッと握りしめて、待ち人である間宮に想いを巡らせる。
(今日中じゃないと……明日になれば間宮さんはいなくなっちゃうんだから……)
本当ならもう会わずに別れるつもりだった。
加藤が提案したお別れ会も断られて、間宮と会う理由を失ってしまっていたからだ。
だから、理由はなんであっても間宮と会う口実が出来た事に、本心では心が躍る。
腕に巻いている時計に視線を落とすと、針は23時過ぎを指していた。
腕時計にそっと手を当てる。
いつも大事な用件がある時にだけしか使わない、間宮からプレゼントされた腕時計。
今日は卒業式という晴れ舞台だった為、バレンタインのお返しとして貰った新しいバンドに交換して、益々瑞樹にとって大切なアイテムになった時計を腕に巻いていた。
明日から高校生ではなくなる。
特に寂しいとか、まだ高校生でいたいというクラスメイト達がクラス会の席で口々に漏らしていた気持ちは、今の瑞樹にはなかった。
これで少しだけ大人に近づけるという喜びの気持ちの方が勝っているからだ。
早く間宮に近付きたい。それが瑞樹が抱いている想い。
これで少しは子供扱いされなくなるかなと期待する瑞樹の想いは、叶うなら例え隣でなくてもいい。大切な友人の1人としてでも構わないから、これからの自分を見て欲しいんだと切に願っていた。
だが、間宮は明日にはいなくなるのだ。
確かに岸田に話を聞いた時は怒りを覚えた。
場合によっては引っぱたくつもりも。
だが、そんな気持ちは帰りを待っている間に失せてしまい、今はただ寂しくて切ない感情だけが瑞樹の思考を支配していた。
無意識に涙が滲んで零れ落ちそうになり、しゃがみ込んでいた膝に額を押し当てて堪える。
泣いてしまったら目が腫れてしまって、間宮が帰ってきた時に気付かれてしまう恐れがあったから。こんな場所で泣いている事がバレたら、新潟に行くのを止めに来たと思われてしまうかもしれない。そんな事になったら、何の為に旅行の別れ際に自分の気持ちを過去のものとして伝えて、間宮に気兼ねなく旅立てるように振舞ったか分からなくなる。
瑞樹は意識を自分の中に総動員させて、癇癪を起しそうになっている自分に『泣くな! 寂しくなんかない!』と強く言い聞かせて気持ちを何とか落ち着けた時、少し離れた場所からカシャンカシャンと金属が擦れるような音が聞こえてきた。
この音は自転車でよく耳にする音だと瑞樹は判断する。
錆びて伸びたチェーンがチェーンカバーの内側を叩く音に似ている。それに車輪が少しぎこちなく回っている音も聞こえて、中々に年季がはいった自転車だという事が分かる。
(間宮さんの自転車の音だ!)
間宮が帰ってきたと確信した瑞樹は慌てて立ち上がり、お尻をパンパンと叩いた。
やがて自転車とそれに乗っている人影が見えだした。
丁度間宮のマンションの手前だけ街灯の灯りが届かずに真っ暗になっている区間がある。
その暗闇の中では自転車を漕いでいる人影は確認出来るが、誰かまでは瑞樹の位置からでは解らない。
だが、自転車を漕いでいるのが間宮だと確信している瑞樹は、ついさっきまで泣くのを我慢していた女の子とは思えない程に目を輝かせて、自転車を漕いでいる人影を出迎えるようにエントランスから離れて自転車の正面になるような位置に立った。
だが、暗闇から少しづつ見えてくる人影が近付くにつれ、瑞樹の表情が強張ったものに変っていく。
口角があがった口元は瞬時に閉ざされ、嬉しそうに跳ね上がっていた眉の角度も厳しいものになる。
前に出そうになっていた足も、本能的に後退を始めた。
自転車を漕いでいた男の人影はキィッとブレーキの音をたてて瑞樹の前で止まる。
男はジーンズにスニーカー、上着はやたらとフードの大きいパーカーを羽織っている。
大きなフードを深被りしていてマスクを着用している為、よく顔が伺えない。
だが男の目を見た瞬間、咄嗟に自分の身が危ないと脳から全身に危険信号を送った瑞樹だったのだが、命じた体は数歩後退しただけで固まってしまった。
ガシャン!
男が乗ってきた自転車をスタンドを立てる事なく、無造作に乗り捨てて倒した。
男はそのままパーカーのポケットに両手を突っ込み、ジリジリと瑞樹との距離を詰めに掛かる。
瑞樹の元まであと約10歩まで近づくと、男はポケットから手を出すと何か鈍く光る物が見えた。
その光る物を凝視した時、瑞樹の顔は生気を失う。
最近、偶々チャンネルがあったテレビ番組で見た事がある物だったからだ。
その番組は最近ブームになりつつあるキャンプの道具紹介で、その中で紹介されていた特殊な加工が施されている刃渡りの長いナイフだったのだ。
エントランスから漏れる灯りが反射して、異様な存在感を放つナイフが怯えて動けない瑞樹に向けられる。
その剣先がまっすぐに自分に向いた時、瑞樹の体が激しく震えだした。
ナイフを構えたままあと数歩の所まで近づいた時、フードの中から男の目がはっきりと見えた。
この目はどこかで見た事があると全身が震える程の冷たさの中、瑞樹の頭が弾き出した答えは、昼間に摩耶に乱暴しようとした男と同じ目だという事だった。
正確にはあの時見た目は怒りの感情がハッキリと見て取れたが、この目からは冷酷な冷たさしか感じられなかった。
そんな冷酷な目で睨まれた瑞樹は、腰が抜けそうになるのを必死に我慢する事しか出来ない。
「――お前のせいだ」
低くて小さい声だったが、その声から憎しみが滲み出ていた。
その声を聞いた途端、瑞樹の全身から汗が噴き出す。
逃げないと!頭ではそう命じるのだが、手も足も全く思い通りに動いてくれない。
目の前まで迫った男は構えたナイフのグリップを両手で握り直して、体ごと突進してくる。
瑞樹は自分の死を覚悟したのか、あまりの恐怖に歯を食いしばって目を力いっぱいに閉じた刹那、突進してくる男の後方からまた自転車が倒れる音がした。
だが、さっきの音とは違って凄い勢いで倒したのか、地面を滑るような金属音が混じっていた。
すると襲い掛かる男が「クソがぁぁっ!」と叫んだかと思うと、何かを振り払おうとする音が聞こえてくる。
男が何かを振り払った音の中に『チリン』と鈴が鳴る音を、瑞樹は聞き逃さなかった。
目を閉じて視界を失うと、他の感覚が鋭くなっていく。
鈴の音が聞こえた直後、猛スピードで襲い掛かろうとする男と瑞樹の間に何かが割ってはいってきた。
その気配の主が目に前に感じた直後、ドンッと乱暴に肩を押し出された衝撃に耐えきれず、瑞樹は後方に体制を崩して尻餅を着いた。
そこで瑞樹が恐怖で閉じた瞼を開くと、そこにはナイフを持った男と瑞樹との間に、大きな背中が尻餅を着いた瑞樹を見下ろしていた。
瑞樹はこの背中に見覚えがあった。
幾度となく、この背中に守られてきたからだ。
いつも優しく包み込まれて安心感さえ抱くこの背中の持ち主を、瑞樹が見間違えるはずがない。
「ま、間宮……さん」
襲われていた瑞樹を助けに割って入ったのは、大きく息を切らせた間宮だった。
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