第35話 あの場所へ

 松崎達と別れた俺はO駅に向かい自宅がある上り線ではなく、下り線の電車に揺られていた。


『――やっと行く気になったんだな。長い間待たせたんだから、しっかり叱られてこい』


 松崎に言われた言葉を思い出す。

 あいつの言う通り、ずっと避けていた場所に向かっている。

 死ぬまで行くつもりのなかった場所だったはずなのに、こうして自発的に向かっている事が、今でも少し信じられない思いだ。

 だけど、こうして行く気になれたのは、間違いなく2人の女性のおかげなわけで、その2人とも明日からは気軽に会えなくなるんだな。


 寂しいかと問われれば、寂しいと即答するだろう。

 俺のトラウマに寄り添ってくれた2人と別れるんだ、当然の感情だと思う。


 そんな事をぼんやりと考えていると、目的地がある最寄り駅のホームに無機質な音ともに立った。


 懐かしいという感想しかもてない。


 ひんやりとした風なんて、数駅くらいじゃ変わらない同じ風だというのに、O駅で感じた寒さより寒く感じた。


「……ここも変わらないな」


 俺は独り言ちた後、この場の空気を大きく吸い込んでゆっくりと吐き出した。


「――いくか」


 俺は何本かある駅前を抜ける道の一本を目指して歩き出す。

 途中商店街を抜けていくのだが、時間が時間だけに殆どシャッターが閉まっていた。

 閉店してシャッターが下りている店と、店舗が入っていないシャッターは看板があるかないかで見分けがつく。

 キョロキョロと見渡しながら歩くうちに、総じて昔と比べて店が減った事を知る。


(やっぱり閉まった店が増えたな)


 この辺りも近年増え続けているモールの増設に伴い、客足が途絶えてシャッターを下ろす個人経営の店が増えたようだった。

 もう活気がる商店街なんて、全国でも数える程しか残っていないのではないだろうか。


 俺は昔あった活気ある商店街を思い出しながら、商店街を抜けた。

 商店街を抜けると、すぐに住宅地にはいる。

 時間が遅い為か、ひっそりと静まり返っていて自分の足音がよく聞こえた。


 住宅街を少し歩いた所で、前方から車がこちらに向かってくる。

 近付いて来る車の走行音が耳に届いた時、ピタリと足を止めた俺は昔の事を鮮明に思いだした。


 あの時、携帯を耳に当てながらこの道を必死に走りながら聞いた不吉な音に、息が詰まる思いだった。

 大した距離でもないのに、急激に呼吸が乱れたのを覚えている。


 あの場所に辿り着いた時、騒動で集まってきた野次馬がまるで行く手を阻む壁に見えて、怒鳴ったんだっけ。


 住宅街を少し歩いた所で俺は足を止めた先に、なんの変哲もないまだ真新しいガードレールがあった。


 俺はここへ来る前に買った花をガードレールの足元に立てかけるように添えて、手を合わせた。


 ここをずっと避けてきたのには、2つ理由がある。


 1つは会ってはいけない人と会ってしまう可能性が高い事。

 そしてもう1つは、1度あいつと会ってしまうともう2度と会えない気がしたから。

 自分でも変な事を言ってる自覚はある。2度とどころかもう会う事なんて出来るわけがないのになって。

 だけど、予感があったんだ。ここへ来たら実際に会えるわけないけど、あいつの空気を感じる事が出来るんじゃないかって。


 そして、その予感は当たっていた。


 合わせていた手を解いて立ち上がり、花を添えたガードレールに凭れるように座った途端、自分のすぐ隣から気配を感じた。


 決して目視できたわけじゃない。だけど、確実にいるんだ。

 その気配は隣で同じようにガードレールに凭れかかっていて、こちらを見上げるように見つめているのを感じる。


 その感覚はとても懐かしくて、心をあの頃のように温かくさせてくれた。


「久しぶり。長い間待たせてごめんな――優香」


 自ら命を絶とうした日から、ここへ来るのは初めての事だった。


 ずっとトラウマを抱える原因であり、優香が事故に巻き込まれて死んでしまった――片側1車線の国道沿いになる交差点付近の歩道に。



 あの事故からどれだけの時が経っただろう。

 ずっと意識しないように生きてきた。

 でも、墓を参る度に嫌でも月日の流れを感じてしまう。


 当時と同じように頻繁に車が行き来している。相変わらず抜け道に使われている事が多いようだ。

 綺麗に整備されているアスファルトに、あの時優香の血が大量に雨に混ざって滲んでいた。

 雨に冷やされたアスファルトと、優香の血の温かさが混じった感触を今も鮮明に覚えている。


「……優香。俺もうすぐ三十路になるんだぜ? 時間の流れって早いもんだよな」


 そんな事を誰もいない空間に話しかけると、耳の奥に「ふふっ」とほくそ笑む声が聞こえた気がしたかと思うと、僅かに感じていた優香のもつ特有の空気が強くなり、心なしかいつも愛おしいと嗅いでいた優香の香りまで香った気がした。


「俺だけ年食って嫌になるよ、ははっ」


 優香の姿が見えているわけではないが、もし本当に今隣にいるのなら、優香はあの当時のままなのだろう。


 一緒に年を取っていきたかった。

 だが、それはもう望めない事なんだ。

 1人だけ年を取り続けて20代最後の年に、ずっとあの頃に置いてきたままの心を取り戻しにきた。


「……優香。今日はお別れを言いにきたんだ」


 隣に座っているであろう空間を見つめながら、俺はここへ来た目的を告げる。


「ずっとやりたかった仕事に就ける事になったんだ。でも、その施設が新潟にあってさ……。明日引っ越す事になってる」


 俺は星が見えない夜空を見上げて、もう簡単に会いに行く事が出来ないと優香に告げる。

 だけどもう大丈夫だからと、誰もいない空間に力強く言い切った。


 いなくなってしまった後も、ずっと優香の存在が心の支えだった俺だけど、それでは前に進めない事も理解はしていた。

 体や経験だけが上乗せされても、心は一向に成長しないまま時間を受け流すように生きてきた。


 本当につい最近まで、本気でそれでも構わないと思ってたんだ。


「そんな俺の背中を押してくれた女の子と出会ったんだ」


 瑞樹と優希の姿を思い浮かべながら、いるはずのない優香に2人がこれまで俺にしてくれた事を話して聞かせた。

 不思議な気持ちだった。

 優香以外の女性の存在を話して聞かせる事が、俺には不思議で仕方が無かった。

 だけど、後ろめたさはなくて、寧ろ優香に聞いて貰いたいとさえ思ったんだから。


「喜んでくれてる? それとも口を尖らせて拗ねちゃったか?」


 隣に優香の存在を感じていても、実際に姿が見せるわけでない。

 2人の女の子の話を聞いて、優香がどんな顔をしているのかは分からないんだ。


 知る術がないからこそ、彼女は喜んでくれていると信じたいと思った。


 春の訪れを感じる温かで爽やかな風が心地よく吹き抜けていく。

 その風がまるで優香の温もりを連想させるもので、吹き抜けた後の感覚がついさっきまでのものとは違うと気付いた時、1人の通行人の靴音が耳に入った。


 やがて足音が俺の傍で止まったかと思うと、ついさっきまで確かにあった優香の気配が消えていた事に気付く。


「――君は」


 どうやら足音の主は俺に声をかけたようで、優香の存在が消えた事に困惑しながら足音の主に目をやると、瞬時に血の気が引くのが分かった。


 声をかけてきた相手に目線を逸らして足元に供えていた花束を乱暴につかみ取った俺は「すみません!」とだけ言い残して、逃げるように駅へ繋がる横断歩道を渡ろうと駆けだした。


「ま、まってくれ!」


 逃げ出そうとした俺を呼び止めたのは、かつてお前が娘を殺したのだと怒鳴り、2度と顔を見せるなと言い捨てた香坂優香の父親その人だった。


 俺は優香の父親の呼び止めを無視して走り去ろうとしたけど『チリン』と小さいけれど、妙に耳に馴染む音が聞こえたかと思うと、肩にかけてあった鞄が後方に引っ張られた気がして思わず足を止めてしまった。


 急に足を止めた反動でまた鈴の音が聞こえて、鈴の音の出所が分かった。京都で瑞樹とお揃いで買った鞄のホルダーリングにぶら下げていた、小さな鈴が付いたキーホルダーだった。


 立ち止まってしまった以上、さすがにこれ以上無視して逃げるわけにもいかなくなった俺は、ある種の覚悟をもって恐る恐る後ろを振り返ると、そこには人気が少ない歩道とはいえ、往来で土下座する優香の父親の姿があった。


「え!? ちょ――」

「――本当に申し訳なかった!」


 状況が把握出来ないまま俺は慌てて土下座する父親に駆け寄り、膝をついた。


「あ、あの、頭を上げて下さい」

「いや! そういうわけにはいかない! 私は君に最低な事をしたんだ! 君は何も悪い事なんてなかったのに……。本当に申し訳なかった!」


 優香の父はそう言って、額をアスファルトに擦り付けて俺の制止を聞かずに話を続けた。


 優香が死んで通夜を行い葬儀が終わった夜。深い悲しみを誤魔化そうと大量に酒を呑み酔いつぶれた意識の中で優香の夢をみたそうだ。

 現れた優香は親より先に死んでしまった事を詫びるのかと思いきや、涙を流しながら『どうして良ちゃんにあんな酷い事したの! 良ちゃんは何も悪くないのに、お父さんの馬鹿っ!』と酷く剣幕に怒られたそうなのだ。


 勿論、優香に怒られなくとも、葬儀中もずっと自分がしてしまった事を悔いていたとも話してくれた。

 その事を改めて愛娘に剣幕に叱られて、返す言葉がなかった優香の父親は、目が覚めるまでずっと説教を喰らっていたらしい。


 その話を聞いた俺は、死んでも変わらないんだなと項垂れる優香の父親に見られないように小さく吹き出した事は内緒だ。


 優香の説教から目覚めてからこれまで酷い事をしてしまった事を時折、奥さんに懺悔する日々が続いていたそうだ。


 何度も俺に会って謝罪しようとしたらしいんだけど、優香が死んでから暫くして今のマンションに引っ越してしまった為に、消息を掴む事が出来ずに今日に至ったのだと言う。


「今更こんな事をしても只の自己満足だと思われるかもしれないが、今の私にはこれしか思いつかなくて、どうやって償えばいいのか……分からないんだ」


 これまでの経緯を聞かされて、最後にそう話す優香の父親に対して気にするなと言っても恐らく聞き入れてくれないだろう。


 それなら、1つだけ諦めていた事を頼んでみようか。


「それじゃ、1つだけお願いを聞いて貰えますか?」

「な、なんだ!? 何でも言って欲しい! 私に出来る事なら何でもする!」

「――優香さんのお仏壇に線香をあげて、手を合わさせて貰えませんか?」

「そ、そんなもののどこが謝罪になるっていうんだ」

「そう仰ってくれるって事は、許可してもらえるんですね? 今の僕にはずっと諦めていた事なのでお願いします」


 言って、俺の足元で両手をついている優香の父親の手を取って、自分が立ち上がるのと同時に、父親を力強く引き上げた。


「実は、ようやく優香さんの死を受け入れる事が出来て、今日はここにお別れを言いに来たんですよ。でも、仏壇に手を合わせられない事が心残りだったので、許してもらえるのなら凄く嬉しいです」


 優香の父親は随分と老け込んだように見えた。

 若々しかった髪もかなり白髪が混じっていて、それだけでこれまでの気苦労が伺えた。


「……まったく君って男は――この場で殴り飛ばされたって何も言えないようは事をしたんだぞ? 私は」


 半ば呆れたような笑み向けてきたかと思うと「でも」と続ける。


「――さすがは、優香が惚れた男って事なんだろうね」

「それって、誉め言葉って事でいいんですよね?」


 俺は父親に白々しくそう問うと、お互い可笑しな感情が湧いてきて、思わず2人で笑い合ったのだった。

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