第48話 大学入試――開始!
2月某日。
この時期は私立大学の入試が集中する期間だった。
天谷のゼミ仲間達が受験する複数の大学が被る事はなかったのだが、加藤も含め佐竹と神山もセンターの結果は上々だったようで、それぞれ志望大学の試験に自信をもって挑む。
そして今日は加藤の志望大学であるO大の試験日。
センター試験で加藤が極度のあがり症が発覚した為、その対策としてセンターの時と同様に鎮静剤役を松崎が担当する事になった。
テストが平日であった為、松崎も仕事だから悪いと断わった加藤だったのだが「へぇ、そんなにプレゼン側に回りたいんだ」と松崎に痛い所を突かれた加藤は「……お願いします」とあっさりと降参したのだ。
センター試験の時とは違って今回はサプライズではなく、事前に待ち合わせをしていたのだが、今日は違う意味で緊張した面持ちで駅のホームで松崎を待つ。
本来の予定では先日受験したI大が本命だったのだが、センターの結果がかなり良かった為、結果を持ち帰って両親と相談した結果。上を目指せるのなら目指すべきだと背中を押された加藤は本命の大学をO大に定めて受験プランを変更したのだ。
今でも無謀な事をしたのではと思っている加藤であったが、仲間達が大丈夫だと励ましてくれた。
特に合宿の頃から勉強を見てくれていた瑞樹に、十分に勝算はあると太鼓判を押してくれたのが、今の一番の原動力になっているのは間違いなかった。
だが、これまでの実績と、今の精神状態は決してイコールではなく、滑り止めを受験した時のようにと思い込もうとしている加藤であったが、どうしても心のコントロールが利いてくれない。
落ち着こうと何度も深呼吸する時でさえ、吐く息が震えている。
我ながら情けないと自分に苛立ちを覚えた時、加藤が心待ちにしていた姿が視界に入った。
「おはよ! 思ってた以上に緊張してるみたいだな」
「松崎……さん」
平日だった為、そのまま出勤するつもりなのだろう。
加藤の前に現れた松崎は、ワイシャツにネクタイを締めたスーツ姿で上にビジネスコートを羽織っていた。
「お、おはようございます。あの……お仕事前にすみません」
顔色が悪いまま、加藤は松崎に頭を下げる。
「いいよ。好きでやってる事なんだから、気にすんな」
松崎にそう言われて安堵した加藤であったが、やがてモジモジと恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「えっと……その……ですね」
言い難そうにしていた加藤だったが、言葉が口から出てくる前にゆっくりと松崎に近寄り始める。
そんな加藤を見て何を求めているのか察した松崎も、ゆっくりと両手を広げて加藤を迎え入れるポーズをとった。
開かれた両手を見た加藤は、頬を赤らめながらも嬉しそうに足を速めて、そのままの勢いで松崎に腕の中に飛び込んだ。
センター試験の朝も感じたこの温もりが欲しくて、冷たい風が吹き抜けるホームで待っていたのだ。
勿論、恥ずかしくないわけではないが、それ以上に心が安らぐ気持ちが上回っていて、飛び込む事に躊躇する事はない。
松崎の温もりを感じて、松崎の匂いを嗅ぐ。これだけの事で、自分でも驚くほど心が満ちた足りていく加藤は、胸元に顔を埋めたまま松崎に話しかける。
「……あ、あの」
「うん?」
「えっと、14日って平日だからお仕事ですよね?」
「うん。そうだけど」
「えっと、何時になっても構いませんから、お仕事が終わったら少し時間貰えませんか?」
それがどういう意味なのか解らない松崎ではない。
嬉しい気持ちと言わせてしまった情けなさが入り交じる松崎は少し引き攣った顔で、自分の腕の中に潜り込んでいる加藤の艶のある髪に視線を落とす。
それに、加藤の行動が予想通りであれば、彼女に自分の本当の事を話さなければいけないという恐怖が、松崎の脳裏をよぎり言葉に詰まってしまった。
「だ、駄目……ですか?」
加藤はまだ胸元に顔を埋めたまま、返事がない松崎に再度返答を求めた。
「あ、あぁ。分かった。なるべく早く終われるように頑張るよ」
「ありがとうございます……よかったぁ」
ホッと安堵の息を漏らした加藤は、松崎の腕に包まれていた体を少し離して「充電完了!」と呟いて、ギュッと小さな拳を胸の前で握りしめた。
「よし! 本命のO大勝ち取っておいで」
松崎がそう励ますと、キラキラさせていた顔色が少し影を落として「……ごめんなさい」と呟く。
お礼ならともかく謝られる心当たりが全くない松崎は、訳が分からず首を傾げた。
「センターの結果が思っていた以上に良かったから欲が出て、O大を受ける事にしたので……その」
「ん? O大に受かる可能性が十分にあるから挑戦する事にしたんだよな? 何でその事で俺に謝ったりするんだ?」
「だって……もし受かったりしたら、その……共学の大学に通う事になってしまうので……」
加藤が何を言いたいのか、そこまで聞いてようやく理解できた松崎。
初詣の時、確かに加藤が共学の大学のサークル活動等で、色々な出会いを楽しむ事を面白くないと言ったのだ。加藤はその事を気にしているのだろう。
「あぁ、そういう事か」
言うと、加藤は黙ったままモジモジと落ち着かない仕草を見せる。
「確かにあの時はそう言ったけど、そんな事気にしなくていい」
「……でも!」
「今はそんなどうでもいい事考えてる場合じゃない……よな?」
不安気な表情を見せる加藤に、松崎は真っ直ぐ訴えかけるように見つめて、そう発破をかける。
「――はい!」
松崎の目から何かを感じ取ったのか、更に距離をとるにつれて加藤の目つきが変わっていく。
「うっし! いってこい! 愛菜ちゃん」
「はいっ! いってきます!」
ホームに入って来た電車を背に、加藤が白い歯を見せてVサインする。
やがてドアが開き電車に乗り込んだ加藤が松崎の方に向き直り、小さく手を振るのを最後に元気印の女の子を乗せた電車はホームを出て行った。
嬉しそうに手を振る加藤を見送った松崎は、複雑な表情を浮かべる。もし14日に予想通りの行動に加藤がでた場合、彼女の気持ちを拒否する事ができなくなっている松崎ひは、もはや隠していた事を話す以外の選択肢がない。
もし、隠したまま加藤の気持ちを受け入れてしまうと絶対に後悔するし、それになにより彼女を傷つけてしまう事になるからだ。
果たして、この話をして彼女はどう思うのだろうと考えると、松崎の心は不安で押し潰されそうになる。
怖さは当然にある。だけど決していい加減な気持ちで彼女に接しているわけではない証明として、必ず伝えようと走り去る電車を最後まで見送った松崎は「よし!」と独り言ちて、会社がある下り線のホームに足を向けた。
◆◇
加藤がO大の試験に挑んだ数日後。
瑞樹も今日が最後の私立大学の入試の日だった。
滑り止めとはいえ、私立に進む事になるならここと決めていた私立大学の本命の受験日なのだ。
いつも通りの時間に起きて、いつも通りに身支度を進めていく。
本人は至って落ち着いていて、家族の方がオロオロと落ち着きがない状況だった。
「何でお父さん達がオロオロしてるの?」
朝食を摂っていた瑞樹が苦笑いを浮かべて言う。
それだけ心配してくれているのは嬉しい気持ちもあるのだが、もう少し自分の娘を信じて欲しいとも思う瑞樹。
「そ、そうだな! それに今日は滑り止めの私立の入試だもんな」
「そうだよ。私立の入試でそんなに慌ててたら、本番どうなっちゃうのか今から心配だよ」
「ホントそれ! 当日トイレに引き篭もって出てこなそう」
「そ、そんな事するわけないだろ。そんな事言ってー希が一番ソワソワしてるんじゃないか?」
「は? なんでだし!」
「普段起こしても中々起きないお前が、こんな時間に起きてきたからだよ。センター試験の時もそうだったろ?」
「うっ……だって、お姉ちゃん頑張ってたし、受かって欲しいじゃん」
顔を真っ赤に染める希に微笑んでいると「温かい眼差しとかいらんから!」と小走りにリビングに戻っていった。
「はは、本当に素直じゃない奴だな」
「ふふ、希は小さい頃から志乃が大好きだったもんね」
「違うよ、お母さん。私が希の事が大好きなんだよ」
ははっと希が引っ込んでしまったリビングの方を眺めながら、3人は可笑しそうに笑みを零した。
「それじゃ行ってくるね」
「あぁ、落ち着いてな」
「帰ったら御馳走用意してるから、頑張って来なさい」
「うん、ありがと! いってきます」
元気に玄関を飛び出した瑞樹の姿は、どこからどうみても大学入試を受けに行くようには見えず、まるで遊びに行くようにさえ見えた。
だが……それは瑞樹なりの家族への気遣いだった事は、希を含めて誰も気が付いていない。
恐らくだが、あの場に加藤がいたとしても気付かない程、瑞樹は完璧に本心を隠しきっただろう。
それが瑞樹が今まで培ってきたスキルなのだ。
忌み嫌ったスキルではあったが、使い方次第と考えるようになったのは、それだけ瑞樹自身の環境が改善されたからだろう。
ここで誤解して欲しくないのは、瑞樹は決して不安で押しつぶされそうになっているわけではないという事。
瑞樹は内で渦巻いているもの、それは怖気づく弱い感情ではなく、暴走してしまいそうになる程の逸る気持ちが渦巻いていた。
この感情を何とか抑え込まなければ、手痛いしっぺ返しを食らう恐れがある事を瑞樹は感覚で理解しているのだが、この感情のコントロールが今朝起きた時から上手くいかずに焦っていた。
瑞樹がここまで逸る気持ちを抱いている理由。
それは決して絶対的な自信からくるものではなく、受験とは全く関係ない想い人への焦りからくるものだった。
早く入試を終えて完全に間宮と向き合いたい気持ちが強すぎて、瑞樹のこれからの人生にとって最重要事項である大学受験すら、邪魔になってしまっていたのだ。
早く受験を終えて間宮の元に駆け寄りたい。
心の底から慕う気持ちを伝えたい。
引っ込み思案の瑞樹がここまで焦っている最大の原因。
それは――カリスマロックシンガーである神楽優希の存在のみ。
優希の存在、そして間宮との関係を知った瑞樹には、得も言われぬ感情が渦巻いていた。
心の中にいるもう1人の自分が急げと訴えかけるのだ。
やがて入試会場に着いた瑞樹は、どうにかしてこの逸る気持ちを抑え込まないとと、会場の門に背を向けて、目を閉じて大きく息を吐く。
(だめだ……気持ちが全然落ち着いてくれない。このままじゃ……)
そんな時小さな音が耳に届く。
受験生が次々と潜る門にいる為、そのざわめきで聞き逃しそうになる程の小さな音であったが、意識を自分の中に向けていた瑞樹はその小さな音が自分の制服のポケットから鳴っている事に気付く。
着信音が鳴り始めて少し経ってしまっていた為、慌ててポケットからスマホを取り出した瑞樹は、誰からの電話なのか確認せずに慌ててスマホを耳に当てた。
「も、もしもし?」
『声が強張ってるぞ? 余計な事考えないで力を抜かないと、実力の半分も出せないぞ』
「――間宮さん」
かなり引きつっていたであろう顔の筋肉が瞬時に緩む。
どうしてこの人の声はこんなに穏やかな気持ちにさせてくれるんだろうと、朝の挨拶もなくいきなり力を抜けと言う間宮の声が、瑞樹の全身に染み渡っていく。
「間宮さん?」
『うん?』
「おはようの一言もなく、いきなりそれなの?」
『おっと、はは、そうだったな。おはよう――瑞樹』
「うん。おはよう――間宮さん」
締まらない会話で笑う瑞樹だったが、さっきまでコントロールが利かなかった逸る気持ちがゆっくりと消えていく。
『もうあまり時間ないんだろ? 最後に深呼吸でもしていっておいで』
「――うん」
本当に不思議に思う。
あれだけ深呼吸を試してもどうにもならなかった感情が、間宮の声を聞きながら行うと、驚くほど逸る気持ちが穏やかになっていく。
こんな事を言うとまた子供扱いされそうだから絶対に口にはしないが、時々間宮は魔法使いではないかと思う瑞樹であった。
穏やかになっていく感情と共に、殆ど耳に入っていなかった周囲の声や音を少しの間、まるで音楽を聴くように耳を傾け、そして意識を再び電話の向かう側にいる間宮に向けた。
「……何で分かったの?」
『うん? うーん、前に会って話した時自信をもったっていうより、何か無駄に気負ってるように見えたからな』
「む、無駄って言うなぁ!」
やっぱり間宮には勝てない気がした。
早く大人になってこの人を隣で支えられる存在になりたいと思っていた瑞樹だったが、それは無理なんじゃないかと思い直す。
間宮が見ているものが自分には見えない気がした。だけど不思議と気持ちが落ち込まない。寧ろ、絶対的な頼り甲斐に瑞樹の頬が赤く染まった。
「ありがと、間宮さん」
『どういたしまして。んじゃ、どこの私大か知らんけど、サクッと行ってこい!』
「ふふ、うん! いってくる!」
間宮との電話を切って鞄にスマホを戻した瑞樹の顔が、ついさっきのものとは別物のようになり、圧倒的な自信が目力となって表れていた。
「それじゃ、いってみようか!」
独り言ちて背を向けていた正門に向き直り、口角を上げて瑞樹は試験会場に姿を消したのだった。
――――あとがき
次話より更新時間を19時に変更させて頂きます。
何故かって? なんとなくですw
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