第43話 センター試験 後編 加藤と瑞樹の特効薬

 センター試験同日。


「…………」


 瑞樹に指定された時間に最寄り駅のホームで1人白い息を吐いた加藤は、瑞樹の到着を待っていた。

 瑞樹の提案で予定していた時間より30分早くここで待ち合わせて、少し話をする事になっていたからだ。

 相変わらず体の震えが止まらない。それは気温のせいだけではなくて、今朝起きて急に襲った極度の緊張のせいだ。

 家を出る時に見送ってくれた家族の前では心配かけまいと、どうにか誤魔化せたのだが。本当は逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのだ。


 ホームに電車が入るアナウンスが流れる。

 待ち合わせ時間から考えて、この電車に瑞樹が乗っているはずだとスピードを落としながらホームに入ってきた電車の車両に、まるで迷子の子供が親を探すような不安気な表情で瑞樹の姿を探す。

 だが、動体視力に自信がある方な加藤をもってしても、待ち人である瑞樹の姿は捉えられなかった。


 加藤は停車した電車から降りて来る乗客達を必死で目で追いながら、もしかして電車に乗り遅れたのかもとスマホを見るが、瑞樹からは何も連絡は届いていなかった。

 震える手でスマホを握りしめながら降りて来る乗客に視線を戻した加藤だが、とうとう瑞樹の姿を見付ける事なく電車は次の駅を目指してホームを出て行ってしまった。


 すぐにスマホで瑞樹に連絡を取ろうとした加藤だったが、瑞樹のアドレスを立ち上げてタップしようとした指が止まる。

 きっと何かあって時間がなくなってしまったんだろう。

 なのに、自分の我儘で大事なセンター当日にこれ以上無理を言うのは絶対に間違っていると思い直した加藤は、スマホを鞄に仕舞い込んだ。


 ……何が元気印のムードメーカーだ。情けない……こんなに自分が弱いと思っていなかったと、加藤はキュッと唇を噛む。


(結局他人の背中を押すだけで、自分の事になると何も出来ない弱虫じゃないか……)


 上り線下り線共に電車がなく、人気のなくなった早朝のホームに冷たい風が吹き抜けていく。


 ――グスッ……ヒック。


 静かになったホームに、小さな嗚咽だけが冷たい風に乗って流され行く。今朝起きてから必死に耐えてきた涙がとうとう限界を迎えてしまい、もうどうしていいのかわからず加藤はただ小さく泣いた。

 歪む視界の先にポツポツと涙が零れ落ちていく。

 兎に角、会場に向かわないとと加藤はゴシゴシと両目を擦って涙を乱暴に拭き取り、次の電車が到着するまでに気持ちを落ち着かせようと深呼吸して震える息を吐きだした時だ。

 加藤の頭の上にポンと何かが乗った感覚があった。

 何事かと何時の間にか誰もいなかったはずの自分の隣に感じた気配を辿る様に、恐る恐る目線を上げた途端に加藤の視界がまた歪んだ。


「――こんな所でなにやってんの」


 頭の上から声が落ちてきて、隣に誰がいるのか完全に理解した加藤の口からその人物の名が零れる。


「……松崎さ……ん」


 加藤の隣にいたのは、寝ぐせでグチャグチャになった髪をそのままに、おそらく寝ていた時のままだと思えるスウェットの上に、ダウンジャケットを羽織っている松崎がいた。


 そんな松崎の顔を見た時、加藤の思考が混乱して身動きがとれなくなった。余りにも都合が良過ぎる展開に現状が正しく把握できなくなった為だ。


「ったく。なんて顔してんだよ」


 目を大きく見開いて大粒の涙をボロボロと零す加藤に、松崎が苦笑いを浮かべながら苦言を零すのだが、その声は今まで聞いた事がない程に優しい声色だった。


 ――ポスッ!


 ポケットに手を突っ込んで何か拭く物を探している松崎の胸元に、加藤が無言で顔を埋めた。


「え? お、おい! 愛菜ちゃん!?」


 驚いた松崎は思わず両腕を上げながら話しかけたのだが、加藤は無言のまま両腕を松崎の背中に回してギュッと力を込める。

 松崎の体に加藤の震えが伝わってきたかと思うと、小さな嗚咽が聞こえて始めた。その震えと泣き声を聞いた松崎は咄嗟に上げていた両腕をゆっくりと降ろして、震える加藤の両肩に優しく乗せると、抱きしめている加藤の腕に更に力が籠る。


「今朝は特に寒いもんな――」


 松崎が優しくそう言うと、加藤は黙ったまま小さくコクンと頷くと、松崎はもう何も言わずにそっと加藤を抱きしめた。

 その間、電車が一本ホームに入ってきて僅かにだが乗客の往来があり、松崎達に視線が集まったのだが、松崎はそんな事を気にも留めずに周りから加藤の顔が見えないように優しく包み込んだ。


 やがて聞こえていた嗚咽が止んで、感じていた震えも止まった事を確認した松崎がゆっくりと抱擁を解くと、背中に回していた加藤の両腕から力が抜けていき、2人の間に空間が生まれた。


「服……汚しちゃってごめんなさい」


 離れた加藤は俯いたまま、顔を埋めていた場所に涙が染み込んだ事を謝るとまた口を閉じる。


 言われて自分の胸元を覗き込むと、確かに涙が染み込んでその部分だけ色が濃くなっている。


「はは、こんなのほっとけば乾くんだから気にすんな。そんな事よりも……だ」


 もう1度ジャケットのポケットに手を突っ込んで小さなハンドタオルを取り出して、加藤にそっと差し出しながら松崎が口を開く。


「そんなグチャグチャな顔でセンター受けに行くつもりか?」


 加藤はもう泣き疲れたような顔になっていて、その顔には何本もの涙の後と泣き尽くした後の腫れてしまった目があった。


「……すみません」


 差し出されたハンドタオルを受け取った加藤は、軽く目元に当てて涙を拭き取る。


「それと、ほれ!」


 加藤が顔を拭いている間に、近くにあった自販機で買ったミルクティーの缶を差し出す松崎。


「あ、ありがとうございます」


 一瞬鞄の中にある財布を取り出そうとした加藤だったが、どうせ受け取って貰えないんだろうと、素直に差し出された缶を受け取った。


 プルタブを開けて一口温かいミルクティーを口に含んで、少し落ち着く事ができた加藤は、当然の質問を松崎に訊く。


「……あの、どうしてここに?」

「あぁ、勿論愛菜ちゃんのピンチを感じて駆けつけたわけじゃなくて、大体予想はついてるだろうけど……瑞樹ちゃんに連絡貰ったんだ。愛菜ちゃんがここで俺を待ってるって」


 松崎の腕の中で泣いている時に、恐らくそうなのだろうと予想はしていた加藤。でなければ、ここに瑞樹が現れない理由が見つからないから。


「松崎さんにまで迷惑かけてしまって……すみません」

「ん? 別に迷惑なんて思ってないよ。受験当日になって逃げだしたくなる気持ちは俺にも経験があるしな」

「松崎さんも?」

「おう! 特に俺なんて愛菜ちゃんみたいにやる事は全てやったなんて、とても言えなかったから特にな!」


 加藤は明るく話す松崎の顔を見て、もう1度ミルクティ―を口に含んで大きく深呼吸して、改めて松崎の顔を見上げる。


「うん、もう大丈夫です! おかげさまで落ち着けました」

「はは、そっか」

「はい!」


 そう言った加藤の顔はついさっきまで沈み込んだものではなく、如何にも彼女らしい笑顔を白い息の向こうにいる松崎に見せたのであった。


 やがて次の電車がホームに滑り込んできたのを確認した松崎が、加藤の背中を優しく押して「いってこい!」と発破をかけると、加藤は迷う事なく電車に飛び乗った。


「松崎さん! 今日はホントにありがとうございました。私、頑張ってきますね!」


 電車に乗り込んですぐに松崎の方に振り返り元気にそう宣言した姿は、いつもの元気印の加藤に戻っていた。


「おう! 愛菜ちゃんなら大丈夫! 頑張っておいで!」

「はい! あ、終わったらご褒美にどこか遊びに連れて行って下さいね!」


 どさくさに紛れてデートの約束を取り付けようとする余裕ができた加藤は、敬礼のポーズをとり白い歯を見せて片目を閉じた。


「はは、現金な奴だなぁ。いいよ! どこにでも連れていってやるから頑張ってこい!」

「はい! 言質取りましたからね! いってきます!」


 やがて元気な笑顔の加藤を乗せた電車が、次の駅に向けてホームを出て行った。


 加藤は走り出した電車の中で、ポケットに仕舞っていた松崎から貰ったお守りを取り出して、胸の前でキュッと両手で包み込んで目を閉じた。


(やってくれたなぁ、志乃ぉ!)


 いつも焼いているお節介をやり返されたと、ここにいない瑞樹にクックックッと声を殺して笑う加藤だった。


 ◇◆


 センター試験が行われる会場の最寄り駅に着いた瑞樹は、立ち止まる事なくまっすぐに会場を目指して歩く。

 同じ方向に歩いているのは、殆ど同じ場所で試験を受ける受験生ばかりのようだ。

 周りの受験生達は歩きながら参考書や暗記カードに視線を落として最終チェックに余念がない。

 そんな中、同じ受験生である瑞樹は鞄を持っている以外、手は何も仕事をしておらず、目線を落とす事なく目的地に向かって真っ直ぐ前を向いて歩いていた。


 会場前に到着した時、鞄の中のスマホが震えているのに気付いた瑞樹は立ち止まって画面を立ち上げて見ると、加藤からメッセージが届いていた。


『やられた! ありがと!』


 シンプルに一言だけ書き込まれたメッセージに、どうやら上手くいったようだと瑞樹は悪戯っぽく笑みを浮かべる。


 こんな時、親友の自分より好きな人が傍にいてくれる方が勇気がでるのは経験済みの瑞樹。

 少し寂しい気もするのだが、親友がベストの状態で試験に挑む事が重要だから、これで良かったのだと安堵の息を吐いた。


『今度何か奢ってねw』


 冗談っぽくそれだけ返信した瑞樹が、スマホを鞄に仕舞おうとした時だった。手放そうとしたスマホがまた震えた。その振動は1度の震えではなく、数回続いても止まらない。

 さては加藤が電話をかけてきたのだと察した瑞樹は、まだ時間に余裕がある事を確認してクスクスと笑みを零しながら、着信者の名前を確認せずにスマホを耳に当てた。


「もしもーし! お礼ならこの前一緒に行ったカフェのスイーツでいいよ」


 電話にでるなり相手の声も聞かずに、一方的にそんな事を切り出した後――ニヤリと笑みを零す瑞樹の顔が固まる事になる。


『ん? スイーツ? なんだそれ』


(……あ、あれ? 愛菜じゃないの!? ってこの声って……)


「え? ま、間宮さん!?」

『え? そうだけど、通知見ずに電話にでたのか?』

「う、うん……てっきり愛菜だと思って……」


 加藤だと決めつけてしまっていた為、急激に顔を赤らめる瑞樹。


『……プッ! クックックッ――あっはははは!』

「え? え? え!?」


 電話越しに明るい笑い声が瑞樹に届く。

 その笑い声に呆れられたと変な汗が出そうになる程焦った瑞樹だったが、直ぐにその焦りがスッと消える言葉が耳元に届く。


『緊張してるんじゃないかと思って電話したんだけどな。加藤にそんな冗談を言えるんだから、どうやら余計な心配だったみたいだな』


 間宮は瑞樹の精神状態を心配して電話をしてきたようで、瑞樹にはその気持ちが嬉しくて、寒空の下で冷やされた体が温かくなるのを感じた。


「うん、ありがと。でね! 私……今ね?」

『うん?』

「今、私K大の前に立ってるんだよ!」

『K大に? あぁそっか。瑞樹の学校が受けるセンター会場ってK大だったのか』


 今、瑞樹はセンター試験会場であるK大の前にいたのだ。

 初めて見る目標にしていたK大の佇まいに思わず溜息が漏れた。


「ここが間宮さんの母校なんだね」

『そうだな。どうだ? K大は』

「うん……思わず溜息がでちゃったよ……。何て言うか圧倒される感じかな」

『怖くなった?』

「ううん! 変かもだけど、今凄くワクワクしてる』


 言って瑞樹は目をキラキラと輝かせた。

 腰が引けるわけでもなく、慢心しているわけでもない。

 只、ここを目指して全力で突っ走ってきた瑞樹からは充実感だけが溢れていた。


『ワクワク……か。それは凄いな』

「でしょ!」

『あぁ。俺なんて気持ちを落ち着けようと、必死だった記憶しかないけどな』

「あっはは! オドオドする間宮さんって見てみたいかも」

『ばーか! 昔の話だよ、昔の! ――なぁ、瑞樹』

「ん? なに?」

『……いや、なんでもない。試験楽しんでこい!』

「うん、ありがと! いってきます!」


 言って電話を切った瑞樹は、暫く何も聞こえなくなったスマホを嬉しそうに眺めた。

 間宮が気に掛けてくれていた事が、本当に嬉しかったのだ。

 目を閉じて深呼吸をして、再び目を開く瑞樹の目には自信が満ち溢れていた。


 中学の事件から、去年間宮と出会うまで瑞樹からは想像も出来ない姿だった。

 いや、あの事件に巻き込まれる以前からでも、今の瑞樹には到底及ばないだろう。

 瑞樹は間宮と出会ってから色々と変わったのだが、その変化は決して明るかった昔の瑞樹に戻ったわけではなく、新しく強い女の子に生まれ変わったのだと言った方がいいだろう。

 気高く、美しく、優しい。そして何より強い心を手に入れた瑞樹は、もはや無敵だと言えるものだった。

 それは心の真ん中にいつも間宮が存在しているから。

 間宮を想う自分に、少しずつ自信が持てるようになり嫌いだった自分を好きになれた事が、今の瑞樹を形成しているといっても加過言ではないだろう。


 立ち止まっていた歩みを再開させる。


 瑞樹自身が望んだ未来を掴む為の、戦いの場に向かって。










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