第24話 綺麗な私を見せたくて

 間宮と初詣の約束を取り付けた夜。

 病院を後にした瑞樹はA駅から全力疾走で自転車を漕いで帰宅すると、バタバタとリビングに突入した。


「お母さん! 着物ってあったよね!?」


 リビングのドアを勢いよく開けた瑞樹は開口一番に着物の有無の確認をとると、夕食の準備をしていた瑞樹の母親が驚いて危うく手に持っていた包丁を落としそうになった。


「ビックリしたぁ! こら志乃! 帰ったらまずただいまでしょ! そんな当たり前の事を叱らないといけないの!?」


 母親は持っていた包丁を瑞樹に向けて、呆れたように説教を始める。


「ご、ごめん、ちょっと急いでたから! だ、だからその包丁仕舞ってよ……怖いよ」


 娘に言われて初めて気付いたのか、母は慌てて包丁をまな板に置いた。


「それで? 急に着物なんてずっと着たがらなかったじゃない」


 母の言う事はまさに正論で、瑞樹は中学のあの事件から男達を引き付ける要因にしかならない物を拒絶してきたのだ。

 ましてや着物なんてもってのほかのアイテムだった事は言うまでもない。


 そんな瑞樹だったが、今回は全く状況が変わったのだ。

 目立つとか保身的な事を無視してでも、晴れ着姿を間宮に見て貰いたいという一心だった。


「えっと……折角有るものなんだし、偶には着ないと勿体ない……じゃん?」


 目を泳がせながらそんな白々しい事言うものだから、察するものがあったのか母親の口角が上がる。


「ふーん。まぁ、そういう事にしといてあげる」


 ニヤついた顔のまま母親は和室に向かい、気まずさ全開の瑞樹を手招きした。

 呼ばれるまま大人しく和室に向かった瑞樹の視界に、タンスの下段の引き出しから取り出された着物が飛び込んできた。


 保管状態も良好で、色鮮やかな生地が瑞樹の目を楽しませてくれる。


「これでいい?」

「これ! まだあって良かった」


 手にしている着物にそっと触れて嬉しそうに頬を緩ませる娘を、母親は愛おしそうに微笑んだ。


「初詣に着るんでしょ?」

「うん。友達と元旦に合格祈願しに行こうって事になって」

「友達って男の子……よね? もしかして2人で行くの?」


 母の表情を見る限り、下手な嘘をついても無駄だと諦めた瑞樹は観念したように頬を染めて無言で頷き、母の言う事を肯定した。


「そっかぁ。志乃にもとうとうそんな相手が現れたか」


 そう話す母の顔は本当に嬉しそうだった。


「よし! それじゃ当日は早起きしなさいよ。着付け諸々は全部お母さんがやってあげるから」

「え? いいの? 折角のお休みなのに……私は美容院を予約するつもりだったよ」

「何言ってるの! 娘の晴れ姿を他人に任せられないわ。それに志乃には色々と迷惑ばっかりかけてるんだから、これくらい当然よ。寧ろ、是非お母さんにさせてほしい!」


 瑞樹の本音はそこにあった。記憶違いでなければ着物はある事は分かっていた。問題は元旦に着付けをしてくる美容院の確保だったのだ。勿論、片っ端から電話するつもりだった瑞樹だったが、仮に見つかったとしても高校生には厳しい料金なのは間違いなかった。

 その問題が解消された事も当然だが、何より普段から家族の為にやってきた事が感謝されたことがなにより嬉しかったのだ。


「ありがとう……ありがとう! お母さん!」

「ちょっとぉ、着物が皺になっちゃうでしょ!」


 色々な嬉しさが爆発したように、瑞樹は思わず母に抱き着いて思う。こんな事をするなんていつ以来だろうと……恐らく小学3年生以来だったかと思うと、何だか恥ずかしくなってきた瑞樹だった。


「大きくなったと思ってたけど、やっぱりまだまだ子供ねぇ」


 クスっと笑みを零す母は慈愛に満ちた顔で、愛娘の頭を優しく撫でる。


「えへへ、ありがとう、お母さん。ホントに嬉しい」

「お礼を言うのはお母さんの方。いつも志乃に甘えてばかりでごめんね」


 そう話す母親の胸元から顔を出した瑞樹が、首を横に振る。


「ん? おっ着物じゃないか。初詣で久しぶりに着物姿を見せてくれるのか?」


 瑞樹達のやり取りに気付いた父親が、和室にひょっこり顔を出して嬉しそうに瑞樹に話しかける。

 久しぶりに愛娘の晴れ着姿を想像したのか、和室に入って来た父は胸を躍らせるようにご機嫌だった。


「着物は着るけど、今回は友達と初詣に行くから」

「……え?」


 父の顔が瞬時に固まる。毎年初詣は家族で行くのが通例になっており、当然今回の初詣もと思い込んでいた父にとって、ショック以外の感情が湧かないのも無理はない。


「じ、じゃあ父さん達とは?」

「勿論行くよ? 何度も着物は着れないから洋服だし、二度詣になるけど……」


 忙しい生活だからこそ、家族のイベントごとをずっと大切にしてきた父にとって、娘にあっさりとキャンセルを喰らった現実にこれまで一度もなかった事に項垂れた。


「……誰なんだ?」

「え?」

「そんな恰好で誰と初詣に行くんだ? まさか男じゃないよな!?」


 父は最後の砦と言わんばかりに、縋る思いで当日の詳細を求めた。


「え? えっと……それは」


 流石にここまで落ち込む父を見て正直に話すのを躊躇している瑞樹を余所に、母親が溜息交じりに口を挟む。


「わざわざ着物を引っ張り出すのよ? 男の子に決まってるじゃない。分かっててそんな事訊くなんて、意地が悪いんじゃないの?」


 まったくともう1度溜息をついて、呆れ顔で話す母に瑞樹はオロオロと戸惑っていると、くわっと目を見開いた父が母を指差して猛抗議する。


「お前じゃなくて志乃に訊いてるんだ! で!? 本当の所はどうなんだ? え!?」


 まるで神にでも縋るかのように瑞樹に再度問う父に、瑞樹は母の援護があるうちに一言呟くように答える。


「――ごめん」


 その一言だけで父の僅かな希望を粉砕するのに十分の破壊力があった。父は「……そうか」とだけ掠れる声で返すと、力ない足取りで和室から出て行った。


 そんな父の姿を見た母は可笑しそうに笑い、父を傷つけてしまったと影を落とす瑞樹に口を開く。


「今晩はお酒の量が増えそうね。沢山おつまみがいるだろうから、志乃も手を洗って手伝ってちょうだい」


 そう言う母は袖を捲りながら、再びキッチンに向かい出した。


「うん、分かった! すぐに準備するから」


 瑞樹は父に少しでも元気になって貰おうと手伝いを了承して、洗面台に向かう為にリビングを通りかかった時、ソファーに座っている父の背中が小さく感じた。

 いつも大きな背中で家族を守ってくれていた背中が小さく見えた瑞樹は、それだけ親から自立する準備が進んでいるのだと実感した。受験を経て大学生になり、やがて社会に出る。いつまでも子供として親に守って貰うばかりではいられない。

 親はそんな事をするつもりはないかもしれないが、それに甘えていたら何時まで経っても大人にはなれないのだ。

 大人になれないと、何時までもあの人と並ぶことが出来ない。

 それは瑞樹にとって、一番望まない未来だ。


 だから父に申し訳ない気持ちはあった瑞樹だったが、親離れをするという事は子離れをしてもらわないといけないと、ソファーに力なく座っている父に心を鬼にして変な言い訳などせずにリビングを出て行った。



 大きくなったらお父さんと結婚する。

 この台詞は娘をもった大概の父親なら、1度は言われた事があるのではないだろうか。

 そんな事を言ってくれる時が一番幸せだったと、時間が経過すればそう思い返す回数が増えていく。

 勿論、その言葉を鵜吞みにしたわけではないけれど、その純真な心が他の男に移る時、どうしても裏切られたと思ってしまうのは愚かな事なのだろうかと、父は娘に言いたい気持ちを堪えるのに必死なのだ。


 娘に父親なんて無力でしかないと痛感する。

 小さい頃は無垢で可愛らしい存在で、まるで宝石に触れるような気持ちにさせてくれて、自分が娘を幸せにするんだと意気込んだものだ。

 だが、少女から女性に成長していくにつれ、只々心配事ばかりが増えていく。助けたい気持ちはあるのに、男である自分には力になれない事が増えていくばかりで、自分の不甲斐なさに苛立った時もあった。

 だが、幸いな事に長女である志乃は家族を優先してくれる娘になってくれた事によって、そんな暗くなった気持ちを晴らしてくれる存在だったのだ。


 そんな娘がとうとう家族の時間より、優先させるものを手に入れてしまった。同僚達の話しを訊く限り我が家は全然マシな方らしく、早い家庭は中学生に上がった途端、家族から離れていくケースも珍しくないと聞かされていた事だけが、心の救いになっていた。


 いつかは誰かに盗られる存在だと覚悟はしていても、本当は……本当の本当は心の片隅に期待していたのだ。

 大きくなったらお父さんと結婚するという言葉を。


「おまたせ、お父さん。ご飯出来たよ」

「……あぁ、今行くよ」

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