第44話 未遂と希望 前編
神楽優希こと香坂優希と再開した次の週末の昼下がり。
間宮は小綺麗にラッピングされた荷物を抱え、とあるマンションを訪れていた。
『はい!』
「あ、間宮です」
『おぉ! すぐ開けるからちょっと待って』
インターフォンからそう返事が返ってくる声の後ろから、元気な赤ちゃんの声が聞こえてきて、間宮は優しく微笑んだ。
ガチャリと玄関のドアが開いて現れたのは昔、同じ女性を取り合った東だった。
「いらっしゃい! よく来てくれたな」
「こんにちは、東さん」
東は顔を合わすなり、ジッと間宮を観察するように見つめる。
「な、なに? 俺の顔に何か付いてますか?」
真剣な眼差しに、間宮は後退りして顔を引きつらせると、東はホッと安堵した顔つきになる。
「ん? いや、前に会った時より元気そうだなって安心したんだよ」
「あ、ありがとう……です」
以前会った時、自分がどんな状態だったか把握している間宮は、照れ臭そうに頬を掻きながら妙な礼を述べた。
東は間宮と頻繁に会ったりする関係ではない。
だが、会う度に東はまるで間宮の観察員かのように健康状態を気にしているのだ。
始めの頃はそれが鬱陶しく感じていたのだが、東が本当に自分の事を心配してくれている事を知る機会があってからは、照れ臭い気持ちはありつつも、こうして大人しく東の健康チェックを受けていた。
何故、東が間宮の健康状態を気にしているのか……それは東と今もこうして親交がある事に原因がある。
間宮には東に大きな恩がある。多分、死ぬまでに返しきれない大きな恩が……。
――あれは、香坂が事故で死んで絶望の底に落とされ、何もする気が起きなくて会社を無断欠勤で休み、松崎が間宮の家を訪れてから2日が経った日までさかのぼる。
◆◇
松崎に待ってるからなと言われてから、ようやく少し頭が回りだしてから色々と考え始めた。
これでも凄い進歩なのだ。松崎が訪れるまでは、まるで時間ごと止まっているのではないかと錯覚するくらい頭が働かずに、まるで廃人になったように思考が全く機能しなかったからだ。
だが、頭が働きだすようになった事が、決して良い事だとは限らなかった。
思考を再稼働させた間宮の中に生まれたのは、只々自分への憎悪が大きく膨らんでしまったのだ。
「会社……仕事か……」
働く事は社会人として当然で、生活をするのに必須だ。
それが分かっていても、社会から逃げる人間も多くいるのが現実で社会問題にもなっている。
以前の間宮はそういう人間を嫌悪していた側の人間だった。
だが……今は嫌悪していた人種と大差ない事をしている。
無断で休む事によって、どれだけ周りの迷惑をかけてしまっているのか分かっているのに、どうしても頭も体も動こうとしてくれない。
――無気力とは違う――これが絶望というやつなのだ。
それからどれくらいこうしていたのか覚えていない。
そんなある時、暗くなってから窓が音を立てだした。
どうやら雨が降ってきたようだ。
雨脚がどんどん強くなってきたようで、雨粒が窓を叩く音が激しくなってくる。
(こんな雨の日だったな……)
それまで殆ど動かなかった間宮がフラッと立ち上がったかと思うと、そのまま左右にフラフラと揺らぎながら家を出た。
相変わらずの強い雨の中、最寄り駅にまで歩いたところで、財布というかスマホすら持たずに家を出た事に気付く。
だが、間宮は踵を返して家に戻るのではなく、フラフラと線路に沿って目的地に向かって歩き出した。
車道を走る車のヘッドライトがフラフラと歩く間宮を映し出す。
その姿は異様なもので、生気が感じられず一人で歩いているというより、まるで誰かに引っ張られていると言った方がしっくりくる様子だった。
あの事故から碌に食べ物を口にする事もなく、頬は痩せこけて目の焦点が合っていない。
全身の筋肉が弱っているのか、猫背のように背骨が曲がり両腕は重力に逆らう気がなくダランとぶら下がっている。降りしきる雨の中、途中までさしていた傘が風邪で飛ばされても拾う事なく歩いている姿は、まるでホラー映画にでてくるゾンビのようだった。
◇◆
最寄り駅から歩く事、約2時間。
間宮は向かった場所に着いて足を止める。
そこは夜21時を過ぎても交通量が多く、今も多くの車が行き交いしていた。
立ち止まったガードレールの脇に、小さな花が沢山集められていて、それがまるで花束のように暗いガードレールの端を彩っていた。この場所で誰かが死んでしまった事を通りかかった誰もが分かるように……。
間宮が向かった場所。それは最愛の
帰って部屋の閉じこもっていても、意識はずっとここから動けなかった場所。
間宮は添えられている花の前で膝を折って、ジッと花を見つめるだけで手を合わせようとすらしなかった。
「……優香」
暫く見つめていた後、フッと香坂の名を呼んだかと思うと視線を車が入っている車道に向けて――こう呟くのだ。
「――待たせてごめんな。今そっちに逝くから」
言って間宮は折った膝をグッと伸ばして立ち上がり、歩道と車道の境目ギリギリに立つ。
そして、まるで何かを選別するように、向かってくる車を一台一台ジッと観察を始めた。
やがて1台の車に視線を止めた間宮は「ご迷惑をお掛けします」と呟いて、横断歩道側の信号が赤なのを確認してから、その車が急ブレーキをかけたとしても、間に合わないであろうタイミングで間宮はフラッと完全に車道に体を投げ出したのだ。
松崎が自宅を訪れた事が、悪い方へ状況を変えてしまった。
停まっていた思考が再稼働を始めた事によって、その考える力を完全に間違った方向に向けてしまった。
間宮は飛び込む車を選ぶ時、新しい型式の車を避けたのだ。
それは、最新の性能の良いABSを搭載した車では止まり切れないまでも車線を変更して、飛び出した間宮を回避してしまうかもと危惧したからだ。
だから、絶対に回避出来ないであろう比較的年式の古い車に狙いを定めたのだ。
東京に来て大学生の時に買った中古の車に乗っていたのだが、以前から東京では車の必要性をあまり感じなかった為、就職を機に車を実家に預けていた。
だが、元々車が好きな間宮はそれからも車の情報誌をよく読んでいた為、車の性能の知識を得ていた事も災いしたと言えよう。
前方に突然人が飛び出してきたのに気付いた車の運転手が、慌ててクラクションを鳴らしながら急ブレーキをかける。
視界が悪い雨が強く降っている夜。当然路面も大きな水たまりが出来る程の状態で、車を運転する者にとって難しいコンディションだというのに、突然人が飛び出してきたのだから運転手にとって悪夢そのものだっただろう。
雨が落ちる音を掻き消すように、クラクションとタイヤのスキール音が響き渡る。
運転手にはスローモーションのように見えているかもしれない状況で、間宮は薄っすらと笑みを浮かべた次の瞬間。
間宮の体にドンッ!と強い衝撃を受けたと同時に、体が宙に浮いた感覚があった。
衝撃を受ける直前、必死な形相をした運転手の顔が見えた。
どうやら運転手だけでなく、間宮にもこの一連の流れがスローモーションに見えていたらしい。
運転手にごめんなさいと心で謝罪した後、間宮は雨粒が落ちてくる空を見てこう呟くのだ。
――――今、行くぞ。優香――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます