第27話 瑞樹 志乃  act2 ~出会い~

 完全に空気化してしまった学校生活が始まった。

 ニュースで報道されている虐めによる、自殺のニュース。

 まさか自分がその対象になるなんて思わなかった……いや、虐めにあった人達は全員同じ気持ちだったのだと思う。

 恐らく皆大した理由もなく、その対象にされてしまった人達ばかりで、抵抗していたんだろう。

 でも、組織化してしまった流れに抗う事に疲れて、最後は自分で自分を諦めてしまって、最悪の選択を選んでしまった。

 虐める側と虐められる側。それはきっと紙一重で、それぞれに可能性がある。

 きっと皆それを知ってるから、大きな流れに逆らおうとしない。

 だって、逆らって向こう側に人間になりたくないから。


 私はこれまで決して虐めなんてした事はないし、これからもそんな事をする気なんてない。

 そもそも私の目の前で虐められている現場を見た事がなく、今までは遠い世界の話なんだと思っていたんだ。

 幸いと言うのも変だけど、私の場合は虐めといっても、暴力を振るわれるわけではなく、私物を傷つけられたりしているわけでもない。

 だから、まだマシな方なんだって自分に言い聞かせないと、壊れてしまいそうで怖い。


 そんな生活が一か月程が過ぎた。

 心を空にして、感情を殺して過ごすのが上手くなってきた。

 したくない事ばかり上手くなっていく現実に、やるせない想いだけが募りながらも、今日も無事に帰宅できますようにと願いながら、家を出る毎日が続く。

 だが、そんな切実な願いをあざ笑うように、事態は悪化の一途を辿っている事を私は思い知らせされる事になる。


 朝、起きて家を出る時までは、家族に心配かけまいといつもと変わらない自分を演じて「いってきます!」とワザとらしく声を張って家を出る。

 一つ目の角を曲がると、作った表情筋が引きつり始め、そこから100メートルも進めば、別人のように影を落としたような顔になり、俯いて自転車を漕ぐまでがいつの間にか、以前私が大事だと意識していたルーティンになってしまっていた。


 そんな私にも、唯一と言っていい楽しい時間があった。

 それは校門付近から教室じごくに入るまでと、教室じごくから校門を潜って帰宅するまでの時間だった。

 今朝も校門を潜った所で、2年生の時に同じクラスで仲が良かった友達が自分の前を歩いているのに気付いて、嬉しそうに声をかける。


「おはよう! 優子!」


 声をかけられた元クラスメイトの優子の肩が、ピクリと跳ねる。

 顔だけ振り向き、声の主を確認した優子は何も返す言葉もなく、静かに視線を前に向けて歩みを止める事はなかった。

 目が合った瞬間、優子の表情が強張り、何かを言おうと口を開きかけたのを見た私は、ゾッとする悪寒に襲われた。


 ……ま、まさか。


 嫌な予感。絶望的な想像が頭の中を駆け巡る。

 足に力が入らなくなり、優子を追いかける事が出来ずに、側に立っているポールにしがみ付き崩れそうになった体を支える。


 もう逃げだしたい――それが本音だった。


 でもそれを実行すると、もう戻ってくる事が出来ない気がする。

 こんな理不尽な事に、負けたくない。

 私は大きく深呼吸して、出来るだけ気持ちを落ち着かせてから、ある種の覚悟を決めて校舎に入った。

 3年生の教室がある4階に上がると、やはり悪い予感は的中していた。

 廊下に出ている他のクラスの生徒達、窓際の席に座っている生徒や、出入口付近で楽しそうに話している生徒達全員が、私がこの場にいないかのように、私の姿を見る事すらなくすれ違って行く。

 昨日まではクラスメイト達だけだったはずなのに、今日からは3年生全員に存在を認知されない存在になってしまった。

 もう悲しいとか悔しいとかの感情を飛び越えて、いっそ笑ってしまいそうになる。



 それからは勉強しかする事がなくなってしまった私は、ある目標をしっかり立てて、授業だけに集中する事にした。

 授業を受けている時間だけが、辛い事を少しだけ忘れる事が出来るから。


 そんなある日の昼休み。

 私は天気が良かろうと悪かろうと、4時間目のチャイムが鳴り先生が教室から出て行くのと同時に、手作りの弁当を持って教室から出て行く。

 以前はいつも食堂を利用して、友達達と楽しく食事をしていたが、そんな賑やかな場所で1人で食べるのは耐えられず、早起きして自分で弁当を作って食べるようになった。

 今日は梅雨時期にしては珍しく良く晴れた日だったから、まっすぐに中庭に向かって小さな弁当箱を広げた。


 中庭の花壇には紫陽花が綺麗に咲いている。

 紫陽花の花びらにチョンと触れて「いただきます」と花に話しかけてから、イヤホンを繋いだスマホのボリュームを、遠くから聞こえる楽しそうな笑い声や話声が聞こえないように、そして予鈴のチャイムを聞き逃さない程に設定してから、イヤホンを耳に取り付けて弁当に箸を付け始めた。


 食欲なんてまともになかったけど、食べないと授業に集中出来ないからと、無理矢理食べ物を喉に通すというのは、実に苦しく不快でしかない。

 私は何とか箸を進めようと、おかずの卵焼きを一口食べて白米を一口口に運んだところで「はぁ」と溜息をつき箸を置いた。


 駄目……これ以上は喉を通らない。


 食事を諦めて、買っておいたペットボトルの緑茶を喉を潤す程度に飲んで息をついた時、お気に入りの音楽に交じって何か聞こえた気がした。


 おかしいな。チャイム以外は聞こえないボリュームのはずなんだけど……。

 私は首を傾げていると、今度は肩をトントンと軽く叩かれている事に気付いて恐る恐る顔を上げると、そこには見知らぬ男子が立っていたんだ。


「ヒッ!!」


 思わず悲鳴に似た声を上げてしまった。

 だって、学校で人に話しかけられるなんて久しぶりって言うか、卒業するまでないって諦めていたから……。


「な、なんです……か?」


 私は中学3年生だ。

 という事は私より先輩の生徒はいないわけで……。

 なのに……久しぶりに口を開いたら、敬語しか出てこないなんて……ね。


「あ、あぁ。突然声かけてごめんね。その……卵焼きが凄く美味そうだなって思ってさ」


 卵焼き?

 私は仕舞おうとしていた弁当箱に目を落とすと、卵焼きが目に入った。


「こ、これは……私の食べかけなので、そ、そのあげる事は……その」

「え? ち、違うって! 別にそれが欲しくて声かけたんじゃないって! ほ、ほら! 自分の分はちゃんとあるから」


 そう言った男子は私の前にコンビニの袋を見せて、袋からはサンドイッチのような物が見えた。


 食べかけの卵焼きが欲しいなんて、ちょっと考えれば分かる事なのに、今の私は本当にどうかしてる。


 ――でも、それじゃあ何で?って、あぁ……そういう事か。


「ご、ごめんなさい。わ、私が邪魔なんですよね? すぐ退きますから」


 あぁ、なんて卑屈なんだ。

 自分でやってて、惨めになる。


「え? あぁ! 違う違う! そうじゃなくて――その、良かったら一緒に食べていい?」

「――あ、でも……わ、私と居たら……」


 知らないのかな。私に関わると、自分が酷い目にあうかもしれないって事……。


「知ってる! でも、そんな事気にしなくても大丈夫だよ。って事で隣いいかな」

「あ、は、はい……どうぞ」


 突然の事で、私は慌てて仕舞いかけの弁当を再び広げながら、座っている場所をずらして座り直した。


「ありがとう。あ、そうだ! 俺2組の岸田って言うんだ」

「わ、私は……み、瑞――」

「瑞樹さんでしょ? 有名人だもん! 知ってるよ」


 有名人……確かにそうかもしれない。

 今の私は、私のいない所で恰好のネタになっているはずだから。


「違うからね」

「……え?」

「今、瑞樹さんが想像した意味の有名人じゃないから! 俺の言う有名人ってのは、俺達の学年っていうか、この学校でナンバー1に可愛い女の子って意味での有名人って意味だから」


 何?この人。

 何で私の考えてる事が分かったの?


「か、可愛くなんて……ありません。わ、私なんか……」


 一瞬驚いたけど、すぐに俯いて首を左右に振り岸田君の可愛いという言葉を否定しながら、横目でチラっと隣に座っている彼を見た。


 うん……声をかけられてビックリして気にする余裕がなかったけれど、この岸田君って人……私、知らない。


「あ、あの」

「ん? なに?」

「わ、私……岸田君の事知らないんです……ごめんなさい」

「ははっ! 何で謝るのさ。入学してから、こうして話すのって初めてなんだから、俺の事を知らなく当然だよ」


 怒らせてしまったらどうしようって不安だったけど、私が忘れてしまっているわけじゃなくて、良かった。


 ――あれ? じゃあどうして?


「えっと、そ、それじゃあ何で……その。わ、私に声をかけたんですか?」

「そ、それは――い、いつも1人だと気が滅入るんじゃないかって思って」


 気が滅入る?

 そんな感情なんてもう無くなった。

 無くせるものは、さっさと無くさないと気が変になりそうだから。


 岸田君が話しかけた理由に、心の中で私の気持ちなんて分かるわけないかと、落胆した。


 ――何を期待してたんだろ……バカみたい。


 広げ直した弁当をまた蓋を閉じて巾着に仕舞うと、瑞樹は黙ったままベンチを立った。


「あ、あれ? もう食べないの?」

「……はい。食欲がないので……お先に失礼します」


 岸田君と目も合わさずにそう告げて、まだ昼休みは残っていたが、教室へ戻ろうとすると、彼も慌てて立ち上がる。


「あ、あのさ!」

「何ですか?」

「えっと、よかったら……携帯番号の交換とか……しない?」


 彼が何をしたいのか、私には理解出来なかった。

 まともに話した事もない相手、しかもその相手が完全に孤立していると知っていて、一体何がしたいのだろう。


「同情や哀れみならいりません。それに、私に関わったら同じ目に合いますよ――それじゃ」

「ちょ、ちょっと――」


 私は呼び止める声を無視して、校舎に戻った。

 同情なんていらない。

 これ以上、惨めな思いなんてしたくないから……。


「あ、明日もここで待ってるから!」


 遠くでそう叫ぶ声が聞こえた。


 だけど、彼の言葉に心が喜ぶ事もなく――私の口から出たのは、ただの溜息だった。



 ◇◆


 私の前に岸田君が現れてから3日が過ぎた。


 ――明日もここで待ってるから!


 彼が言い残した言葉通り、翌日もその次の日も、あの花壇の前にコンビニ袋を持った彼がいた事は知っている。

 もう岸田君に関わる気はなかったけれど、何となく気になって遠目から見ていたからだ。

 私は正直早く諦めて欲しいと願っていた。

 それは、彼の事を心配しているからなどではなく、単純にあの場所が好きだったからだ。


 今日も来てる……また校舎裏かな。


 溜息をついて、ベンチに座っている岸田君を横目に校舎裏に向かった。


 それから更に数日が経ったある日、梅雨らしく朝から強い雨が降る日の事だ。

 流石にこんな荒れた天気の日にはさすがに……そう思っていたんだど、今日も彼は傘をさしてベンチにタオルを置いて座っていた。


 物好きな人もいるものだと、私は溜息をつき花壇の様子が見える場所から立ち去った。


 それから週末の休みを挟んだ月曜日。

 曇り空ではあったけど、雨の心配はなさそうだと花壇のベンチに向かった。

 今日は遠目で様子が伺える場所ではなく、直接現場に向かっている。


「……あの」


 やはり今日もいつものベンチで、ジッと私を待っている岸田君がいた。


「――来てくれたんだね」

「いつまで経っても、本当に諦めないみたいだったので……」

「あ、はは……諦めはいい方だと思ってたんだけどね」

「それに訊きたい事があったので」

「訊きたい事?」

「はい。あの……隣いいですか?」

「あ? あ、あぁ! うん。どうぞ!」


 慌てて空けてくれたスペースに私が座ると、岸田君は背筋をピンと伸ばして、顔が強張っていた。


「どうかしましたか?」

「いや、別に……何でもないよ」


 何でもないようには見えないんだけどなぁ。

 まぁ、深く追求するような仲じゃないんだし、さっさと用件を済ませよう。

 私はとりあえず持参した弁当の太ももの上に広げると、彼もコンビニ袋からパンを取り出した。


「いただきます」

「い、いただきます」


 私が合掌すると、岸田君も手を合わす。

 その姿が何だか可笑しかった。


 白米を一口食べてみる。


 ……うん。今日もやっぱり食欲ないな。


「……な、なんか」

「なんですか?」

「瑞樹さん……痩せたんじゃない?」


 ちょっとちょっと……まともに顔を合わせたのって今日で2回目なのに、そんな所に気付くなんてちょっと……いや、かなり引くんだけど――まぁ、実際痩せちゃったんだけどね。


「あ、はは……気持ち悪いよな。ごめん」


 顔に出てしまっていたのか、岸田君がしまったって顔をした後、ペコペコと謝ってきた。

 ちょっと引いたのは事実だけど、ここはこのままスルーする事にしよう。


「それで、訊きたい事があるんですけど、訊いてもいいですか?」

「そ、そういえば、そんな事言ってたな。うん! 何でも訊いてくれよ」


 ここまで言っておいて、私は少し訊くのを躊躇したけど、やっぱりハッキリさせたいと決心して、岸田君にずっと気になっていた事を訊く。


「あの、知ってたら教えて欲しいんですけど、皆が私にしている嫌がらせの発端者って誰なのか知ってますか?」


 私がそう尋ねると、岸田君の顔が一気に曇っていく。

 それはきっと私の事を心配してくれているのは、その表情で何となく分かった。


「それを知ってどうするの?」


 多分、彼はそれを知った後の私の行動を気にしてるんだろう。


「別にどうもしませんよ。文句なんて言っても、返り討ちにあうだけですからね」

「じ、じゃあ知らなくても良くない? 知っても余計に辛い想いするだけかもしれないしさ」


 これ以上辛い想いなんて想像がつかないよ。

 それに、せめて原因を知って今後の行動に生かさないと、また同じ状況になってしまわないとは限らないんだから。


「……いえ。知っているのなら教えて欲しいです。もしかしたら、私に非があってその人を怒らせてしまったかもしれません。もしそうなら、謝りたいなって思ってるんです」


 その可能性は低いとは思っている。

 だってどれだけ考えても、心当たりがなかったんだから。

 そう考えながら、何か考え込んでいる岸田君の返答を待っていると、小さく溜息をついた口から、1人の苗字が出た。


「――平田だよ」


 そう。

 唯一の可能性があるとしたら、この男子の名前しか思い浮かばなかった。

 ただ、もしそうなら私が何かしたって意識はなくて、凄く理不尽な原因となってしまい、打開策が打ち出せなくなるから、正直この予想は外れていて欲しかった。


「……そうですか――やっぱりそうだったんですね」

「やっぱりって事は、こうなった原因に心当たりがあるの?」

「……はい。ゴールデンウィーク前に平田君に告られて……」

「えっ!? 平田が瑞樹さんに!?」

「――は、はい。平田君の気持ちは嬉しかったんですけど、その気持ちに応えられる気がしなくて、ハッキリと断ったんです」


 あの時の平田君の歪んだ表情が鮮明に思い出した。

 多分、あの瞬間からこうなるように仕組む気だったのだろう。


「そしたら、睨みつけながら舌打ちして、立ち去って行ったので……」

「……そうか。フラれた腹いせに、こんな事を始めたのか。あの馬鹿マジで信じらんねぇ」

「今思えば、傷付けない方法があったのかもって……後悔してるんです」

「何言ってんの! 告白されたって受けないといけない訳じゃないし、それにフラれた奴が傷つかない方法なんてないよ! フラれた時の覚悟がないのなら、告るなって話なだけだ! だから、平田のケツの穴がミジンコ並みに小さいってだけで、瑞樹さんが気にする事じゃない!」


 岸田君の平田君の表現の仕方に不意をつかれてしまった。


「ミジンコって――フフッ」

「やっと笑ってくれたね!」

「――べ、別に笑ってなんていません。そ、それじゃ」


 しまったと思ったのと同時に、私ってまだ笑う事が出来るんだと驚いた事が入り交じり、何だか恥ずかしくなってお弁当を片付けてベンチを立った。


「明日もここで待ってるから!」


 この台詞は2度目だ。

 でも1度目の時と違って、憂鬱さはなく、寧ろ心地よく聞こえたんだ。

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