第43話 最強の女から背が高い相手にパンチを当てる方法を教わった拳

「じゃあ最後に身長が高い相手と戦う場合のパンチの当て方の説明をしようと思うけど、準備があるからちょっと待っていてね」


 そんな事を言って勝子は屋上から出て行った。


 そう言えば麗衣はどうしたのだろうか?

 あのまま一人で戻って授業を受けているのだろうか?

 まぁ、出席日数が足りないなんて事にならない様になるべく授業に出てくれた方が良いけれど、さっきのやりとりがちょっと喧嘩っぽい感じだったから気がかりではあった。


 俺はスマホを見ると、人生で初めて女子から教えてもらったメールアドレス、つまり麗衣からメールのメッセージが届いていた。

 俺は急いでメールを確認して頭を抱えた。


[こら! 下僕! 授業サボって何してやがる! 何処に居るんだ! さっさと戻って来い!]


 サボりの常習犯が人の事を言えるのだろうか……。

 それはとにかく、何時も通りなのか? それとも怒っているのか?

 文面からはイマイチ判断が難しい。

 とはいえ放置すると、どの道機嫌が悪くなりそうだから返信する事にする。


[秘密の特訓中。探さないでください。下僕より]


 俺が返信すると、すぐに麗衣から返事が返ってきた。


[どうせ昼間っからシコっていて探してほしくねーんだろ? で、特訓ってアレか? Hする時、腹筋が逞しいと女からモテるとかいう話でも真に受けて腹筋でも鍛えてるのか? 無駄無駄。今更童貞が何してもモテねーから無駄な努力は止めとけ止めとけ♪]


 何でコイツはイチイチ下品な話に結び付けるんだろうか……。

 いっその事、麗衣で妄想しているとか返信して困らせてやろうかとも思ったけれど、本気で殴られそうなので止めた。

 まぁこんなメールを送り付けてくるのなら、もう怒ってはいないのかな?

 俺は返信のメールを書いた。


[その時は麗衣に見せても良いように腹筋頑張ります]


 麗衣の下品な文面に対してだから、この位のは構わないだろう。

 メールを返信すると、屋上のドアが開かれて勝子が戻って来た。


「お待たせ~小碓武。ん? 何か隠した?」


 ヤバい!

 麗衣とこんなやり取りをしている事を知られたら殺される!


「い……いや。隠していないよ……」


「……スマホで何かやらしい物でも観ていたんじゃないの? あやし~なぁ。ちょっと師匠に貸してみなさい♪」


 信じられない速さで俺との間を詰めると、勝子はジャブを打つ速さで俺のスマホを握る手を掴み、腕を捻った。


「イタたたたっ! 勘弁してくれ!」


「師匠に隠し事はいけないよ♪ 無駄な抵抗は止めて投降しなさい!」


 もしかしてコイツ、ボクシングと空手以外に合気道でもやっているのか?

 取られた腕を振り払う事も出来ない。

 ここまで完璧だと幾ら何でも化け物過ぎるぞ?

 思わずスマホを掴む手の力が緩むと、勝子はさっとスマホを奪い、素早くバックステップをして俺の腕が届く範囲から逃れた。

 これってイチイチ格闘センスの無駄遣いじゃね?

 それはとにかく、俺はピンチに陥った。


「ちょっとスマホ借りるね♪ ふふふっ。どんなエロ画像観ていたのかなぁ~……って」


 いっその事エロ画像の方が、まだ良かったのだろうか?

 始めは笑っていた勝子の顔が見る見るうちに険しくなり、鬼神の形相へと変わって行った。


「ふーん……下僕君って麗衣ちゃんとHする時に腹筋逞しいって思われたいんだ……いいよ? 今までの練習のスケジュールの予定変えて腹筋一万回にしようか?」


 俺の人生は終わった。

 自殺を止めても結局は数日生き永らえたに過ぎなかったのか……。



              ◇



「……で、勝子師匠。準備って何をしに行っていたのですか?」


 俺は勝子に小突かれガンガンする頭を撫でながら尋ねた。


「……何か却って馴れ馴れしいっていうか気持ち悪い呼び方だよね。下僕武君。これを取りに行っていたんだ」


 勝子はキックボクシングのヘッドガードに顔面部分が丸い透明のプラスチックに覆われたプロテクターのような防具を手にしていた。


「私、麗衣ちゃんのジムでボクシングクラスのサブトレーナーやっているけど、学校の空手部でもたまに指導していて空手部の出入り自由なんだ。それで部室からスーパーセーフを借りてきたの」


 スーパーセーフとは硬式空手・防具空手をはじめ、多くの団体で広く採用されている顔面防具である。

 上級生は授業が終わり、部活の準備をしている時間だ。

 だから部室も開いており、スーパーセーフも借りられたのだろう。

 格闘技系の部活では、空手の有段者であるというだけではなく、全日本アンダージュニア女子ボクシング優勝の勝子は尊敬の対象だろう。

 まだ1年であっても勝子から教わりたい先輩も恐らく多いだろうな。


「これなら顔面を思いっきり殴れるから、これからやるパンチを実体験して貰うには丁度良いなーかと思ってね♪」


 勝子の目が剣呑に光る。

 やっぱりメールの件で勘違いしているのだろうか……。


「じゃあ、これから自分よりも長身の相手との戦い方を説明するね。覚悟は良い?」


 覚悟って一体何の覚悟だよ?

 俺は胃への圧迫感を感じながら懇願した。 


「……受けて後遺症になりそうなパンチは勘弁してください」


「覚悟はOKって事だね。宜しい。じゃあ始めようか♪」


 人の話を全く聞かずに勝子は話を続けた。


「攻撃の基本、ジャブとワンツーは麗衣ちゃんやジムから教わっていると思うけど、ステップの基本からおさらいするね」


 勝子は例の如くボクシングよりもやや高めのスタンスで構え、ジャブを打つ仕草を見せた。


「まず、牽制でジャブを打つときは前足だけ動かして後ろ足を固定してジャブを打つ、この足の動きはシングルステップ」


 そして、勝子は前足を動かしジャブ、後ろ足も動かし右ストレートの仕草をする。


「ワンツーを打つ時はワンで前足、ツーで後ろ足をシングルステップをする。これが一般的なワンツーだよね」


「ああ。これは練習した」


「でも、私達は体が小さいから相手との間合いが遠い。普通に攻撃しても届かないかも知れない。だから、遠い間合いから一気に間を詰めて攻撃しないと手も出せずに一方的にやられてしまう可能性があるの」


「確かにそうだね」


「あとはシングルステップした時、相手がそれを見てバックステップすると射程圏外になるからパンチが届かない。だから、これから遠い距離から攻撃する方法を三つ教えるよ」


 またしても三種類方法を教えてくれるようだ。

 この位ならば覚えるのが困難では無いし、組み合わせ次第で相手を充分幻惑出来るだろう。


「で、まずはさっき言ったワンツーのステップでは1・2のリズムで踏み込んでいたけど1のリズムで両足同時に跳んで両足で着地するの」


 そう説明して、勝子は軽く両足ステップで前方へ跳び、ワンツーを見せた。


「これって、総合でよく使われているやつだよね」


 キックボクシングと違い、打撃の他にタックルもある為、相手との距離が遠い総合格闘技ではパンチで攻撃するには一気に間を詰める必要がある。

 キックボクシングの試合にも関わらず、キックボクサーが総合の選手と戦うと苦戦しやすいのは、この距離感と独特のステップに惑わされる事が多い為だ。


「このやり方なら相手はタイミングを取りづらくなるよ。じゃあ少しやってみようか」


 俺は勝子の真似をして、両足ステップで前方へ跳んでワンツーをやって見せた。


「ちょっとジャンプが高いね。まぁ伝統空手なんかだとワザと上体を浮かせた後スタンスを落として胴への正拳突きをするテクニックもあるけど、今はそれやっている訳じゃないからね。コツは姿勢もなるべく上に飛ばない事。ノーモーションで相手が見づらくなるよ」


 俺は勝子の指導を受けながら、両足ステップからワンツーの練習を暫くの間繰り返した。



              ◇



「両足ステップは大体出来るようになったね。これをシングルステップや前後の足のシングルステップと組み合わせて使うと効果的だからね。じゃあ次は少し特殊なステップを説明するよ」


 勝子は再びボクシングより高いスタンスに構え、説明を続けた。


「普通、ステップインする時、左足から入るでしょ? そうじゃなくて右の奥足からステップして、その後前足でステップするの」


 勝子は右の後ろから継足して入って行き、その後左足の前足でステップして見せた。


「これをツーステップって言うんだけれど、これだとセオリーと動きが違うから相手が反応しづらくて綺麗にストレートが入りやすいんだよね。やってみようか?」


 俺は勝子に言われた通り、後ろ足である右足からステップし、前足である左足をステップした。


「あっ。これ普通のワンツーのステップより距離が出るね」


「そうでしょ? だからこれもさっきの両足ステップと同じで自分より長身の相手にもパンチを当てやすい。因みにメキシカンのボクサーはパンチが伸びるってよく言われているけど、このステップを使っているんだよね。じゃあ、右ストレートを打ちながらやってみようか」


 俺は勝子の指導を受けながら、ツーステップからストレートの練習を暫くの間繰り返した。



              ◇



 ツーステップにも慣れて来たところで、勝子はいよいよ三つ目の方法を伝授してくれる事になり、上機嫌そうに言った。


「ふふ~ん。最後のは取って置きだよ♪ さてと、下僕武君。スーパーセーフなしで私のパンチを顔面ブロックするのと、有りでパンチ受けるのどっちがいい?」


 そんなの考えるまでも無いだろ?


「有りでお願いします」


「なんだツマンナイナぁ……。さっきのメール思い出したら潰れたトマトみたいになった下僕武君の顔も見たくなったんだけれど、流石にスーパーセーフは私でも割れないからね」


 いや、コイツならスーパーセーフも叩き割りかねないと思うけど……。


「勝子師匠。物騒な妄想しないでくれませんか……」


「いい加減にそのキモイ呼び方止めないと裸拳でオーバーハンドライトの刑にするよ♪」


 あんなもの喰らったら冗談抜きで俺の顔は潰れたトマト状態になりそうだ。


「……冗談です勝子さん」


「それも何か嫌だな。まぁ同じチームのよしみだし、仕方ないから勝子って呼んで良いよ。姫野先輩ですら勝子君って呼んでいるから、麗衣ちゃん以外の人に勝子って呼ばせるのは特別なんだからね。感謝しなさいよ♪」


 まぁ本人が居ない処では勝子って勝手に呼んでいたし、割とどうでも良いけど。

 って、いい加減に勝子のペースに合わせていないで話を進めよう。


「ハイハイ感謝致します。……で、取って置きってどんな奴なの? 勝子」


「……なんか全然感謝の念を感じないけど、まあ私は器量が大きいから許してあげる」


 勝子はコホンと一つ咳払いすると真顔で説明を始めた。


「これはかつてキックボクシングのが使っていたパンチだけれど、この選手が活躍していた中量級は世界的に見ても選手層が厚い階級で、しかも自分より大きな体格の外国人選手が多かったんだ。でも、彼は自分よりも大きな外国人選手たちと渡り合っていた。そのパンチを伝授しようと思うけれど、実際に受けて威力を体感してもらうから、スーパーセーフ被ってね」


 勝子はオープンフィンガーグローブを手に付けながらスーパーセーフを俺に被るように促した。

 滅茶苦茶不安だが、今更後には引けない。

 俺はスーパーセーフを被り、面の後ろの紐をしっかりと結ぶと、勝子に言った。


「じゃあお願いするよ」


 勝子との距離は大分離れている。

 所謂いわゆる立ち技格闘技で理想的な半歩踏み込めばジャブが届く距離では無く、一歩以上距離が離れているだろうか?


「神への懺悔は済ませたかな? それとも念仏は唱え終えたかな? じゃあ行くよ♪」


 面白くも無い冗談を言うと、勝子は左ジャブを放ちながら飛び込んできた。


 この距離ならとてもじゃないが届かない。

 そう油断した刹那だった。


 鈍い音と共に、勝子のオープンフィンガーグローブで覆われた拳が大きくスーパーセーフのプラスチック面を凹ませ、首に凄まじい重力がかかった。


「なっ!」


 一体何が起きたんだ!?

 現状を理解する前に俺の体は首から背に抜ける強い圧力に耐えきれず、仰向けに倒され、天に広がる青空を見上げていた。



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