68th Chart:歌姫の加護

 燃え滾る様な赤が、東の空を焼いている。

 上を仰げば西の群青と東の緋色が混ざり合い、言語化しづらい幻想的な色が天空を覆っており、つい先ほどまで中天の玉座に収まっていた月は、いつの間にか西の海へと没していた。

 昨夜や遅くまで続いていたうねりは嘘の様に鳴りを潜め、鏡の様な海は水平線から顔を出した太陽によって黄金の光を放ちつつある。


 そんな朝の海に、砂金の様な飛沫が唐突に弾けた。


 藍と緋色と金で装飾された海に揺れる、夜闇が潮だまりの様に残ったドス黒い海面。昨夜の戦闘によって生じた重油や神血の油膜だ。数日後には海洋に浮かぶ藻類の養分となり果てる運命が待つ油の上に、次々と小型犬ほどの小型の龍が、飛沫をまき散らしながら降り立っていく。

 全身は重油を切り取ったかの様に黒く、前方に突き出した口吻の甲殻は完全に癒合しており嘴の様にも見える。水鳥の様に油の浮いた海に浮かんだ黒龍は、その口吻を海面へと突き刺し、浮いた油や神血を呑み込み始めた。

 主食を得るため、神と人の戦いの後に残る夥しい量の油を求めて飛来する小型の黒龍――ワタリアブラガラスは、その生態により多くの人間から忌避の対象となっている。

 野生の予知能力なのか、過去からの知恵なのかは定かでは無いが、小型の龍種の中でも特に知能の高い彼らが多数集まった海では、決まって凄惨な海戦が行われた。彼らは高空を舞いながら眼下で開催される鉄火の狂宴を琥珀色の目で冷ややかに観覧した後、海へと舞い降りて海面に残る油や、海面に浮いた人や神の死骸を貪るのだ。


 ワタリアブラガラスを人類が凶兆と呼び始めるのに、そう時間はかからなかっただろう。


 既に数百頭規模にまで膨れ上がった群れの中からまた1頭が、海面に浮かぶ連合王国のエンブレムが施された酒瓶を蹴り飛ばしつつ、ご馳走の只中へと舞い降りる。久しぶりの上等な餌に、涎を口吻から垂らしつつ胸を躍らせて油を舐めようとした時だった。


 突如、海面が隆起し、黄金と漆黒と純白が四方八方に爆ぜる。


 穏やかだった海の急変に、ワタリアブラガラスのしわがれた警告を意味する声が一段甲高く響き渡り、周囲で豪華な朝食を貪っていた仲間も、危険を感じ一斉に空へと退避する。

 数千枚のシャツを一斉に叩いたような騒々しい飛翔音が一段落したころには、朝焼けの海面に、それまでは無かった重油塗れの鉄塊が浮かんでいた。


 滑らかだった艦体は荒いヤスリを掛けられたかのように彼方此方がささくれ立ち、特大の金属バットで殴打されたかのような大小さまざまな凹みは数えきれない。艦首に載っていたであろう防潜網カッターは根元から脱落してしまっており、空中線も断ち切られ力なく付近の海中を漂っている。

 艦橋前方に設置されていた8.8㎝単装砲は、砲身自体が半ばからお辞儀するようにへし折れ、真下を向いた砲身からは砲術士の思いを代弁するかのように雫が垂れていた。

 その艦橋自体も、爆雷の至近爆発によって彼方此方が拉げ、後方の対空機関砲に至っては、骨組みの手すりにもたれ掛かるように根元から倒壊してしまっている。


 正しく、満身創痍。戦闘能力など、一匙も残っていないほどの文句なしの大破状態。しかしそれでも、傷だらけの海狼――『U-109』は航行能力を保持したまま朝日にその姿をさらしていた。




 ハッチの最後の一回しを行う前に、梯子に体を固定し片手で慎重にハンドルを回す。錆の浮いた鉄の輪が微かな悲鳴のような金属音とともに回った直後、内外の気圧の差に従い重厚なハッチがびっくり箱の様に跳ね上がり、よどんだ空気が体が吹き飛びそうなほどの突風を伴って司令塔を吹き抜け、朝焼けの空へと還っていった。

『U-109』自身の深呼吸の様な排気が終わるか終わらないかの内に、最後の数歩を駆け上がったクレッチマーは拉げた波除に半ば体当たりするかのように体を預け、絶叫するかのように肺の中の空気を置換する。

 二酸化炭素と塩素ガスに苛まれ続けた肺に新鮮な朝の空気が染み渡り、秒単位で思考能力が戻っていくのを感じる。荒い息を整えながら空を見上げれば、無数のワタリアブラガラスが警戒するかのように頭上を飛び回っていた。海の向こうの方には、小山の様にも見える横転した海神の腹が波に洗われている。それ以外に、動く物の姿は空にも海にも見えない。


「は、はは――」


 歯の隙間から、嘲笑と歓喜が綯交ぜになった息が漏れ、次いで大きなため息によって飲み込まれていった。


「ああ、チクショウめ。こんなに旨いのか、コイツは」


 東の海から登りつつある朝日に目を細めつつ、生存の実感に乱暴な言葉がこぼれ、知らず笑みが浮かぶ。

 腕時計を見れば、朝の7時を少し過ぎたあたり。雷撃を敢行してからたっぷり6時間を要し、『U-109』は数百を超える爆雷攻撃を潜り抜け、這う這うの体ながらも海色の棺からの脱出に成功した。


「空気には味がある。言ったとおりだったろう?先任」


 掛けられた声に振り返れば、片方の鏡筒が吹き飛んだ双眼鏡の残骸が鎮座する艦橋前方で、珍しくパイプを持たずに思いきり伸びをするヴェディゲンの背中が見えた。


「ええ、最高ですよこれは。――二度と味わいたくはないですけどね」

「潜水艦に載っている限り、否でも味わうことになる。今のうちに慣れておくんだな」


 艦橋のハッチや前後の甲板に開けられたハッチからも、生き残った乗員たちが外の空気を吸いに出入りしている。その足取りは疲労のせいか重く見えるが、誰の顔にも生の実感が刻まれていた。


「【歌姫ローレライ】、これも、沈黙の母殿の娘ですか?」

「まあ、な。期待以上の働きをしてくれた」


 ヴェディゲンの脳裏に、顔を赤く染めて艦橋のハッチへと消えていった若き天才の姿が過る。


 符丁名【歌姫ローレライ】。

 寸法はⅦ型U-ボートに搭載される魚雷よりも、わずかに細い点を除いてほぼ同一の電池式魚雷だが、その用途は敵艦の撃沈にはない。

 正式名称、特殊音響欺瞞魚雷G7eR。その本質は音響をメインとした自走式複合欺瞞弾デコイだった。

 この魚雷は弾頭の代わりに高性能の音響装置と記録装置、化学反応によって泡を作り出すボールドと呼ばれる装置が詰め込まれており、魚雷発射管から自走して放出された後は時速2ktを維持しつつ、傷ついたUボートだと誤認させる騒音をまき散らし航走していく。また、ボールドから断続的に音を反射する泡を放出することにより、アクティブ・ソナーに対しても偽装を行い。最終的に圧壊音を大音量で発することで撃沈までも誤認させることができた。。


『U-109』は着底した後、タイミングを計って傷ついた両舷のメインタンク――『U-109』の両舷のメインタンクには、航行用の予備燃料が詰め込まれている――をブローし、中に収められていた全ての予備重油を海中へと放出しつつ、炸裂する爆雷の上昇流をやり過ごして急速に浮上した。

 無論、そのような乱暴なブローによって浮上してしまえば浮上惰力を制御しきれず海上への到達は免れない。

 実際『U-109』は一時ではあるが完全に海上へとその姿を現している。

 しかし、海上は林立する白柱によって視界は無に等しく、また艦底下で大量に発生した泡は海水の密度の低下を引き起こしており、海水をため込んだ潜水艦は浮力を失って即座に海中へと姿を消し去っていた。

 其の後、油膜の下に息を潜めた『U-109』はわざと音を立て海神の探針音を誘い、気畜器から派手に圧搾空気を噴出しつつ両舷のタンクに注水、音で敵をかく乱しつつ後部5番発射管から【歌姫】を発射した。

 その後は、敵艦が【歌姫】に釣られているのをしり目に、潜舵の角度を調整し無音潜航で真下を潜り抜け、海底へ鎮座し、狩人が去るまで息を潜めていたのだ。


「しかし、残りの空気を全部放出しても浮かなかったときは、流石に肝が冷えましたよ」

「こういう時、ヘッセの経験とリュートの機転は重宝するな」

「……前々から、艦長は魚雷を使い切った試しがありませんが。まさか、これを見越していたんですか?」


「さてな」ととぼける様に肩を竦めたヴェディゲンは、一頻り空気の味を堪能したのか、ポケットから取り出したパイプに煙草を詰め込み始める。

 海底に鎮座して敵をやり過ごした『U-109』だったが、新たな危機に直面していた。


 此処に至るまでの爆雷の回避や、土壇場での奇策により、着底した後はタンク内の海水を押し出す圧搾空気は、1回浮上する分しか残されていなかった。

 そして、夜明け前にいざ浮上となった段階で、祈る様な思いで圧搾空気を放出した際。今夜の武運は打ち止めとばかりに艦は海底に鎮座したまま微動だにせず、艦内に絶望的な空気が流れ始めたのだ。

 そんな中で、ひきつった笑みを浮かべながら前部発射管室に2本だけ残った魚雷を利用することを次席士官リュートが口にした。

『U-109』に残された2本のT-1魚雷は、推進器を駆動させるための酸化剤として大量の圧搾空気を搭載している。この空気を気畜器へ移動させることで、ブローに必要な空気を確保する企みであり、それは魚雷に精通した下士官兵の奮闘もあり見事に圧搾空気の補充を成功させた。

 また経験豊富なヘッセ機関長は、着座した海底は粘着力の強い粘土質の堆積物が多いため浮上できない可能性に思い至り、最後のブロー中に独断で両舷後進一杯を命じた事も功を奏した。

 結果的にスクリュープロペラによって前方へ送られた海水が、艦底を鷲掴みにしていた堆積物を吹き飛ばし、大量の空気によってタンク内を空にした『U-109』は、多くの汚水ビルジを抱えながらも浮上に成功したのだった。



「おっと!もしかして、私の噂をしてましたか?お二方!」


 改めて今回の襲撃は命がけだったとクレッチマーが何度も頷いていた時、新鮮な空気を吸って、何時ものお調子者加減が戻ってきたリュートが艦橋へと姿を現した。その能天気さに何かを言いかけた彼だったが、事実であることに変わりはなく気が付けば微苦笑を浮かべてしまっていた。


「ああ、そうとも。お手柄だよ、次席。そろそろ私もお払い箱かな?」

「またまたぁ、よしてくださいよ先任。貴方が居なけりゃ、この艦の誰も燃料の漏出に気づいていないですって」


「私が気づかずとも、誰かが気づいていたさ」と苦笑いを浮かべて謙遜するクレッチマーに、自分や下士官兵のより強固になった信頼を代弁するかのように満面の笑みを向ける。

 彼は気づいていないのだろう。あれほど激烈な爆雷を受けている中で、艦長以外に悲壮な表情を浮かべなかった唯一の人間であったことに。『U-109』の二本柱たる彼らがそんな風に泰然としていたからこそ、自分たちが己の仕事を全うできたのだという事実に。


 ――ま、面と向かって言うのは気恥ずかしいから言わないんだけどな


「ところで艦長。あの艦隊の向かう先は、やはり」

「観艦式だろうな。残念ながら、あの予言が見事に的中したということだ」


 ヴェディゲンの記憶の中に、未だはっきりと残り続けている謎の声の予言。自分たちが襲撃したことによっていくらかの打撃を与え、足踏み程度の妨害はできただろうが、根本的な解決にはなっていない。


「この分ですと。敵艦隊は数日中に《連合王国》に到着します。観艦式は今日ですから。――最悪の場合、観艦式が終わった後の混乱期に、あの大艦隊が殴り込むことになるでしょう」


 苦々しい顔を浮かべる先任に、「でしょうなぁ」と半ば他人事のようなリュートの同意が続く。

 各々の任地へ向かう艦や、故国への帰り支度を終えて出港する艦。それらが一斉に集まることで生じる混乱の最中、あの艦隊が現れたら。どう控えめに見積もっても、【海神帝の報復】以来の大惨事になることは間違いなさそうだった。


「通信機の修理が終わり次第、最大出力で警告を発するしかないだろう。後は、栄光ある王立海軍ロイヤルネイビーと、我らが友である狂犬殿の武運を祈るほかない」


 マッチの火がパイプに添えられ、紫煙がヴェディゲンの思考を促すように朝の空気に揺蕩い始めた。

 仮に今この瞬間に警告を放ったとしても、《連合王国》は面子の問題上、即座に動けないだろう。如何に空前の大艦隊とはいえ、多くの植民地を従える列強の一角が、海神に怯えて国家行事を中止するのは沽券にかかわる。さらに言えば、あの人一倍プライドの高い国民性からして、意地でも観艦式は遂行するに違いない。


「んじゃまあ、一つ乾杯しますか!我々の生還と、アヤカゼの武運を祈って」


 重くなりかけた空気を吹き飛ばすように、リュートが琥珀色の液体が入った瓶と人数分のブリキのコップを掲げる。爆雷攻撃で多くが割れてしまったが、奇跡的に残った王室御用達の一品だ。封が切られ、鉛色のコップに琥珀色の液体が注がれると、潮風に交じって芳醇な香りが微かに広がった。


「機関長を呼ばなくていいのでしょうか?」

「ご心配なく!機関長なら既に機関区で一杯やってますよ!というか、私が何とか生存者の一人を確保してきたようなもんです」


 甲板を見下ろせば、彼の言う通りあちこちで艦内から引っ張りだしてきた酒を回し飲みし、喜びをかみしめる乗員の姿が見受けられる。どのみち、機関の修理にはもう少しかかるため、それまで『U-109』は動けない。艦内風紀最後の砦とされているクレッチマーも、今回ばかりは目を瞑ることにためらいはなかった。


「では、乾杯だ。諸君らの比類なき働きに、艦長として感謝する。またこの先、修羅場に突撃するだろうアリセとマトリクス、アヤカゼの無事を勝手ながら祈ることにする」


 乾杯、と3人の声と艦橋の下で聞き耳を立てていた数人の乗員が言葉を合わせた。


 熱い液体が喉を焼いていく感覚を味わいつつ、先ほどの思考を再開する。


 楽観的な要素としては、観艦式が終わってから艦隊を編成しても、全力で迎撃に当たれば領海の外側で迎撃できる程度の距離関係だ。恐らく、決戦は明日の明け方。《連合王国》の東にあるユトランド断裂帯付近だろう。――ああ、つまり。


「ユトランド海戦、か」

「はい?」

「いや、なに。【海神帝の報復】以降最大の海戦が、後世ではなんと呼ばれるか考えていただけさ」

「後世の歴史家がなんて書くかより、私は今日の朝飯のメニューの方が興味がありますね」

「Uボートカクテルさえあれば、それでいいんじゃないのか?」

「残念ながら、レモンの代わりに《連合王国》産のライムを使うのは、私の主義に反するんですよ」


「なんだそりゃ」と顔を顰めるクレッチマーに「《帝国》人として、Uボートカクテルにライムを突っ込むのは冒涜では?」とよくわからない自論を展開するリュート。つい30分前までの死線が嘘の様に、目の前に広がっているのは『U-109』の日常だった。



「そういえば艦長、我々が雷撃した新型艦。識別のための艦種名どうします?仮に本当に新型なら、命名権は艦長にありますが」

「んん。それなら――」





 数時間後、『U-109』の応急修理されたアンテナから、1本の警告が周辺海域に放たれた。



 発 『U-109』

 宛 《連合王国》王立艦隊司令部


 六月二十八日深夜ヨリ二十九日未明ニカケ、海神ノ大艦隊ト交戦セリ。

 主力艦少ナクトモ二〇、総数五〇以上。速力十三.五ノット、針路二七〇。敵新型海神二隻ニ対シ、雷撃ヲ敢行。1隻ヲ撃沈シ、1隻ヲ撃破。離脱時ノ敵艦隊、速力、針路共ニ変化無シ。


 我、敵ノ反撃ヲ受ケ大破、航行可能ナレドモ戦闘能力喪失ス。又、撃沈セシメタ海神ノ曳航ヲ要請ス。

 現位置ハ東経XX.XX,.XX 北緯YY.YY.YY


 遭遇セシ新型海神ハ以下ノ特徴ヲ有スル

 ……

 ……

 ……

 以上。

 本艦ハ、此レナル新型海神ヲ『ケーニヒ級戦艦』ト呼称ス。


 追伸:王立艦隊ノ武運ヲ深海ヨリ祈ル







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