第17話

 もう少し遅ければ気付かなかっただろう。

 雪嵐ブリザードの中を進んでいた一行は雪に埋まりかけた一人の人間を助けた。ほかの村からの追放者かもしれないから無分別に手助けしていいものかとの意見もあったが、それにしてはその遭難者はあまりにも幼く見えた。それに旅程が遅れているとはいえ、仲間を失ったばかりの喪失感を幾ばくかは埋められるかもしれないとの思いも彼らの心には確かに存在した。

 彼らは昼間に唯一行動できる雪嵐ブリザードの恩恵を見送ると、近くにあった氷の巨塊に十分な棺桶穴シェルターを掘り抜き、その中に意識のない遭難者の体を運び込んだ。そしてその遭難者をよく観察するために緊急用にと各村から持たされていた蝋燭という細い棒に火を灯した。穴の中は眩しいほどの光で満たされた。

「まだ幼いな。七十歳くらいかな?」

 遭難者の顔を覆う分厚いマフラーとフードをまくったタンゴが皆に意見を求めた。

「直接、この娘に触らないほうがいい」薬師くすし見習いのタナバタが雪焼けの人間の顔には珍しくもない少女の頬から鼻にかけての雪焼けの痕とそばかすを慎重に指差した。「この斑点は見たことがないし、聞いたこともない。何らかのやまいにかかっている可能性がある」

「伝染病か?」と、仲間の中から微かに不安の声が上がった。

「いや。わからない……でも用心に越したことはない」

「そうだな」と、次にチョウヨウが遭難者の燃えるような赤毛に注意を促した。「それに、こんな髪の色も見たことがねぇよ」

「とにかく」心配そうなタンゴの視線が遭難者の幼い顔に注がれた。「こんな七十歳にもならないような少女が一人でこんなところに行き倒れてるなんて普通じゃないよ」

「そうだな。確かにそのとおりだ」

 幼い上に、顔に追放者の刻印が彫り込まれていない限り、行き倒れであると判断するしかない。遭難者や傷病者を遺棄する文化を持たないナナクサたちは、少女から行き倒れの経緯を聞き出すのが一番だと判断した。

「じゃぁ、いいね。起こすよ」

 タナバタの言葉が合図であったかのように少女の肩を揺すろうとするチョウヨウをタンゴが制した。

「今はそっとしといてやろうよ。気が付くまで、もう少し待ってやろう」

「タンゴよ」と、今度はジョウシが深刻さを声に滲ませた。「そうは、いかぬやもしれぬぞ」

 皆の視線がジョウシと彼女の手に注がれた。ジョウシの右手の指先は薄っすらとではあるが凍傷のように黒く変色していた。横にいたナナクサはそれを見て顔色を変えた。彼女は床の雪をひと掴み取り上げるとジョウシの壊死しかけた指先をそれできつく包み込んだ。

「いったい、どうして?!」

 ナナクサの問い掛けにジョウシは少女の鞄に顎をしゃくった。

「中には干枯らびた大海獣ン・ダゴのものらしき触腕。他にも不可解な物が色々とあったが……」

 ナナクサはジョウシ言葉の途中から少女の鞄の中を手袋越しに慎重に調べ始めた。そして小さな布袋を手に取ると、そこから微かに臭い立つ甘い猛毒の微粒子をすぐさま感知するや否や、それをすぐさま鞄に戻した。それは薬師くすしなら見習いであっても間違いようのない猛毒の実である雪ニンニクから発する毒香であった。

「とりわけ、この書物。恐らくは絵地図のたぐいと思うのじゃが」

 ジョウシは負傷していない方の手で、既に取り出していた四つ折りの分厚い鮫皮紙を皆に見えるように差し上げた。

「読めぬのじゃ。これに書かれておるは我れらがルルイエ文字にあらず」

 ジョウシは自分の言葉が皆に理解されるのを待って再び口を開いた。

「亡き父上の古き書物を盗み見たとき目にしたものに、よく似ておる。これは恐らく失われし古代文字じゃ……」


               *

 意識を取り戻す時、シェ・ファニュは胸の奥に疼痛を覚えて咳き込んだ。薄っすらと開いた瞳の前に人の良さそうな男の丸顔が微かに見えた。エイブか……いえ、彼じゃない。暖かそうな薄明かりの中にぼおっと浮き上がった、まるで死人のような真っ白な顔。死人……そうだ、私は死んだのだ。ファニュは思い出した。もう三、四日待てばよかったのだ。焦って隊商を探そうとしたのが運の尽き。だから雪嵐ブリザードの中で行き倒れて死ぬ羽目になった。しかし、それもいいかもしれない。天国からちゃんと天使が迎えに来てくれたんだから。そう思った矢先、再び胸の奥が傷んで咳き込んだ。死んだら痛みや苦しみはないんじゃなかったかと思ったとき、首の後ろを力強い手に支えられて上体が起こされた。

「気が付いたんだな。さぁ、これを」

 あらがうまでもなく、ファニュの口の中にとろみのある液体が流し込まれた。味がなく、生臭い油を飲んでいるような異様な食感にむせたファニュは喉の奥からそれを吐き出した。

「ごめんよ、大丈夫かい?」

 白い丸顔の天使が慌てて、そう言った。

「無理に飲ませない方がいいよ、タンゴ」と、薄茶色の髪をしたもう一人の天使が端正な顔で丸顔の天使に注意した。

「天使?……タンゴ?……」

「天使ってなんだ?」

「知り合いか何かの名前だろ、きっと」と、ファニュのつぶやきに反応したタンゴを見やったチョウヨウが口を開いた。「まだ混乱してんだよ」

 そう。まだ混乱しているとファニュは思った。だが混乱から解放されつつある頭の中では、目の前にいる人間たちは天使などではなく、自分もまた死んではいないのだという思いも徐々に頭をもたげてきた。

 では、この人たちは何者なのか。どこの隊商なんだろう。行き倒れなど珍しくもない世界で、もし自分を助けてくれたのだとしたら、よほどの酔狂者か変わり者だ。だが事実助けてくれたのなら決して悪い人たちではないはずだ。でも、興味深く私を囲むこの人たちの死人のような顔はどうだ。白っぽい顔。寒い中で喋っても口から水蒸気がほとんど出ない。これでは天使どころか、まるで死人だ……。

 そこまで考えた瞬間、ファニュは恐怖とパニックに襲われ、そこから抜け出そうと頭の中を必死に回転させた。アドレナリンが分泌され、体中の毛穴からどっと汗が吹き出したかと思うと胸が前後に揺れるほど心臓がドンドンと高鳴った。ぼぉっとした頭の中はあっという間に覚醒した。そして絶対に取り乱しては駄目だという冷静さも心の片隅で叩き起された。もし自分の推測が正しければ、この人たち……いや、こいつらは……。

「混乱しているのね」と、薄墨色の髪をしたほっそりとした若い女が話しかけてきた。「でも、少しだけ教えてくれない?」

 ファニュは一言も発せず、目の前の女を凝視した。優しそうな顔だ。しかも、どこかで聞いたことのある懐かしさを持った声だ。しかし物心がついてからというもの、絶え間なく教え込まれた『まず観察せよ』という言葉を思い出し、実行に移した。

「ねぇ、あなた名前は? どこの村から来たの?」

 それでも黙っているファニュを安心させるように女は優しげな笑顔を崩さず、根気よく続けた。

「わたしはナナクサ。そしてこっちが、あなたを見つけたタンゴ。私と同じ村の出身よ」

 ファニュは女の横にいる丸顔の天使に視線を転じた。心配そうに自分を見ている。彼女は自分を助けてくれた男に素早く視線を走らせた。観察したところ、いま取りたてて危険はなさそうに見えた。おそらく名乗るくらい差し支えはないだろう。殺す気なら、自分はとっくに殺されて、餌食にされていたはずだ。

「ファニュ……」蚊の鳴くような声で彼女は応じた。

「えっ? なに?……」

「ファニュ……シェ・ファニュ……」

「そう。あなたの名前は、ファニュね」

 ファニュはナナクサと名乗った優しく懐かしい響きを持つ声の主に、こくりと頷いた。

「じゃぁ、君はどこから来たんだい?」

 タンゴからの質問にファニュは出かかった言葉を咄嗟に飲み込んだ。

 彼らがファニュの予想通りなら、情報は手に入れても、決してこちらの情報を与えてはならない。少女は、またもや口を真横に引き結んだ。しかし、そんなファニュの態度に業を煮やしたジョウシがナナクサとタンゴの間に割って入った。

「聞くがよい、小娘。我れらはデイ・ウォークの途中じゃ。これがいかに危険で過酷なものかは、なんじも存じておろう」

 ファニュは濃い水色の髪を真っ赤なリボンで括った自分とさほど体の大きさが違わない女が言うデイ・ウォークの意味は、さっぱりわからなかった。だが知っているかのように頷いた。

「我れらはその旅程を割いてまで、行き倒れておるなんじを助けたのじゃ。それもわかっておろうな?」

「おい、ジョウシ……」

 思わず身を乗り出したタンゴの肩にチョウヨウの手が掛かった。

 口をつぐんだタンゴに一瞥をくれると、ジョウシは一つ一つ事実を確認するように、中断された言葉を継いだ。

「見返りを求めようとは思わぬ。じゃが、沈黙をもってその礼につるは、少し筋違いではあるまいか?」

 それでも口をつぐんだままのファニュにナナクサが再び声を掛けた。

「わたしたちが知りたいのはね、ファニュ。あなたがどこから来て、なぜあんな所に一人で行き倒れていたのかってことだけなのよ?」

 不安を抱えたミソカにするのと同じようにナナクサはファニュの頬に優しく手を差し伸べた。しかし少女は怯えたようにその手からビクッと身を引いた。それを見たジョウシは諦めたように溜息をつくと、手袋をはめ、後ろからファニュのバッグを引き寄せると再度中身を検分しようとした。ファニュは自分のバッグがジョウシの手にあることに気付くと、弾かれたようにそれを引ったくった。

 バッグを胸に抱えた少女は目の前の男女の視線が一斉に自分に注がれるのを感じた。それとともに、これ以上の沈黙は自身の益にならないことを、その場の雰囲気から敏感に察知した。ファニュは恐る恐る口を開いた。

「カム・アーで、私は保証書付きで隊商に下げ渡された……」

「カム・アー?……保証書?……」

 思わず口を開いたタンゴの膝にチョウヨウの手が置かれ、少女の話の腰を折るなと微かに揺すられた。タンゴの口をつぐませたチョウヨウは先を促すように無言の視線を目の前の少女に向けた。ファニュはごくりとつばを飲み込むと、ゆっくりと確認するように言葉を続けた。

「でも隊商とはぐれてしまった。はぐれた隊商を探していると、山のような残骸に出くわした。山のように大きくて、見たことがないくらいたくさんの残骸。まだ燃えていた。そこで一休みして、また隊商を探しはじめた。でも、また雪嵐ブリザードに遭った。あとは覚えてない。それだけ」

「それだけ?」とナナクサが促した。

「そう。それだけ」

 意味不明な単語が所々に顔を覗かせはしたたが、少女の遭難に至る過程に嘘はなさそうだとパーティの一行は理解した。

「わかったわ。たぶん、あなたが見た残骸の山は私たちも知ってる物だわ。ねぇ、ひとつ聞きたいんだけど、いい?」

 ナナクサに同意を求められたファニュは、しぶしぶ頷いた。

「あなたの鞄の中にあった色々な物。特に書物……絵地図だと思うんだけど、あれはなに?」

「『なに』って、なに?」

 ナナクサが何を質問しているかわからない様子のファニュは怪訝そうに聞き返した。喉がカラカラに乾き、かすれ声しか出てこない。

「絵地図のようなものが入ってたわね、折り畳まれて。中には細かな模様と古代文字が書かれてた」

「古代文字?……」と、ファニュは小首を傾げた。

「そうよ。あれを、どこで手に入れたの?」

 ナナクサは考え込む娘に助け舟を出した。

村長むらおさだって、そうそう持ってないようなモノをあなたの年齢で持ち歩いているわけはないわ。それに猛毒の実まで。もしかして、どこかで拾ったの?」

「『拾った』だって?……」

 ナナクサは娘を傷つけないよう慎重に言葉を選んた。

「うん。まさかとは思うんだけど。その……もしかして誰かのを黙って持ってきてちゃった?」

「『誰かのを黙って持ってきた』?……」

 ナナクサの質問を、またもオウム返しにしたファニュは自分が盗みを疑われていることに反応して目を細めた。今まで生きるために仕方なく戦って奪うことはあっても、コソコソ盗みを働くなど決してなかったからだ。そんなことをすれば、奪われたことを知らない者の生死に関わる。戦って奪われたなら、また戦って奪い返せばいいだけだ。ファニュは思ってもいない侮辱に憤った。

「もしかして」と桃色のショートヘアの大柄な女が丸顔の天使の横でナナクサに加勢した。「死んだ仲間の形見を家族に返さず、そのまま持っているとかってね」

「あれは私の地図よ!」ファニュの若い自制心が吹き飛んだ。「私は薄汚い盗人なんかじゃない! 他人の物を黙って盗ったことなんかもない!」

「ごめんね」激烈な反応にナナクサは咄嗟にファニュをなだめた。「わたしもチョウヨウも悪気はなかったの。謝るわ。でも私たちも驚いたのは確かよ。史書師かたりべでもない子供が古代文字が書かれた地図を持って、こんな所で行き倒れてるなんて、普通は考えられ……」

 まだ幼い心に収まりきらない怒りはファニュの口を更に軽くした

「あの字は古代のじゃない! そんなに大きいくせに見たことないの?! それに私は子供なんかじゃないわ。身体だけ大きなあなたたちとは違って立派な大人だわ! 今年で、もう十三になるんだから!」

「十……十三……」

 ナナクサは、そう呟くと信じられないという顔をして、「少し待っててね」と言い残し、狭い棺桶穴シェルターの端に仲間を集めてひそひそと何かを相談し始めた。暫くしてファニュは何か不味まずいことでも言ってしまったのだろうかと少し不安になったが、後の祭りだった。もどってきたナナクサはファニュをいたわるように声を掛けた。

「まだ疲れているようね、ファニュ。きっと、まだ混乱してるのよ」

「うん……少しだけ……」と少女はナナクサに調子を合わせた。

「じゃぁ、最後にひとつだけ。それが終わったら休みましょう。いい?」ナナクサはファニュを傷つけないようにさっきよりも慎重にゆっくりと言葉を継いだ。「あなたの言う、その地図というものだけど。あなたは、あの中に書かれてた文字が読めたりするの?」

 少女が正直に頷くと、目の前の若い男女が息を飲みこむ音が聞こえた。すると、その中からタンゴが進み出てファニュの目の前の雪の地面に指を突っ込んだ。

「じゃぁ、この記号はわかるよね? 君の絵地図……えぇっと、地図だったかにもあった記号……じゃない、文字か……」

 喋りながらタンゴは雪の上に一つの記号を書きだした。中心の小さな円を囲むように配置され、外向きに組み合わされた六つの三日月。

「僕らはこの古代文字だけは小さい頃からみんな習ってるんだ。僕らの政府チャーチを示す文字さ」

 いや違う。それがカム・アーだ。私の故郷。城塞都市カム・アーだ。思い出したくもない出生地を示す記号だ。雪の上に描かれた記号を見ながら、今度はファニュが小さく息をのんだ。

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