第16話

「無理なことをおっしゃられても困りますなぁ」と、隊商を預かる世話役が苦笑いを顔に張り付けながら首を横に振った。

「人を差し出さないのは、第一指導者ヘル・シングに対する反逆だぞ」と、隊商の行く手を遮った戦士が淡々とした口調でそう告げた。二名の戦士を両脇に従えた、ひときわ大きな体をした徴用係りの卒長である。

「滅相もございません」と、世話役は心外そうに両手を胸にやると少し頭を垂れた。「喜んでお手伝いさせていただきますとも。それがこの世に生きる者の務めでございますから。ですが、町にいる間にしていただきたかったですなぁ。もしそうなら私どもの隊商も不足になった人員を募集できましたのに」

「町は町で、また戦士の徴用が行われる。どの道、町で隊商の募集は無理だ」

「そんなことをおっしゃらず、卒長さん」

世話役は卒長の袖を引いてそりの脇へ連れて行った。そのとき雪走り烏賊スノー・スクィード馭者ぎょしゃにそっと目配せをした。馭者ぎょしゃは三名の戦士たちから目を離さず、彼らからは死角になる方の手をシートの横に備え付けた弩弓ボウガンの上にそっと滑らせた。その微かな動きを察した他のそり馭者ぎょしゃや隊商の警護たちも各々が自分の武器が手近にあるのを確かめた。

「こうしませんか?」無駄と知りつつ世話役は最初で最後の交渉を試みた。「徴用を見逃していただけたら、一週間分の食糧の他に深海鮫メガロドンの肉も少々つけましょう。どうです?」

深海鮫メガロドンもか?」

「えぇ、左様です」

 卒長の片眉が上がった。それを見た世話役は少なからぬ拍子抜けを感じた。戦士、特に徴用係りの戦士はまったく交渉に応じないと思っていたからだ。応じなければ応じないでいい。そうなれば半年前の戦士たちと同様、立派に殉教させてやった後、深海魚釣りの餌にできたのに。そう思うと世話役は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。だが彼はそんな失望をおくびにも出さず、作り笑いを浮かべ続けた。

「取引成立ですな。では一週間分の……」

「全部だ」

「はぁ?……」

「食糧は全部いただく」

 耳を疑った世話役は下腹に鋭い激痛が走るのを感じた。そして彼は膝を屈した。

 そり馭者ぎょしゃや警護は世話役が倒れるのと同時に攻撃を開始した。もちろん彼らの攻撃は三名の戦士にのみ向けられたのだが、馭者ぎょしゃたちが二名の戦士を倒し、次の矢を弩弓ボウガンに装填する間隙をぬって、雪原の中から彼らに向けて狙いすました矢が次々と放たれた。

奇襲はあってという間に終わった。卒長が盾にした世話役のむくろを離すと、雪原に掘った穴から弩弓ボウガンを持った男女の戦士が飛び出してきた。その中の一人が卒長に詰め寄ると彼を非難し始めた。

「奴ら、食糧を出すと言ってたぞ!」

「一週間分だけだ」

「でも死人が出た」彼女は無数の矢に貫かれた戦士二名の死体を指差した。「あの中の一人は私の腹心だ」

「食い扶持ぶちが増えて良かったと思え」

 なおも非難しようとする女を突き飛ばした卒長は、武装を解除された隊商の生き残りの商人たちを眺め渡した。武器を突き付けられ、みな一様におびえている。

「こいつらは、どうする?」武器を持った戦士が卒長に尋ねた。「戦士が無暗に隊商の人間を殺したと噂になれば、あのクソ指導者が黙ってないだろ。追っ手が掛かるぞ」

「『戦士が』じゃなくて盗賊が。だろ?」

 腹心を亡くした思いを振り切れない女戦士が唸るように歯をいた。

「盗賊行為どころか」と、卒長。「俺たちは逃亡中の身だ。捕まれば並の極刑では済まん。だから喋る口と食べる口は少いに越したことはない」

 そう言うと卒長は振り向きざまに近くにいた一人の商人の首に刀剣を力一杯に振り下ろした。


               *

 その存在は、目覚めた時に必ずすることがあった。それは食事のように必要にられての行為ではなく、ましてや優雅に嗜好しこうを満たすための欲求ですらなかった。敢えて言えば、それは意地や挑戦に類するものといってもよかった。だから止めるという選択肢はないも同然だった。

 その存在は陽が照りつける白銀の世界を疾風のようにけると、人間たちで賑わう一番大きな城塞『カム・アー』に辿りついた。そして城門前の大岩の陰で壮年男性の姿をとると、様々な防寒着に身を包んだ老若男女が行き交う門前までゆっくりと歩を進め、挑むべきその巨大な敵を見上げた。やがて城門から雪走り烏賊スノー・スクィードかれて出てきた数台のそりから道行く人間たちに視線を戻すと、彼は城門に向かって歩きだした。だが、城門からほんの少し手前でいつものように、いや。どれほど時間や年月が経とうが、彼は城門内に一歩も足を踏み入れることができなかった。

 遠い昔には捕まえた人間を脅して、彼を城門内に招待させようと試みたこともあった。また、いつの世にもいる波長の合うよこしまな者を使ったり、催眠術で人の心を操って侵入しようとしたこともあった。しかし、どんな人間にも多かれ少なかれ、果ては微かではあれ、彼とは正反対の存在を崇める信仰の断片や、その存在を認める欠片があると、彼の身体は氷のように固まり、中に入ることができないのだ。

 今回も彼の挑戦は失敗に終わった。自分が完全であると信じるがゆえに、その苛立ちは尋常ではなかった。しかし、それゆえに彼はその苛立ちを懸命に飲み込んだ。彼は自嘲するように少しだけ首を傾けると、再び身体を薄く溶け広がる黒煙に変えて大空へと姿を消した。

 そして食事を求めて雪原上を移動していたところで人間どもの殺し合いに出くわし、その甘美さに我れを忘れて魅入ってしまったのだ。なぜなら恐怖や痛み、特に神の似姿をしているとされる人間同士が醸し出す憎悪の波動は、何物にもまして彼の苛立ちを癒すだけでなく、心の空虚を埋めてくれる妙薬だったからだ。


               *

 事が起こるほんの少し前、その存在は黒煙に変えた体を人間の目には捉えられない薄さに広げ、狙いをつけたその隊商を魚網のように包み込んでいた。そして一挙に平らげて空腹を満たそうというところに、この思わぬ贈り物だった。その存在は千年ぶりの悦びに身を震わせた。戦でも起こらない限り、決してありつくことができない幸せに酔いしれた。

 しかし思わぬ事態が最高のショーを台無しにしてしまった。突然の闖入者ちんにゅうしゃだった。その存在は闖入者ちんにゅうしゃに戸惑いつつも、それを察知できなかった隙だらけの自分に腹が立った。

 目の前で、隊商の世話役を謀殺した卒長が、先ず闖入者ちんにゅうしゃに襲われた。その姿は人間のスピードでは到底捉えることができないので、盗賊と生き残りの商人たちは、事態を把握できないままに次々と切り裂かれた喉から血煙を上げて倒れていった。

 その存在は我に返ると、その無粋な闖入者ちんにゅうしゃと、それが繰り広げる行為に激怒した。生き残りの商人たちに最大の恐怖と痛みをもたらす戦士たちを殺されて怒り狂った。しかもそれを奪った者が自分の子孫であることを感じ取ると怒りの炎はさらに激しく燃え上がった。

 その存在は、残った人間に襲いかかろうとした闖入者ちんにゅうしゃを怒りに任せて一瞬で薙ぎ払った。そしていつもの痩せた壮年男性の姿をとると、乱れた黒髪をそのままに邪魔者を睨みつけた。

 たとえ子孫でも、この暴挙を許すことはできない。

 どうしてやろうか。先ずはその精神をズタズタに引き裂き、次に細胞の一片一片に忘れえぬ苦痛を与えて、その上で滅ぼしてくれようか。残虐な怒りにうち震えながら、彼は倒れている子孫を見下した。そして自分の心を子孫のそれにナイフのようにズブリとえぐり込ませた。えぐり込ませた先からは目覚めた時に感じた、あの時の揺らぎがどっとあふれ出たことに彼は驚いた。自分のものに勝るとも劣らないドス黒さが彼の身体を隅々まで満たした。

「これは、これは……」

 彼は思わずそう呟くと、あれほど怒り狂っていた心を一挙に冷ますと、三日月のように目を細めた。

「これは、これは……」

 彼は楽しげに、そう言いながら大きく広げた両腕に迎え入れるかのように一歩一歩、踊るように子孫に近づいていった。

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