第16話
「無理なことをおっしゃられても困りますなぁ」と、隊商を預かる世話役が苦笑いを顔に張り付けながら首を横に振った。
「人を差し出さないのは、
「滅相もございません」と、世話役は心外そうに両手を胸にやると少し頭を垂れた。「喜んでお手伝いさせていただきますとも。それがこの世に生きる者の務めでございますから。ですが、町にいる間にしていただきたかったですなぁ。もしそうなら私どもの隊商も不足になった人員を募集できましたのに」
「町は町で、また戦士の徴用が行われる。どの道、町で隊商の募集は無理だ」
「そんなことをおっしゃらず、卒長さん」
世話役は卒長の袖を引いて
「こうしませんか?」無駄と知りつつ世話役は最初で最後の交渉を試みた。「徴用を見逃していただけたら、一週間分の食糧の他に
「
「えぇ、左様です」
卒長の片眉が上がった。それを見た世話役は少なからぬ拍子抜けを感じた。戦士、特に徴用係りの戦士はまったく交渉に応じないと思っていたからだ。応じなければ応じないでいい。そうなれば半年前の戦士たちと同様、立派に殉教させてやった後、深海魚釣りの餌にできたのに。そう思うと世話役は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。だが彼はそんな失望をおくびにも出さず、作り笑いを浮かべ続けた。
「取引成立ですな。では一週間分の……」
「全部だ」
「はぁ?……」
「食糧は全部いただく」
耳を疑った世話役は下腹に鋭い激痛が走るのを感じた。そして彼は膝を屈した。
奇襲はあってという間に終わった。卒長が盾にした世話役の
「奴ら、食糧を出すと言ってたぞ!」
「一週間分だけだ」
「でも死人が出た」彼女は無数の矢に貫かれた戦士二名の死体を指差した。「あの中の一人は私の腹心だ」
「食い
なおも非難しようとする女を突き飛ばした卒長は、武装を解除された隊商の生き残りの商人たちを眺め渡した。武器を突き付けられ、みな一様に
「こいつらは、どうする?」武器を持った戦士が卒長に尋ねた。「戦士が無暗に隊商の人間を殺したと噂になれば、あのクソ指導者が黙ってないだろ。追っ手が掛かるぞ」
「『戦士が』じゃなくて盗賊が。だろ?」
腹心を亡くした思いを振り切れない女戦士が唸るように歯を
「盗賊行為どころか」と、卒長。「俺たちは逃亡中の身だ。捕まれば並の極刑では済まん。だから喋る口と食べる口は少いに越したことはない」
そう言うと卒長は振り向きざまに近くにいた一人の商人の首に刀剣を力一杯に振り下ろした。
*
その存在は、目覚めた時に必ずすることがあった。それは食事のように必要に
その存在は陽が照りつける白銀の世界を疾風のように
遠い昔には捕まえた人間を脅して、彼を城門内に招待させようと試みたこともあった。また、いつの世にもいる波長の合う
今回も彼の挑戦は失敗に終わった。自分が完全であると信じるがゆえに、その苛立ちは尋常ではなかった。しかし、それゆえに彼はその苛立ちを懸命に飲み込んだ。彼は自嘲するように少しだけ首を傾けると、再び身体を薄く溶け広がる黒煙に変えて大空へと姿を消した。
そして食事を求めて雪原上を移動していたところで人間どもの殺し合いに出くわし、その甘美さに我れを忘れて魅入ってしまったのだ。なぜなら恐怖や痛み、特に神の似姿をしているとされる人間同士が醸し出す憎悪の波動は、何物にもまして彼の苛立ちを癒すだけでなく、心の空虚を埋めてくれる妙薬だったからだ。
*
事が起こるほんの少し前、その存在は黒煙に変えた体を人間の目には捉えられない薄さに広げ、狙いをつけたその隊商を魚網のように包み込んでいた。そして一挙に平らげて空腹を満たそうというところに、この思わぬ贈り物だった。その存在は千年ぶりの悦びに身を震わせた。戦でも起こらない限り、決してありつくことができない幸せに酔いしれた。
しかし思わぬ事態が最高のショーを台無しにしてしまった。突然の
目の前で、隊商の世話役を謀殺した卒長が、先ず
その存在は我に返ると、その無粋な
その存在は、残った人間に襲いかかろうとした
たとえ子孫でも、この暴挙を許すことはできない。
どうしてやろうか。先ずはその精神をズタズタに引き裂き、次に細胞の一片一片に忘れえぬ苦痛を与えて、その上で滅ぼしてくれようか。残虐な怒りにうち震えながら、彼は倒れている子孫を見下した。そして自分の心を子孫のそれにナイフのようにズブリと
「これは、これは……」
彼は思わずそう呟くと、あれほど怒り狂っていた心を一挙に冷ますと、三日月のように目を細めた。
「これは、これは……」
彼は楽しげに、そう言いながら大きく広げた両腕に迎え入れるかのように一歩一歩、踊るように子孫に近づいていった。
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