第69話


「ああ、リリィはなんて可愛いんだろう……」



 もう何百回、いや何千回と聞いていそうなセリフを口にしながら、エクトルは抱き上げたリリィの顔をのぞきこんでいた。

 リリィが生まれてはや三ヶ月。生活はだんだんと落ち着いた、とまでは言えないが子供がいる生活に慣れてきた。


 アルデルデの義両親は薬師塔を度々訪れて孫の顔を見にくるのだが、首も据わっていない状態で長時間の馬車の移動は心配なので里帰りは見送っており、ドバック家への挨拶はまだ出来ていない。ジャンからは頻繁に様子を尋ねる手紙が送られてきており、こちらにもできるだけ早めに挨拶に行きたいものだ。



「そろそろ腕が疲れませんか? 抱っこ、交代しますか?」


「いや、大丈夫だよ。あと一時間はいける」



 私たちは基本的に夫婦で共に行動をしているため、交代で子供の面倒を見やすい。体力が消耗すれば回復魔法を使うし、何よりリリィ自身が大人しい性格をしている。あまり泣かないがミルクはよく飲むし病の色は見えないため、何か病気だということでもないようだ。

 そして順調に成長した彼女は最近、よくエクトルの頭の上を見ているような気がする。


(これは……見えているのでは)


 三ヶ月となると子供の目はかなり見えるようになっていると言うし、リリィはエクトルのよく動く感情線をつい目で追ってしまっているのではないか。そんな風に思えてならない。

 彼の喜びや楽しさや親愛といった感情がリリィの近くで勢いよく伸びた時、彼女の赤い瞳はそれらの方角をじっと見つめているのだ。



「こんなに可愛くて心配だな……君のことはお父さんがしっかり守るからね」



 今も瞬間的に伸びた藍色不安の線を目で追った。やはり“見えて”いると思う。



「リリィは私と同じものが見えている気がします。……それなら人を見る目は、あるでしょうね」


「そっか。……でも苦労もしそうだね」


「はい。……それは、きっとそうですね」



 他人がどんな感情を持っているか、自分に対しどんな気持ちで向き合っているか。それが分かってしまうのは、良くも悪くもあるだろう。

 親しい人間をほとんど作らないようにして、他人と距離を取っていた私にとっては便利な部分も多い力だったが、多くの人と交流しようとするなら心労も大きいはずだ。

 リリィがどんな道を選ぶかは分からない。私は彼女がどんな選択をしたとしても、共に悩み、娘の幸福を真剣に考えるつもりだ。



「でも、苦労ばかりでもありません。この力のおかげで私はエクトルさんを見つけられましたから。人を見る目はあると、自負していますよ。……貴方ほど、私が愛したくなる人などいないでしょうからね」


「んんッ……ふいうち……」



 大事な愛娘を抱えている夫は、両手で顔を隠すことができずに娘の腹に顔を埋めている。リリィが不思議そうな目で父親を見つめているように見えたが、まあ気のせいだろう。



「奥さんも娘も可愛すぎて俺は幸せで死ぬかもしれない」


「幸せな人は寿命が延びる傾向にありますから大丈夫ですよ」



 しかし私はともかく、リリィが可愛いのは事実だ。親の贔屓目ではなく、事実として赤子ながらすでにかなり顔立ちが整っている。

 私が薬師としての仕事を再開したからか、親友の子が気になって仕方がなかったのか。つい最近カイオスが一度様子を見に来たのだが、その時にリリィの顔を覗き込んだ彼は一瞬まじめな顔をした。そして。



「……これは傾国になりそうだな」



 と呟いたほどである。人を狂わせるほどの美貌、というのがこの世に存在することはよく知っているので、私も娘の将来は心配している。エクトルのように口にすることは少ないが。


(貴族に近い職場なのは不安がない訳じゃないけど……カイオス陛下がいる)


 カイオスという上司を私は信頼している。それに彼はエクトルの親友だ。親友のためにも自分のできる範囲でリリィを守る手助けをしてくれるだろう。それが国の最高権力者というのは心強い。

 そしてエクトルの実家であるアルデルデ家も協力をしてくれると思う。孫を目に入れても痛くないほど可愛いと思っているイリーナは、何故騎士爵の家に嫁いだのか不思議なくらい上の階級の貴族の出身らしく、いざとなればそちらのツテも使うと豪語していた。



「きっとこの子も苦労するでしょうから、おばあ様が力になりましょうね。このおばあ様が」



 自分とあまり変わらない年齢に見える美しい貴婦人が「おばあ様」を連呼しているのは妙な気分になる光景だった。イリーナがアルデルデ家への訪問よりも先に薬師塔へ訪れて孫の顔を見に来てから、贈られてくるリリィの服の愛らしさが増した気がする。……大きくなったら着せてみたい服のデザイン案まで送ってくるので、落ち着いてほしい。親子揃って気が早い。


(……昔は考えもしなかったな。貴族に守られる状況なんて)


 魔法使いにとって貴族とは、例えるなら被捕食者にとっての捕食者のような、恐怖する対象のはずだった。今では捕食者であると同時に、守護者でもある。捕らわれ道具として扱われるのではなく、身内として保護されるならば安全と言えるのかもしれない。


(私よりも怯えずには暮らせそうだけど……ちゃんと、信用できる人を見極めて、秘密を打ち明けられる相手は選ぶように教えないと)


 自分とよく似た色の瞳が、私をじっと見つめていた。彼女には私と同じものが見えている。そしてその頭上に伸びる興味の色を見ながらふと思った。


(リリィには、私の予想線も見えるのでは?)


 私は自分の色を見ることができない。しかしもしかすると、自分の力を受け継いだ娘には見えるかもしれない。

 実は常々考えていることがある。それは、エクトルの長く伸びた状態で固定化している恋の色についてだ。彼の恋の色はいつも天井を突き抜けているのでその天辺を一年以上見ていない。

 しかし私たちの愛情の天秤は、きっと釣り合っている。エクトルの愛情を私は重たいと思わないし、エクトルも私の愛情をしっかりと受け止めて喜んでいるからだ。


 だから私は常々考えている。もし私の頭上に恋の色があるとするならば、それは彼と同じように天井を突き抜けているのではないか、と。


(…………リリィが大きくなったら聞いてみよう)


 少しばかり気恥ずかしい気もするが、興味もある。そんな私の頭上にすっと目を向けた娘の腹からようやく顔を上げた愛しい夫は、まだ赤い顔で破顔していた。



「リリィのお腹は幸福な香りがする……」


「そうですね。赤ん坊はいい匂いがします」


「うん。……まだ抱っこしてていい?」


「どうぞ。訓練の時間まではいいですよ」



 瞬間、エクトルの表情が暗くなった。そうして伸びた不満の色に、私もリリィも目が吸い寄せられる。やはりどう考えても見えている、と思う。



「離れがたい……ここから離れたくない……俺の幸せはこの場所に全部詰まってる」


「リリィが貴方の不満を見てびっくりしていますよ。仕事をきっちりこなす、カッコイイ父親の姿も見せてあげないと」


「……そうか。うん、それはそうだね。リリィに父親としていいところを見せないと」



 そうして張り切りだしたエクトルは、その日珍しくやる気をだして訓練に出かけた。その背中を、リリィではなく交代にやってきたユナンが不思議そうに見送っている。今まで毎日「奥さんとも娘とも離れたくないのになぁ」と言いながら訓練場に向かう姿を見てきたせいだろう。



「あれは何があったんですか?」


「娘にいいところを見せたいんですよ」


「……なるほど。そう言えばいいのか」



 何やらエクトルの扱いについて思いついた様子だったが、深くは聞かないことにした。私はそれよりも、彼の耳に見慣れぬ色があることが気になる。

 青い石の耳飾りの他に小麦のような色の石を使った耳飾りが増えている。両耳に色付きの耳飾りが揃うと婚約の証だ。



「ユナンさん、ご婚約おめでとうございます」


「……はい、ありがとうございます」



 嬉しそうに、照れたように笑う顔は初めて見たかもしれない。恋をする青年の顔だ。

 ユナンの恋の色が順調に育っているのは見ていたので、成就すればいいとは思っていた。もし喧嘩でもした時はいくらでも相談に乗ろう。……このままユナンも幸せになってほしい。


 周囲は時の流れと共に少しずつ変わっている。子供がいると時間の流れは本当に早く感じて、三か月はあっという間だった。

 エクトルは毎日のように娘の結婚相手について心配しているが、気が付けば本当に結婚について考える歳になっているかも――そんなことを思って、小さく笑った。


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