第61話



「さて、今日は結婚薬作りをします。一日がかりなので……エクトルさんにも負担を掛けてしまいますね」


「そんなの気にしないで。……というか、嬉しくてわくわくしてる」



 結婚薬。それはすなわち、結婚した証となるピアスの穴を開けるために新婚夫婦が使う薬である。エクトルもその存在は知っていたし、なんなら眠っている間にこれを塗って無理やり穴を開けようとされたこともあるので実際に目にしていた。

 しかしそんな嫌悪の記憶も吹き飛ぶような心地だ。急いても完成品などできはしないが、それでも早く実物を見たくて仕方がない。


(これは……シルルさんと俺のための結婚薬なんだ)


 確実に近づいてきている夢の日を前にして浮かれないはずがない。必要な段階を一つ終える度に、喜びの感情が突き抜けていく。……そしておそらく、いや確実にシルルの目には実際に天井を突き抜ける感情が見えているのだろう。今も微笑ましそうに見られているのが少々恥ずかしい。



「材料はこちらです」


「あれ、結構よく見る薬草ばかりだね」



 彼女が調合台に広げた材料はエクトルも見慣れたもので、中にはシルルと一緒に採集したような薬草も混じっている。それを使った簡単な薬作りなら教えてもらったこともあり、そういった思い出が蘇って楽しくなってきた。彼女の仕事を手伝うのは中々楽しいのである。



「はい。結婚薬は一般的なものの組み合わせです。ただコツがいるので……今回は流石に一緒に作ってもらう訳にはいかないのですが……」


「たしかに君の仕事を手伝うのは好きだけど、今回のは特別仕様で難しいんだろう? 俺は護衛に専念するつもりだから大丈夫だよ」



 エクトルの感情を見て考えていることが分かったのか少し申し訳なさそうにしている彼女に、心からの笑顔で答えることができた。たしかにシルルと一緒に採集をしたり薬を作ったりするのは楽しい。そしてその機会はこれから先、何度でも訪れるはずだ。……この先もずっと共にあると彼女がそう言ってくれているのだから。


(それにシルルさんを守るのは何より大事な役目だ)


 シルルの宮廷薬師としての仕事は祝祭の間休みが与えられている。エクトルもその間は訓練が免除されているものの、護衛としての仕事が休みになる訳ではない。というより、シルルを守る役目を休むはずがなかった。


(たとえ仕事が休みでもシルルさんのことは守る。俺が見ていない間に何かあったと思うと……耐えられない)


 城勤めになる前は別々に暮らしていて週に一度しか会わなかったというのに、あの頃をどうやって過ごしていたのかもう思い出せない程だ。そしてシルルはエクトルがいない間に商人に攫われ、一週間ほど行方不明となってしまった。あの時の焦燥と絶望感は忘れられない。だからこそ余計に心配してしまうのかもしれなかった。


(ユナンに交代を頼めるのはありがたいけどね。……俺が二人いればいいのになぁ……)


 シルルによると結婚薬作りは言葉通り一日がかりで、夜明けまで寝ずに鍋をかき混ぜるらしい。勿論エクトルもそれに付き合う予定だ。翌日は二人共々睡眠を取り、その間はユナンに薬師塔の護衛を頼むことになっている。

 シルルは貴族ではないためそれほど手厚く護衛されることはない。そもそも城内に賊が忍び込むことなどほぼあり得ないのだから、平民の個人にこうして一人の専任護衛騎士と交代要員の騎士一人が付けられているだけでも破格の対応なのだ。それでも落ち着かないのはエクトルの未熟さというものだろう。

 塔の防犯対策は念入りにしているとはいえ一番警備が手薄になる時間帯は就寝時間である。自分が二人存在すれば交代で護衛が出来て安心、などというありもしない想像をして首を振った。


(結婚して、同じ部屋で眠るようになれば……安心、できる)


 自分が傍にいるなら何があっても守り切るという自信がエクトルにはあった。夜に離れ離れとなるのは寂しさを覚えるのと同時に、不安も湧き上がる。翌朝、同じ扉からシルルの姿を見る瞬間までそれは消えない。

 そんな不安を抱く必要も、もうすぐなくなる。間近に迫った結婚が待ち遠しくてならなかった。



 それからシルルは材料を細かく刻んで計量を繰り返し、すべてを器に分けていく。真剣な表情だが赤い瞳が煌めいているように見えて、エクトルは仕事中の彼女を見るのがとても好きだった。

 本人が趣味でもあると言っているだけあって楽しいのだろう。そんな姿を眺めていられるのは良い時間だ。今日は訓練がないからこそ一日中こうしていられる。



「あとは材料を入れながら混ぜていくだけです。……根気がいりますね」


「このあとずっとかい? ……食事休憩もなし、かな」


「はい。離れられてせいぜい五分といったところですからね」



 良い結婚薬を作るには鍋で調合中の薬品の変化を見逃してはならない。数分落ち着くタイミングは何度かあり、その時々で水分の補給などを行うので心配ないと言われた。

 しかし負担であることには違いない。今日は食事も手づかみで取れるものを頼んであるが、ゆっくり食べる暇はないのだろう。身の危険ではないにしろ心配はする。彼女にはいつまでも健やかでいてほしい。怪我も病気もすることなく、天寿を全うしてほしいと常々思っている。


(丁度良く食事が運ばれてくればいいけど……)


 そんなエクトルの願いはどうやら叶わなかった。昼時となり食事が運ばれてきたと告げても手を開けられる状況ではないらしく、シルルは調合鍋を見つめながら悩んでいる様子だった。



「今から一時間は難しいですね。エクトルさんを待たせるのは心苦しいので先に食べてもらいたいのですが……でも毒味はしたいですし」


「そんなの気にしなくていいのになぁ」



 気にしなくてもいいというのは本音だ。しかし、それはそれで嬉しいという感情もあって頬が緩んでしまう。愛されているのだと、何度も言葉と行動で示されてきたからよく知っている。

 暫く前のエクトルならここで「シルルさんは俺のことが好きだね」と茶化してしまって、それを肯定されて感情を乱されていたところだがそんなことはしない。……そんな、わざわざ確認するような行為をしなくても、彼女の愛情の大きさは疑いようがないのだから。



「今日の昼食はサンドイッチだね。一口サイズで食べやすそうだし、よかったら俺が食べさせようか?」



 一応運ばれてきた昼食の内容を確認したら皿に小さなサンドイッチが敷き詰められていた。立食パーティーでよく選ばれるメニューだ。指先でつまんで食べられるようなものなので、これなら作業中でも口にできるかもしれないと思い立ち、そう提案してみる。



「……ちょっとはしたないですけど、お願いします」


「うん。鍋の中にこぼさないように気を付けるね」



 手袋を外して綺麗に手を洗い、零れにくそうなものを一つ摘まんでシルルの顔の近くに持っていく。この時「なんだか雛鳥に食事をさせる気分だな」と微笑ましく思っていた自分があまりにも能天気であったことを、その数秒後に気づかされた。

 シルルは鍋から視線を切らないようにしつつ、少しだけ顔をこちらに向けてエクトルの手からサンドイッチを食べようとする。視線を向けないせいで距離が上手く測れないらしく、柔らかい感触が親指に触れてエクトルはピシリと音がしそうなほど固まった。そのまま指を伝うように動き、目的の物を探してぱくりと銜える。



「ん……ああ、美味しいです。薬も混ざってないですね、私は落ち着いたら残りを食べますからエクトルさんは先に食べていてください」



 シルルは何も気にしてないようで固まるエクトルに気づかずそのままサンドイッチを咀嚼し終えると、そのまま作業に集中しはじめた。

 彼女の柔らかい唇がなぞった指を茫然と見つめながら、自分の顔に熱が集まっていくのを感じる。


(いや、これくらいでそんな……キスだって、何度もしてるのに)


 大げさな反応だと自分に言い聞かせながら料理が載っている大皿の元までふらふらと歩く。あまりにも不意を突かれたというか、予想していなかったというか。とにかく心の準備をしていなかったので心臓に悪かったようだ。

 指先に触れた柔らかさをエクトルは知っている。知っているからこそ、余計なことを思い出してしまい羞恥を禁じ得ないのである。


(とにかく、俺も食事を……)


 そうして手を伸ばしたところでふと「シルルの唇が触れた手で手づかみの料理を食べるというのはどうなのか」という考えが湧いて手が止まる。

 普段ならエクトルの感情はシルルに筒抜けで、こんなおかしな行動をしていたらいろいろと察した彼女が何かしらエクトルの心を解すような言葉をかけてくれるものだが、今日の彼女は鍋しか見ていないのでこの状況に気づくことはない。


(だからって手を洗いに行くのは違うし……)


 この手で食事をするのか、手を洗いにいくのか。固まったまま十分以上悩み続けたエクトルは、結局反対のひだり手でサンドイッチを掴み取った。……最初からこうすればよかったのに、その選択肢がすぐに出てこなかったのは余程混乱していたからだろう。


(……こっちを使う習慣、すっかりなくなってたから)


 もともとエクトルの利き手は右である。ただ、魔物に貫かれてからシルルに出会うまではまともに使えなくなっていた。今は両手とも同等に器用なのだが、それでも意識せずに使う時は右手が多くなっている。


(全部シルルさんのおかげ……本当に、結婚できるのが嬉しい)


 シルルはエクトルにとって恩人であり、愛する人である。日常生活の何気ない瞬間に彼女の存在を感じては深く感謝する。それはきっとこの先も変わらない。

 右手をじっと見つめていたはずが、気づいたらまだ柔らかい感触が残っている気がする指先に視線が向いてしまう。やはり手を洗うべきか、このまま気にしないようにして手袋をはめるべきか。悶々と悩むエクトルにシルルが気づくことはない。


(俺って体だけじゃなくて心もシルルさんに支えられてる部分が多いんだな……いや知ってたけど、改めて……)


 何気ない一言でエクトルの心まで守ってくれている彼女の存在が身に染みる、そんな一日であった。

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