第47話
訓練から戻ってきたエクトルとユナンが交代し、いつものように椅子に座った彼に耳飾りをつけた後。エクトルから空になった薬瓶を渡されて少し驚いた。……これを使うような状況になった、ということだろう。自然と眉が寄ってしまう。
「……ユレルミさんが来たんですか?」
「いや、そうじゃないよ。でも何人かおかしくなってる騎士がいたから、補給水にどぼん。効率よく大勢に飲ませられるってのは実証済みだし? 今日の水は美味しいってみんな喜んで飲んでたから、問題もなし」
「ああ……なるほど」
実証済み、というのは訓練所の補給水にフェフェリが混入された事件のことだ。あれから騎士以外の人間の出入りはかなり厳しく規制されているらしい。だが、同じ騎士なら薬を入れるのは容易なのだろう。悪意を持ってやる人間がいたら大変だが、城に詰めている近衛騎士は実力があり信用される人柄の者ばかりで、それはないと判断されているということだ。
真面目な騎士達の中で、常に笑顔を張り付け余裕ぶって見せるエクトルは浮いているかもしれない。以前はエクトルを嫌っていたユナンの話からしてもおそらく間違いではないだろう。訓練中はどんな様子なのか少し気になる。
「俺のせいで起きる事件の経験が役に立つ日がくるなんて思わなかったなぁ」
笑うエクトルの頭上に短く嫌悪の色が伸びる。それは薬を盛った女性に対する嫌悪なのか、自分のせいで周りに迷惑をかけるという自己嫌悪なのか。色だけでは判断できない。
彼の心の傷はあまりにも多くて、様々なきっかけでその傷が開いてしまう。……私はそれが少し嫌だ。彼にはずっと橙色を伸ばしたまま、幸せいっぱいでいてほしい。
「悪いのは貴方に意思があることを忘れた人たちであって、貴方じゃない。必要以上に自分を責めたら怒るって前にも言ったでしょう?」
「……そっか、そうだったね。怒ってる?」
「怒りました。……貴方を傷付けた人たちに」
まだ椅子に座ったままでいるからエクトルの顔が良く見える。嫌なことを思い出した時、心の傷が疼いた時に浮かべる完璧な笑顔だ。
心の傷には薬を塗ることができない。塞がったように思えても、きっかけさえあれば何度でもその傷口は開いてしまう。それを完全に癒すのは難しい。
いつだったか、エクトルが私に「俺が花なら君は何になるんだろう」と問うた。私はそれに薬だろうと答えたけれど、今ならもっと、はっきりと答えられる。
「私は貴方の傷を癒す薬になりたいです。体だけではなく、心の傷も。貴方が傷ついている時は……そうですね、たくさん抱きしめます。他にしてほしいことがあれば、なんでもしましょう。貴方に苦しんでほしくありません」
「……どうしよう、今のでもう元気になった」
「…………本当ですね」
短かった嫌悪の色はすっかり消えて、大きく伸びたのは喜びの色だ。伸びすぎて頂点が見えなくなった桃色の次に橙色が長い、そういう嬉しそうなエクトルの予想線が見えると私もほっとする。というか、嬉しくなる。
「君は俺にとってすでに薬……というか、すべてかなぁ」
「すべて、ですか?」
「うん。俺が生きるために必要なすべて。君さえいれば俺は生きていけるし、逆に言えば君がいないと息もできない、みたいな? ……なんて、冗談」
それは、冗談ではなく本音のはずだ。エクトルの愛情は重苦しいほどで、けれど私はそれが心地よい。彼の愛情は、私が彼を裏切りでもしない限り尽きることはないだろう。だからこそ私も安心して彼を愛することができる。
「前にも言いましたが、私はずっとエクトルさんと一緒にいますよ。私のすべてをかけて貴方を愛すると決めています。……だから安心して、これからも私に愛されてください」
「っすッ………………ぃ……」
「す」で言葉と息を飲みながら勢いよく両手で顔を隠したエクトルは、今にも消え入りそうな声でおそらく「はい」と返事をした。恋の色に並ぶように天辺を突き抜けた橙色に満足してつい笑ってしまう私も、愛情が重たい、なんて
「あー………………結婚してください……」
「しますよ。貴方以外とは結婚しません」
「んんん……もどかしい。もう早く耳に穴開けたい。その辺の針でもいいから」
「ちょっとさすがに落ち着きましょうか」
結婚をしたら耳に穴を開けるものだが、穴を開けたからと言って結婚したことにはならないのである。目的と手段が逆転してしまっては何の意味もない。
互いの親に挨拶をして、式を挙げ、その場に呼んだ縁者を証人として将来を誓い合う。それがなければ結婚したとは言えないのだ。
それからしばらく顔を覆ったままでいたエクトルは、長い息を吐きながらゆっくり手を離した。……天井の向こう側に伸びて見えない恋の色は落ち着いただろうか。見えないものは私でもさすがに分からない。
「少しは落ち着きましたか?」
「……うん……でもシルルさんは見れば分かるんじゃない?」
「見える時は分かりますが……」
不思議そうに首を傾げたエクトルに彼の恋の色は室内にいると天辺を見ることができなくなっていることを話した。感情が昂った時だけ天井を突き抜けるほど長くなるのではなく、もう常に天井を突き抜けているため変動が見えないのである。平常時なら椅子に座っていれば見えなくもないのだが、今のようなちょっと興奮した状態になればやはり天辺は見えなくなる。城の無駄に高い天井ならともかく、この薬師塔で彼の恋心が揺れ動くさまを確認するのはこの先不可能ではないだろうか。
他の色は動きが見えるので分かるのだが、恋心を揺さぶられてドキドキしたり落ち着かなくなって伸び縮みする桃色の線の様子は見えないため他の色の動きで予想をつけていて、分かりにくい。それを聞いているエクトルの頭上では羞恥の色がぐいぐいと伸びていた。
「えっと……つまり俺は君の事を好きすぎるってことかな」
「まあ、そういうことになりますかね」
「……ちょっと恥ずかしい」
薔薇色の長さから判断するとちょっとどころではなく恥ずかしそうだが、そこは言及しないでおく。……愛情の大きさについてはおそらく私も似たようなものだから。
「でも俺は本当に、心底シルルさんが好きなんだ。君に何かあったら理性を保てる自信がない」
ふと、私を攫った商人の襟首を掴んで宙づりにしていたエクトルの姿を思い出した。あの時よりもずっと彼の愛情は大きくなっていて――私の身に危険が及べば、その原因となった人間に対して彼が憎悪を抱く可能性は高いと思う。けれど私は彼に、そんな色を伸ばしてほしくない。
「そうならないよう、ここには色々と仕掛けをしているじゃないですか。……ユナンさんも、夜の護衛が足りなければいつでも声をかけていいと言ってくださいましたよ」
「……そうだね。いざとなったらユナンにも協力してもらおうかな」
このまま、何も事件など起きないまま、カイオスがユレルミの問題を解決してくれればいいのに――そんなささやかな願いは、残念ながら叶わなかった。
私が催眠香の解毒剤を作るようになって、十日が経った頃のこと。
カイオスはこの薬を新しい食用品として普及することにしたらしい。水やお茶に混ぜることで新しい風味を生み出す調味料的な存在として紹介し、自らが率先して使い、貴族たちにも振舞う。城内でも意見を聞きたいと飲食用の水に混ぜることを推奨した。そしてそれは今、流行となり始めている。
まあ、薬と言われれば口にしにくいだろうからそれでいいのだろう。珍しいもの好きのカイオスがまた何か見つけてきたのだと、城内の人間は疑いもしない。彼の周りを振り回す突飛な行いはいつものことで、それに付き合わされることに皆が慣れているから。
(あの王族らしからぬ性格のおかげで普及しやすいというのは……普段の行いのおかげ、なんだけど腑に落ちない。振り回されるほうは結構大変だし……)
王子に求められたなら一度くらいは試さなければ、と口にした者達から好評だったその飲み物はあっという間に広まった。貴族だけではなく、使用人や騎士の間でも広く好まれている。カイオスが異国から取り寄せた珍しいものは時折こうして広められるが、大抵は不評らしい。しかし稀に皆に好まれ一時的な流行となるものもある。私の薬は後者の方として受け入れられたようだ。
ただ、それが通じるのは所謂“
「まあ、それでも効果はあるかな。カイオスの周りが洗脳されてたら大変だけどさ……今のところ、訓練所でもほとんどの騎士は喜んであの薬が入った補給水を飲んでる。相変わらず美味しいって好評だし」
「……ほとんどの、ですか」
「うん。……飲まない騎士がいるんだよね。汗をかいて喉が渇いているはずなのに、頑なに飲まない。そしてフラフラしながら訓練場を出ていくんだ」
「他所で何も口にしないよう命令されているのかもしれません」
それはつまり、ユレルミも自分の催眠香を打ち破るものが出回っていることに気づいたということだ。何か手を打ってくるとするならこれからだろう。
カイオスが流行の嗜好品として扱っているものが解毒薬であり、それは私の作った薬だと知れるまであとどれくらいの時間があるだろうか。
「君の解毒薬は城の中で結構流行ってるから、頑なに口にしないのは第二王子派の一部だけなんだよね」
カイオスに拒絶反応を示すもの以外には広まっているということだ。
「薬は不味いものだって思ってるから、誰も解毒薬だなんて思ってないよ。個人的に買い付けたくて出所を探してる貴族もいたなぁ」
貴族が探している。それだけでなんだか肌寒く感じて軽く自分の体を抱きしめた。王城の敷地内にいて、王子の専属として仕事をしていても貴族に探される、と聞くとまだ少し落ち着かない。……幼心に刻まれた恐怖感はなかなか消えないものだ。
「イージス殿下の情報網にもよるけど、君の薬だと知れるのは時間の問題かもしれない。……でも。もし何かあっても、俺が必ず君を守る。君を傷付けさせないと約束する」
いつも笑っているはちみつ色の瞳に真剣な光が宿る。甘やかな声にはいつもと違う力強さがあって、彼の覚悟が籠っているように聞こえた。私が少し不安になった瞬間にそう言われて安心した。頼もしいと思うし、心臓がとくりと音をたてたような気もする。
エクトルは必ず約束を守ってくれる人だ。私はこの人を信じているし、頼りにしている。彼の傍に居れば、常に落ち着いていられる。……でも、今は少しだけ心臓の鼓動が早くて落ち着かない気分だろうか。
「どうかした?」
「いえ……ただ、やっぱり私はエクトルさんが好きだなと思っただけですよ」
ときめく、というのはこういう状態のことだろう。エクトルが私の言葉で顔を覆ったり赤くなったり声を失ったりしている時も、これと似たような気持ちなのかもしれない。……まあ、私は彼ほど大きな反応はしていないが。
今もエクトルは片手で目を覆っている。先ほどまでの真剣さはもうどこかにしまい込んだようだ。
「エクトルさんは、たくさんの魅力を持っていますよね。さっきまではとても頼もしくて、今はとても愛おしいです」
「っ……!?」
この人の好きなところを考えてみると、驚くほどたくさん思い浮かぶ。約束を守ってくれるところ、人付き合いの不器用さ、長すぎる恋の色、私を見つめるはちみつ色、すぐに赤くなる耳も、意外と恥ずかしがり屋なところも――これ以上考えるのやめよう。愛おしくて仕方なくなる。
占いに来た乙女から「私のどこが好きかと尋ねたのに全部だと返ってきて、本当は好きなところなどないのではないか」と相談されたことがあった。悪い色は見えなかったので「それは本当なのですよ」と答えたけれど、今なら分かる。
好きなところが多すぎて枚挙にいとまがないと「全部」という答えになるのだ。それは決して嘘ではない。私は彼を丸ごと愛している。全く仕方のない人だと少し呆れてしまうようなところや、本音を隠してしまう難儀な性格も、短所と思うものですらすべて含めて私の愛する“エクトル”という人だ。
「私は貴方が……」
「ねえ待って、待ってシルルさん……! お願いだから、落ち着く時間を、貰っていい? ちょっとこのままだと君の護衛に支障がでるっていうか……っ」
「ふふ、はい。……では、続きはいつかまた」
私がさらに好意を伝えようとしたのが分かったらしく止められてしまった。俯きながら顔を押さえているエクトルの耳は真っ赤で、恋の色は壁を突き抜けて外に出ているのが窓から見えていた。その先端部分は日の明るさにかき消されてよく見えないが、遠くまで伸びているのだろう。
この穏やかな時間が確たるものになればいい。いつかこの人と結婚した時にはそうなっていてほしい。私に見える未来はたった一日先までのことで、それ以上先は分からないけれど。幸福な未来を望んで努力すればいい未来に向かっていけると信じている。
より良い未来を目指すため。……たった今、エクトルの頭上に伸び始めた半透明の怒りと敵意の色が指し示すものが何か、考えなければ。
「エクトルさん、一日以内に何かありそうです」
「…………分かった」
先ほどまで顔を覆っていたエクトルは、私の言葉ですっと背筋を正した。頭上では
「昼間から行動する可能性は低いから、何かあるなら夜中だと思う。……ユナンにも頼んでおこう」
「では、対策も強化しておきましょう」
その日の夜中、事は起きた。……薬師塔に何者かが忍び込んだのである。
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