第39話


 人は穏やかな心臓の音を聞いていると落ち着くという。心音だけではなくその拍子リズムにも効果があり、幼子を寝かしつける時は正常な心臓と同じ拍子で背中を叩いてやるとよく眠れるらしい。逆に言えば、乱れた心音は人の気持ちをざわめかせる。

 今のエクトルの鼓動は全く穏やかではなくて、それを聞いていると私まで不安になりそうだった。とりあえず、子供をあやすように一定の間隔でエクトルの背中を叩いてみる。正しい心臓のリズムを刻めば彼も落ち着けるのではないかと、思ったのだが。



「……シルルさん、俺を子ども扱いしてない……?」


「いえ、そういうつもりでは。これは人が落ち着くリズムなんですけど……だめでしたか」


「……君はいつも通りだなぁ……」



 私を抱きしめる腕から少し力が抜けたので顔を上げてみる。エクトルはどこか困ったような顔で笑っていて、その頭上の不安と恐怖は先程よりは短くなっていた。……それでもまだ充分長いけれど。私にできることは他にないだろうか。

 どこか落ち着ける場所がないかと軽くあたりを見回すと、井戸を利用する者が休むためなのか石のベンチがあることに気づいた。ずっと立っているよりは座っている方が落ち着けるだろう。



「あちらで少し座って休みましょう。その方が落ち着くかもしれません」


「……うん」



 頷いたもののエクトルは私をなかなか放さず、そして動かない。やはりまだ波立った心を静めるには時間がかるだろう。一度ぎゅっと力一杯抱きしめてから彼の腕を抜け出し、手を引いてベンチまで連れていく。私が手を取った途端に握り返された力が思ったよりも強くて、それが彼の不安を表しているようだった。


(安心させてあげたいんだけどな……)


 治癒魔法には精神的な癒しの効果がない。傷や病、疲労や毒、様々な体の不調には使えるが、心を直接癒すことはできない魔法だ。それが出来れば確実だったのだが……思いついた方法で効果があるとよいのだけれど。



「エクトルさん、座ってください。ほら」



 無言で私の言葉に従ったエクトルが立ったままの私を不安げに見上げた。その姿がなんというか、道を見失ってしまった旅人のようとでもいうか、あまりにも頼りなさげな様子で見ているだけで胸が詰まりそうになる。

 ……いけない。私は極めて正常でいなくてはいけない。そうでないと意味がないから。一度深く息を吸って、自分を落ち着かせる。大丈夫、私の鼓動は正常だ。



「……ちょっと失礼しますね」



 エクトルの正面に立って、その頭をそっと抱き寄せた。ちょうど、彼の耳が私の心臓の上にあたるように。

 正常な心音というのは、人が落ち着くためには大変効果的なはずである。しばらく私の音を聞いていれば、少しは安心できるのではないだろうか。先ほど頭を抱えるように抱きしめられた時は包まれている感覚が強かったから、そういう意味でもこの体勢は効果があるだろう。と、思ったのだが。



「私は本当に大丈夫ですから…………え?」



 目に飛び込んできた光景に驚き思わず声が出た。私が抱きしめているエクトルの頭に見えていた線がすべて消えたのだ。あれだけ長かった恋の色ですら、綺麗さっぱりと。

 一体どういうことなのだろうと金色の頭のつむじを見つめていたら、ものすごい勢いで眼前に線が飛び出してきて反射的に顔を仰け反らせた。……びっくりしすぎて思わずぎゅっと腕に力を込めてしまったし、心臓が強く跳ねてしまった。私の心音が乱れてしまっては意味がないと自分をなだめる前に両肩をガッと掴まれて力強く引き離される。



「っ……エクトルさん?」



 私の肩を掴んだまま俯いて表情の見えないエクトルの耳は赤く、ついでにいくつかの予想線が私を突き抜けていてちょっと怖い。

 長く伸びているせいで私を突き刺している線の色は桃色と薄黄色、そして茜色の三色で――不安や恐怖はきれいさっぱり消えているのでそこはよかったと思う。私の体の向こうで三つの色がどうなっているか分からないが、桃色ならともかく茜色の長さは見られたくないだろうし、分からなくてよかったのかもしれない。



「もっ……ほんッ……シルっ……ンン゛……!!」


「……言葉になっていませんが大丈夫ですか?」


「……ッない……!!」



 感情が高ぶりすぎてまともに声が出ないらしく、絞り出すように放たれた「ない」だった。とりあえず元気になった様子だし、大丈夫そうで何よりである。

 しばらく私の肩を掴んで震えていたエクトルだったが、動けるだけの余裕ができたのかゆっくりと手を離し、俯いたままその両手の指を組んで額に当て、まるで祈りでも捧げているかのような姿になった。長い息を吐いているので、どうにか荒ぶった感情も発散させようとしているようだ。

 この様子では戻ってくるのには時間がかかるだろう。私もとりあえず彼の隣に腰を下ろした。


(落ち込みそうな半透明の色もないし……多分、もう大丈夫かな)


 驚きを示す薄黄色はもう消えているが、桃と茜の二色は夜の闇の中に向かって長く伸びていてよく分からない。しかしまあ、見えないほど長い茜色を収めるのは大変そうなので彼が話せるようになるまで待つことにした。普段エクトルはこの色を見られたがらないけれど、今回はそういう気を回す余裕もないらしい。……抱きしめ方が悪かったようだ。


 私がエクトルに抱きしめられる時は身長の関係で胸元に耳が当たるので、彼の暴れるような心音を聞くことが多い。その音を聞いていると私は笑いたくなるしそわそわと浮ついた気分になるのだが、今回はその逆をやってみようと思いついた。つまり、普段通りの私の心音を聞いてれば落ち着くはずだと。

 問題は男女ではいろいろと違いがあり、感じ方も違うという当たり前の事実を失念していたことだ。私も彼を安心させたいという思いに囚われて焦り、視野が狭くなっていたらしい。今考えてみれば色々と配慮が足りなかったと思う。


(……悪いことをしてしまった)


 そのせいで現在のエクトルの心は大変な荒れ模様だ。彼の反応と自分のしでかしたことを思い出すと少し恥ずかしくなってしまい、気分を変えようと空を見上げる。星月祭の時期ほどではないが快晴の空に星が美しく輝いていた。

 この井戸の周辺は城の壁に囲まれていて、少し狭く感じてしまう。薬師塔の庭からならもっときれいに星空を楽しめるだろう。次の星月祭は薬師塔の薬草園に食事の用意をして、夜空の明かりを楽しみながらというのもいいかもしれない。などと考え始めたころ、ようやく復活してきたらしいエクトルが俯いたまま小さく呟いた。



「……一瞬頭が真っ白になったよ……他の人には絶対しないでね、お願いだから……ッ」



 彼にしては珍しい、とても感情の籠った声の本音だ。疲れていたり余裕がなかったりすると本心が出やすい人なので、まだ取り繕える程落ち着いていないのだろう。私が見えないところで桃色の予想線は激しく伸び縮みを繰り返しているのかもしれない。

 しかし、なるほど。先ほど予想線がすべて消えてしまったのは所謂「頭が真っ白」という状態だったようだ。思考が止まっている時は線も止まって見えるものだと思っていたのだが、こういうこともあるらしい。



「私がどうしても慰めたいと思う相手なんて貴方だけですから、他の人にはしませんよ。……でも、ごめんなさい。私も動揺していたみたいです」


「いや、謝らなくていいよ……ありがとう。なんかもう、おかげで不安とか色々は吹っ飛んだから……本当に、もう大丈夫なんだね……?」



 ほんの少し頭を上げたエクトルの、はちみつ色の瞳がちらりと覗いて見える。目が合ったので安心させるためにも笑って「大丈夫です」と頷いたら、即座にまた俯かれてしまった。先ほどの二色と違ってまだ見える範囲にあった薔薇色が勢いよく伸びていったのが見えたので、恥ずかしくなったらしい。今度は不安とは別の意味で感情が波立って落ち着かないようだ。

 まあ、悪い感情ではないからいいだろう。明るい色を激しく伸び縮みさせている方が普段通りで、彼らしいと思う。


 それからさらに数分後。ようやく顔を上げたエクトルはそのままベンチに手をつき、夜空を仰いだ。さらりと流れた金の髪は星月の明かりを受けてきらりと輝いて見える。太陽のもとでは眩しく見えるその色は、夜の薄明かりの中だとどこか神秘的に感じられた。



「はぁ……やっと落ち着いたかも」



 頬や耳はまだ赤みを帯びているけれど、たしかに橙色や恋の色はなんとなく見える長さに戻っていて、茜色は消えている。暗い感情の色も見えないし、本当にもう大丈夫そうだ。彼の不安が完全に消え去ったことを確信し、私もほっとした。



「さっきは取り乱してごめん。君が居なくなることを想像してしまって……俺は、君がいないと息の仕方も忘れちゃうからさ」



 それは、私が攫われた時のことだろう。「君がいないと苦しい」と言われたのは、ずいぶん昔のことのように感じる。それは今も変わらず――いや、もしかすると、その時以上に。私は彼に必要とされているのではないだろうか。彼の恋の色は、以前よりもずっと長く伸びているから。

 エクトルの手に自分の手をそっと重ねる。この人には幸せでいてほしいと心底思う。それが私にできるならば、私は努力を惜しまない。



「エクトルさんの心は私が守ると言ったじゃないですか。貴方が幸せに笑っていられるよう……ずっと傍に居ますから。大丈夫です、安心してください」



 私を見下ろすエクトルの顔から引き始めていた頬の赤みが、再び戻っていった。消えていた茜色も薔薇色も勢いよく伸びていき、私が触れていない方の手でバッと顔を隠されてしまう。



「あの、ごめ、シルルさん……今、俺は君に触られるとだめです……悪い色見えるでしょ……?」



 今、私に触れると茜色が伸びてしまうらしい。とりあえず手を離したが、なんというか。この気持ちをなんと言い表していいのか分からないが、溢れた気持ちは声となって口から洩れた。……笑い声という形で。



「……シルル、さん?」



 口元を押さえたが笑いは中々止まらない。声をあげて笑うのはいつぶりだろうか。こちらを見れなくなっていたエクトルですら、突然笑い出した私を少し驚いた顔で見つめてくるくらいである。そんな表情さえも愛おしい。私はこの人が本当に心底好きだ。



「エクトルさんは本当に愛おしくて可愛くて、たくさん愛したくなる人ですね。……私はそういう貴方が、大好きですよ」


「ッ――!?!?!??」



 声にならない声を上げるエクトルを見ているとまた可笑しくなってきたので、視線を外した。どうせエクトルもしばらく私の方を見られないだろうし、私に見られていると落ち着けないだろう。

 そうして星空を眺めて待つこと十分程。一際長い息を吐いて、エクトルが呟いた。



「……俺、君が好きすぎておかしくなりそうなんだけど……シルルさん、やっぱりわざとやってない? 俺のことからかってる?」


「からかっている訳ではないんですよ、本当に。……私はただ、貴方にだけは素直でいられますから。思ったことをそのまま口にしているだけなんです」



 秘密を共有し、共に生きてくれると約束したエクトルだからこそ、私はありのままの感情を伝えることができるのだ。この人と過ごすようになって、自分の想いを口にするようになって、私という人間は意外と“人が好き”だったのだと気づいたくらいである。……以前は全ての人に壁を作り、名前すら覚えないようにしていたから。

 誰かに愛情を注ぐというのは、こんなにも幸福で心地よい。それを教えてくれたのはエクトルだ。私はこの先も一生、この人を愛し続けることができるだろう。



「……君の言葉は本当に真っ直ぐだもんね。俺はこの先もずっと君にドキドキさせられ続ける気がするんだけど……落ち着く日はくるのかなぁ……」


「……長く連れ添った夫婦は大抵、落ち着いているものですよ」



 落ち着いているというか、恋ではなく親愛の色を長く伸ばしている夫婦というのは見かける。穏やかな愛情がお互いの間にあるのがよく分かる、そういう夫婦だ。彼らの恋の色は常に見える訳ではなく、ふとした拍子に伸ばすことがある程度だが、確かな気持ちが存在する。少なくとも私の両親やジャン達はそうだった。

 まあ、たまに、老年になってもずっと恋をしているような微笑ましい夫婦を見ることもあるけれど。……「夫婦」という言葉に反応して喜びを隠しきれないエクトルの恋の色は、なんとなく一生消えない気もする。



「待たせてごめんね。そろそろ帰ろうか」


「いえ、気にしていません。……帰る前に、誰かに食事の用意をお願いしていきましょうか」



 カイオスとの会食の間、護衛任務についているエクトルは食事を摂れない。そして毒見だけで退室した私も食事らしい食事を摂れていない。普段は私がカイオスの元で食べて、エクトルの分は薬師塔に届けられるのだが。今日は二人分持ってきてもらうべきだ。

 使用人はこの時間帯でも働いているし、厨房付近にいた男性に声をかけて追加の料理をお願いした後、二人で薬師塔へ向かって歩き始めた。


 城のあちこちに明かりが灯されているので建物の付近では明かりに困らない。ただ、薬師塔の近辺は他の建物がないので、月と星の明かりしか頼りにできるものがないため、星月祭の前後ならともかく普段はランプが必要になる。

 行きがけに持ってきたランプは出入りする扉の番をしている者に預けてあるので、城を出る前に火を灯してもらい、それを受け取って帰るのだけれど。



「……この時間に貴族が通るなんて珍しいな」



 もうすぐで城を出る扉が見える、というところでエクトルにそう言われ足を止めた。城で貴族と出会った際、平民である私はその貴族の顔を見てはならないし、貴族が通る道を塞いでもいけない。

 すぐに廊下の端に寄り、膝をついて俯いた。騎士であるエクトルは私の背後に立って拳を胸に当て、敬礼の姿をとっている。私達はこのまま貴族が通り過ぎるのを待てばいい、はずだった。



「そこのお前。白い髪の……城では見かけぬな。顔をあげろ」


「……はい」



 声をかけられるなど思ってもいなかった。白い髪というのは私しかないし、貴族の命令に逆らう訳にもいかず、しぶしぶという気持ちを押し殺しながら顔を上げ、声の主を見上げる。

 そこにいたのは、カイオス――によく似た別の誰かだ。薄暗いので一瞬見間違えたけれど、髪は黒ではなく、黒に近いが濃い紫のような色で、瞳も同じ色である。そして何より、私が知るカイオスのように不幸な色が乱立していない。



「ほう、瞳も赤いのか。珍しいな……お前はどこの所属だ?」



その言葉で彼が誰なのか察した。カイオスによく似た面立ちの、珍しいモノ好きな貴族。カイオスの弟、第二王子イージスだろう。私が出会うことを皆が不安に思っていた相手だ。

 振り返る訳にはいかないので、後ろにいる騎士の予想線が見えないのが少々不安だ。彼の心の中は大丈夫だろうか。


(……ソフィア妃殿下の心配が現実になってしまった)


 私はこの場を無事に切り抜けられるのか。緊張で喉が渇くが、それを悟られぬよう笑みを浮かべた。


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