第21話



 朝、目が覚めてまず一番にやったことは天気の確認だった。今日はエクトルと幻の「シュトウムの湖」を探す約束をしている日だからだ。天気が悪かったら延期になってしまう。

 雲のない空につい笑顔になったし、少し落ち着かない気持ちで。日が昇ってから二時間後という待ち合わせに、一時間は早く来てしまったのだが。



「やあ、おはよう」


「おはようございます。早い、ですね」


「うん。お互いにね」



 私よりも早く、マントのフードを被ったエクトルが待っているのは意外だった。楽しみだったから早く来ちゃった、と笑う彼に頷いて答えたのは、私も楽しみで早く来てしまったからである。

 ……こんなに浮かれた気分になるのは、一体いつぶりだろうか。自分でも驚くほど子供っぽく騒ぐ気持ちがあって、不思議だ。



「シルルさんが楽しそうで何よりだよ」


「そんなに分かりやすいですか?」


「うん。今日は特に分かりやすいのもあるけど……俺も君の表情は結構、分かるようになったから」



 そう言われて自分の顔を触った。確かに最近はよく笑っている気もするが、今は無表情のつもりだったのだ。言われてみれば、確かにちょっと口角が上がって笑った顔になっている気がする。

 エクトルと過ごした時間が積み重なった分、彼も私の小さな表情の変化が分かるようになった、ということか。……それはつまり、とてもよく見られているということなのだろうけど。



「よし、じゃあ行こうか。地図は持ってきてる?」


「はい。まずは……父がよく採集していた場所を目指しましょうか」


「うん。護衛は任せてね、シルルさんは道案内をお願い」



 そうして、地図を見て方向を確認した後は並んで歩き始める。エクトルは周りの警戒をしてくれていて、私が行く先を決めるのはいつも採集と変わらない役割だ。

 初めて彼が「護衛をする」と言いだした時は嫌でたまらなかったが、今ではこうしているのが当たり前で安心して護衛を任せられるのだから、不思議なものだと思う。



「遊びに行くのに、なんだかいつも通りですね」


「まあ、やることは似てるからね。でも、目的が違うじゃない? 俺はわくわくしてるよ」



 それは私も同じである。本当にシュトウムの湖があるかどうかも分からないのに、それを探しに行くのだ。でも、本当に存在するのではないか、今日はそれを見つけられるかもしれない、そういう期待は足を軽くするほど気分を上昇させてくれる。

 気分が上向きであった分、足も速かったのか。出発時刻が早まったことも原因だろうけれど、昼頃に到着するはずだった採集地には、昼と呼ぶには早すぎる時間に辿り着いてしまった。



「早すぎましたね」


「そうだね。……お昼にも早いよね?」



 本来ならここで昼食を摂る予定だったが時間が早すぎることもあり、このまま探索を続行しようという意見で一致した。昼食はもう少し探索をした後、一度ここに戻って来てから摂ることにする。

 そう決めた後、エクトルの頭上にほんの少しだけ怪我の色が伸びたのは気になったが、可能性としてかなり低いか小さな怪我を示す程度のものだったので、意識に留めておくくらいでいいだろう。

 エクトルの話ではここから北西に進むと、時々仲間がはぐれてしまうような場所があるらしい。そのあたりには何かあるかもしれない。



「とりあえず、そのあたりまでなら俺も案内できるけど」


「そうですね。シュトウムの花が咲いているから迷う、という可能性は高いので……そこまでお願いします」


「うん。任せて」



 彼の案内で歩き始めて、三十分ほど。この辺りでよく迷う騎士が出る、という彼の言葉で立ち止まって辺りを見渡した。そして薄暗い森の中に、真っ白な大輪の花が咲いているのが目に入る。うっすらと発光しているように見えるので、遠目からでもかなり目立つ。



「ありました、シュトウムです。綺麗ですね」


「え? どこに?」



 大変目立つ花であるはずだが、エクトルには見つけられないらしい。やはり、シュトウムは魔力を含んだ花で、認識を阻害する力を持っているのだろう。私は魔力を持っていて魔力に対する耐性もかなりあるから見つけられるし、惑わされることはないけれど。普通の人間では中々見つけられないものなのだ。



「ほら、エクトルさん。これですよ、これ」


「……うわ。何で気づかなかったんだろう」



 私が花の元まで歩いていき、指して見せるまで彼はシュトウムに気づかなかった。エクトルには多少魔力の耐性があるとは私は思っているのだが、この花の幻惑に敵う程ではないようだ。



「シュトウムはそういう花なんですよ。この花自体が強い幻覚作用を持っているんです」


「シルルさんはなんでそれに気づけるんだい?」


「私はまあ、色々耐性がありますから」



 魔力の耐性は普通の人間にはないものだけれども。以前、クッキーに殺虫剤を盛られた時にも似たような事を言ったから、勝手に誤解してくれるだろう。そう思って口にしたのだが、エクトルの頭上に藍色の線が伸びた。それは不安を示す色であり、取り繕った笑みを浮かべる彼を見て、不安にさせるようなことを言っただろうかと首を傾げる。



「シルルさん、仕事熱心なのはいいことだけど……変な薬ばっかり飲んでない?」



 なるほど。先ほどの藍色は不安ではなく、私への心配だったようだ。クッキー事件の際の私の発言がよっぽど心配になるものだったらしい。まだ引きずっているとは思わなかった。

 昔は毒物を飲んで解毒剤を試すようなこともしていたが、最近はそこまで過激な薬の実験はしていないので安心してほしい。と、そのように告げたらもっと心配されてしまった。



「普通の子は毒を自ら飲んで解毒剤の効力を試したり、しないからね」


「なるほど……気を付けます」


「俺としては止めてほしいんだけど?」



 他に試しようがないので仕方がないと思う。自分以外の誰で試せるというのだろうか。とりあえず明言は避けて曖昧に頷いておいた。



「それより、エクトルさん。シュトウムがここにあるということは、近くに群生地があるかもしれません」


「……群生地?」


「はい。シュトウムは普通、まとまって咲くんですよ。これはちょっと遠くまで種が飛んで来てしまった逸れものですね。この辺りを探してみましょう」



 シュトウムが集まっている場所を探すのはそれほど難しくなかったし、時間もかからなかった。エクトルがまっすぐ進めず、いきなり方向を変えてしまう場所があったからだ。しかも本人はそれを自覚できないという状態で、なるほどこれなら迷いもするだろう。つまり、彼が避けてしまう方向に進めばいいのである。

 辺りの木に印を付けつつ、私がエクトルの袖を引っ張りながら歩くことで、そこへたどり着くことができた。


 まず目を引くのが、咲き乱れる大輪の白い花、シュトウム。ぽっかりと木のない空間に溜まる水は湖、と呼ぶよりは池と呼ぶべき大きさだ。そこだけ陽の光が降り注いで美しく輝いている。人が殆ど踏み入らない場所だからか緑が濃く、辺りにはシュトウム以外にも様々な草花が色鮮やかに咲いていた。思わず感嘆の息を漏らすほど、美しい場所だ。



「……俺、幻を見てるのかな。ぼーっとするし、なんだか想像してなかった光景が広がってる」


「どうでしょう。私と同じものが見えていれば、幻ではないかもしれません」


「凄く綺麗な水場が見えるよ。色んな花が咲いてるね。……シュトウムは見えないけど」


「なら、シュトウム以外は私と同じものが見えているかもしれません」



 白くて光を纏って見える、美しい花の群れが見えないとは残念だ。しかしそれでも、エクトルには充分美しい光景に見えたようだ。

 暫くこの光景を眺めて楽しむのも、いいかもしれない。



「いったん休憩にしましょうか」


「そうだね、少し休もう」



 二人の意見が綺麗に一致したので、その場に敷物を広げて腰を下ろした。どうせならこのまま昼食にするのも良いのではないだろうか。エクトルの希望通りのサンドイッチだが、張り切って色んな種類ものを作り、詰めたのだ。喜んでくれるだろうか。

 鞄から弁当箱を取り出し、開けて見せたら彼の頭上には嬉しそうに橙色の線が伸びて、同時に、赤色怪我の予想線がグンと伸びた。



「え?」



 さっきまでは危険な長さではなかったのに、何故急に伸び始めたのか。

 今、急に怪我の可能性が上がった。それはつまり、今、予定になかった行動をしたことで、何かの危険を呼び寄せたということ。私がついさっき思いついて起こした行動といえば、この場所で昼食を食べようと弁当を取り出したことくらいだが、たったそれだけの行動で未来が決定的に変わってしまった。

 この時間にこの場所で弁当を食べてはいけなかったのだ。理由は分からないが、食べたら怪我をする。慌てて蓋を閉じて片付けてみたが、彼の予想線は短くなっていない。取り出した時点で駄目だった、らしい。



「どうしたの?」


「エクトルさん、警戒してください。何か来るかもしれません」



 シュトウムの花の群れより向こうで、何かが揺らめいたような気がした。それが気のせいでないと分かったのは、体の芯が震えるような咆哮が聞えたから。

 白い花を踏み散らして現れたのは、黒い毛に覆われた狼。ねじれた角の生えた、魔獣。私が魔獣を退ける薬を取り出すより先に、エクトルが剣を持って飛び出した。



「魔獣! どこだ!?」


(っ見えてない!?)



 それはシュトウムがもたらした、最悪の事態だった。狼の魔獣は赤い瞳に敵意をむき出しにして、地面を蹴り、白い花びらを散らしながらこちらに向かってくる。私も何かできることを考えたが、持ってきた薬はいざという時に魔獣をひるませるためのもので。エクトルが居る場所へ、爆発するような危険な薬は投げられない。



「正面です! シュトウムのせいで見えてない!」


「っ……下がってて!!」



 剣を抜いたエクトルに、シュトウムの花の中に居る狼の姿は見えていないらしい。狼が高く飛び上がり、その花から離れたことでようやく姿が目に入ったのだろう。

 大きな牙をむき出しにして飛び掛かってくる狼に、彼は右腕を差し出した。骨を砕くような音と、白い花に飛び散る赤と、陽の光を反射してきらめく銀色。全ては一瞬の出来事で。



「っぐ……」


「エクトルさん……!!」



 右腕を犠牲に引きつけた狼の喉元を、エクトルの剣が掻っ捌いた。狼は動かなくなったが、彼の腕も酷い状態のはずだ。

 慌てて駆け寄って怪我の確認に向かったが、目をそむけたくなるほど肉が抉れていて、応急処置ではとても間に合わないような深い傷を負っていると一目で分かる。



「はは、まさか見えない、なんて……予想外、だな」


「痛いのに、笑わないでくださいよ……!!」



 激痛に襲われているはずだ。白い骨が見えるほどの深手を負って、何故笑うのか。苦痛の色も長く伸びているのに、「平気だよ」なんて嘘にもならない嘘を言って笑わないでほしい。予想線を見なくたって分かるような傷なのに。


(……この傷じゃ、帰れない可能性も強い)


 それはゆっくり伸び始めた、エクトルの黒い予想線からも知ることができる。薬ではもう、どうにもならない傷だ。帰るまでに失血死するかもしれないし、帰れても傷から病を得るかもしれない。


(私が、治すしか)


 スッと死の色が消えた。その考えに思い当たった時点で、迷いもないから当然だ。私の力は知られてはならないもの。けれど、人命より、友達の身より、それが重いはずはない。何よりこれは、私が引き起こした事だから。責任をとるべきだ。



「エクトルさん、誰にも言わないでくださいね」



 そっと彼の右腕に手をかざす。集中して、力を使う。全て綺麗に治してしまおう。狼に受けた傷も、昔に魔物に受けた魔障も、すべて。

 傷口はみるみるうちに塞がっていく。傷が治れば、痛みも消える。彼の頭の上に苦痛の線が綺麗になくなったことを確認して、力を止めた。……大怪我を治すのは、流石にちょっと、疲れる。でも、それだけだ。



「君、は……いったい」



 時間にして数秒。それだけで狼の牙に抉られた怪我も完治する。流れた血で服も腕もまだ赤いけれど、洗い流せば傷ひとつない肌が見られることだろう。それが治癒魔法、人を生かす力だ。



「私は、治癒の魔法使いです。驚いたでしょう?」



 私は固まっているエクトルに向かって、にっこりと笑みを作ってみせた。



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