第101話-2

 幼いルーヴァベルトはその場に蹲る。彼女を濡らす赤黒い血が、ぽたりと滴った。

 ああ、とエヴァラントは歯を食いしばった。

 あれは、妹を濡らすあの悍ましい赤は…自分のものだ、と。

 事実、幼い身体の上で嘲笑うかのように、大きな球体が揺れていた。

 白く、大きな、眼球。瞳の色は、銀のそれ。

 そこから、したりしたりと赤い液が滴り、幼女の身体を汚している。

 まるで、弄びつつも、己の所有を誇示するかのように。



(なんて、)



 なんて、醜悪な。



 突きつけられた気がした。己の中に渦巻くどす黒いものを。黒く濁って、淀んで、歪んだ感情を。

 ルーヴァベルトから離れたいと思っていた。彼女を護るために。

 だからランティスを選んだ。自分の代わりに妹を護って貰おうなんて、都合の良い考えに彼を利用した。


 ルーヴァベルトから離れたいと思っていた。


 ルーヴァベルトから離れようと、そう、思って。



(離れられるわけが、ない)



 未だ胸を穿ち続ける針の群の痛みに、息を飲む。


 離れられるわけがない。


 放すことができるわけが、ない。



(俺はずっと、あんな風に縛り付けていたのか)



 あの日、自分の眼を抉ろうとした、その瞬間から。

 ぶるぶると左眼が震える。恐ろしくて、悍ましくて。

 あの時、何もかも投げ出して、一人逃げ出そうとした。自分の痛みばかりに夢中で、抱きしめてくれた幼い妹の心を、知らず切り裂いて、血で汚し、縛り付けたことにも気付かずに。

 そして、今…また、逃げ出そうとして。

 いかないで、と幼いルーヴァベルトが泣く。そばにいて、と。



 ―――そのためなら、なんでもするから



 なんでもあげる。


 きれいないしも、おいしいあめも、ふかふかのふとんも―――わたしの、すべてをあげるから。



 不意に、記憶の向こう側でルーヴァベルトが言った。ペパーミントグリーンのドレスに身を包み、いつも通り不機嫌な表情で、分厚い本を手に青緑の革表紙をめくっていた。

 全然読めない、と苦笑いで小首を傾げる。



 ―――でも、兄貴には、宝なんだろ



 そう言って、彼女は、エヴァラントを赦した。たかが本一冊の為に、自分を売り捨てようとした兄を。


 彼女は、赦したのだ。


 泣きたくなった。


 泣くわけにはいかなかった。


 涙で謝罪を口にして、そうしてまた彼女に赦されるつもりか、と心の内で己を罵る。どれだけ愚かなのか、と。


 ルーヴァベルトの傍に居るのは苦しい。

 同時に、歪んだ愉悦を感じていた。自分に縛られている彼女に、狂喜を。



(ごめん…ごめんな)



 俺がいなければ。


 俺さえいなければ。


 未だ、幼い姿のルーヴァベルトが、血に塗れ泣いている。銀の眼球は嗤うように赤を振りまき、彼女を呪っていた。



 エヴァラントはそっと瞼を伏せた。途端、先程まで嵐のように吹き荒れていた様々な感情の声がぴたりと止む。

 代わりに、ルーヴァベルトがごくりと息を飲み込む音が聞こえた。

 まだ、涙は零れているのだろうか。エヴァラントを睨めつけたまま、赤茶の瞳は濡れているのか。

 眼を瞑っているエヴァラントに、それを確かめることは出来ない。

 手足を動かせぬ今、涙を拭ってやることも、抱きしめることも敵わず。無様に転がって、何も言えずにいた。



「ルー」長い沈黙を破り、エヴァラントが呼んだ。優しい、優しい声で。



「ありがとな」



 目を閉じたまま、口端を持ち上げ、苦く笑んだ。「来てくれて」と続ける。

 返事はなかった。呼吸を整えようとする息遣いだけが、微かに耳へ届く。

 構わず、言った。



「ルーが居てくれて…傍に来てくれて、よかった」



 狡い、そして残酷だと知っていて、エヴァラントはそう告げた。

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