第96話-2

「兄貴が捕まったらどうなる?」



 務めて呼吸を整えつつ、尋ねた。問いかけに、首を横に振る。



「わかりません」


「兄貴がそんなことするわけない」


「わかってますって。 けど、容疑がかかっているなら…完全に無実を証明しない限り釈放はされないか、と」



 ひゅっと息を飲む音が暗がりの中わかった。

 マリーウェザーは目を伏せ、ぐっと拳を握る。相手が次に言い出すであろう言葉は、大方予想ができた。

 果たして彼女が口にした言葉は、思った通りのものだった。



「…兄貴の所に行く」



 さっと踵を返す。肌触りの良い夜着の薄い裾が、花弁のように翻る。

 慌てて彼女の腕を引いた。



「待ってくださいって! どうやって行くんですか!」


「どうにかする」


「そんな…」


「兄貴はやってない。兄貴を逃がす」


「でも」


「兄貴は左眼が見えてない」



 淡々と、けれど吐き捨てる様に放った言葉に、マリーウェザーが息を飲んだ。

 言葉を確かめるように、ゆっくりと眼を瞬かせる。眉を潜めたメイドを、ルーヴァベルトが振り返った。



「一人じゃ逃げられない」と。



「だから、私が、助ける」



 何で、と顔色を白くした相手に、少女は下唇を噛んだ。苦い顔で、けれど、ぽつりぽつり、話し出す。

 エヴァラントが自分で左眼を抉ろうとしたのだ、と。



「理由は…知らない。私はまだ幼くて、血まみれの姿に…怯えるしかできなかったから」



 けれど、今も瞼の裏にこびり付いて剥がれない。あの日の、兄の姿。


 泣いているのか、嗤っているのか。


 身を仰け反らせ、奇声を発するその顔は、赤く、赤く、ぬるりと黒かった。


 恐ろしくて、悍ましくて―――そのまま崩れ消え失せてしまいそうな兄の様子に、悲鳴をあげながら飛びついた。いかないでくれ、いかないでくれ、どうかひとりにしないでくれ、と。


 両親がいなくなって、すぐの話だ。


 ルーヴァベルトは五歳だった。ばあやは泣いていた。ルーヴァベルトも泣いていた。正直、その辺りの記憶は定かではない。



「辛うじて目玉は潰れなかった…けど、視力は失って。薄ら影くらいは感じるらしいけど、ほぼ見えていないはずだ」



 思い出す度、ぞっとする。


 あの時、兄は、死ぬつもりだった。


 腕を掴むマリーウェザーの手を乱暴に振り払うと、私物の入った長箱に飛びついた。蓋を開け、中から履き潰したブーツや褪せたズボンを引っ張り出す。



「ルー様!」


「うっさい」



 夜着のボタンを外し、さっさと着替えはじめたルーヴァベルトの傍に、慌ててメイドがしゃがみ込んだ。



「待ってくださいって」


「兄貴の所へ行く」


「行くって…何処にいるかわかんないでしょ」


「探す。放っといてくれ」


「できないから、ここに居るんでしょうが!」



 無視して下着姿になった彼女に、マリーウェザーは一瞬眼を剥いて、すぐに俯きため息をついた。



「私も行きますから」そう、言った。



「馬を連れてきます。裏の使用人出入口から行きましょう」



 ぴたりと手を止め、ルーヴァベルトが相手を見やる。赤茶の双眸を、顔あげた小粒なヘーゼルグリーンの瞳が見返した。

 ふっと表情を歪め、笑んだ。



「乗りかかった船ですから」



 立ち上がると、黒いお仕着せの裾を軽く払い、扉へ向かって小走りに向かう。



「着替えたら、ばあやさんの部屋まで来て下さい。あそこの裏口から外に出ます。この時間ですが、王太子殿下の件で、起きている人間も多い。決して見つからぬよう気をつけてください」



 小声でそう告げると、音もなく扉を開き、するりと廊下へ消えていった。

 唖然とその背中を見送ったルーヴァベルトは、しばし瞠目した後、手早く衣服を整えた。ブーツの紐をしっかりと締め、一つに結んだ黒髪を、キャスケットの中に押し込んだ。

 箱の中に手をやり、木製の箱を取り出す。中に納められた銀の簪を手に取ると、徐に立ち上がった。

 滑る様にベッド脇のサイドテーブルへ近づく。そこに置かれた花瓶を持ち上げると、ゆっくりと視線を窓辺へと向けた。

  

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