第95話

 ランティスは怒りを抑え、エヴァラントの研究室へ急いだ。

 夜半過ぎ、既に夜の帳は世界を覆い、研究機関の廊下の灯りも落ちてしまっている。仄かに点々と灯された蝋燭の光は、闇に圧され心もとない。

 このような時間に供も連れず、と普段のジーニアスであれば苦言を呈しただろう。が、今夜は違う。事が事だけに、余計な人員を無駄に省くわけにはいかなかったからだ。

 馬車もつけず、一人馬に跨り駆け出したランティスを、「自分の身位自分で守れ」と言外に告げる様に、執事は黙って見送った。

 カツカツと硬質な音が響く。

 生ぬるい空気が肌を撫ぜた。頭には血が上って熱い。身体の内で、自身の鼓動がやけに大きく聞こえた。


 兄である王太子に毒が盛られた…数刻前の話である。


 夕食に交ぜられたのだろう。食後、人知れず意識を失ったという兄は、今も目を覚まさない。辛うじて息はあるらしいが、それがいつまで持つかも不明だった。

 大事にならぬよう、秘密裏に侍医が呼ばれた結果、未だ使われた毒の特定はできていない。ただ眠っているかのようにみえる王太子は、脈も呼吸も正常であると、老医は難しい顔をしているらしい。

 王太子の状況と、兄が倒れると同時に捕えられた二人の毒見係の証言も、ランティスの元へ届けられたのが少し前の話だ。

 王印の封蝋がされた封書。その内容を見るや否や、ランティスは屋敷を飛び出した。そうして今、研究機関に…エヴァラントの研究室へ向かっているのである。



 ―――巻き込まれたのだ、と。



(くっそ!)



 何度目かもわからぬ舌打ちをし、はやる気持ちをそのままに駆け出した。



「銀の眼をした男がやってきて、気付けば王太子が毒に苦しんでいた」と、毒見係は、証言したと言う。

 そんなわけがあるか、と書簡を破り捨てかけた。代わりにぐちゃぐちゃに丸め、床へ投げ捨てたが。



 ―――「銀の眼」。それを持つ男を、ランティスは知っている。自分と同じ、伝え謳われる「眼」を持つ男、を。



(よりによって、エヴァラントが毒を盛るわけねぇだろうが!)



 脳裏に浮かぶは、緩く笑うボサボサ頭の瓶底眼鏡。それが、たった一つの大事なものを護るための盾だと知ったのは、ランティスがルーヴァベルトを知ったからだった。

 そんな婚約者殿の兄は、今夜も屋敷には戻っていない。彼が一体何の研究をしているのか詳しいところは知らないが、ここの所ずっと職場に詰めていた。

 乱暴な足取りで辿りついた研究室の扉を、乱暴に押した。鍵がかかっているかなど考えもせずに開かれた扉は、幸い鍵はかけられておらず、勢いのよい音と共に開かれた。



「エヴァッ…!」



 怒鳴る様に呼びながら飛び込んだ室内。そこで寛ぐ人影に、ランティスは眉を顰めた。

 エヴァラントはいなかった。

 ボサボサな頭も、瓶底眼鏡も、何処にも影容は無く。

 代わりに椅子に腰かけていたのは…さらりとした黒髪の、青年。

 空を思わせる碧眼をにんまりと三日月に、彼はことりと首を傾げて見せた。



「やぁ、今晩は。王子様ぁ」



 眠たげな垂れ目が一つ瞬く。笑みを作っていたが、その双眸は真逆だ。

 灰青を見開き顔を顰めたランティスに、もう一人、彼と同じ顔をした青年が嗤う。



「エヴァなら、留守だよ」



 くっくと喉を鳴らし、黒縁の眼鏡越しに赤髪の男を見上げた。ソファの膝掛に腰を降ろし、片割れと同じように首を傾げている。

 思案げに瞠目したランティスは、低く二人を呼んだ。「グリード兄弟」

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