第94話-2
やけに親しげだった男。
わざわざ駆け寄って、柔い口調で話して。背を向けていたため見えなかったが、あの時、彼女は微笑んだはずだ。きっと、絶対。
…その男が贈った飾りが、今、黒髪に触れている。
ざわり、と背筋に怖気が走った。這い上がる感情は、怒りを孕む。目の前が、真っ赤に染まる気がした。
気づけばルーヴァベルトの腕を掴んでいた。力いっぱい引き寄せ、そのまま廊下の壁へ押しつける。少女の顔が歪んだのは、加減のなく込められた力のせいだったが、赤髪の男はそれに気づかない。
「渡せ」耳元に唇を寄せ、低く、囁く。
「それを、渡せ」
何故未だソムニウムの人間とつながっているのか。
何故あの男がここにいるのか。
どれ程親しいの、か。
尋ねたいことが山ほどある。が、今はただ、嫉妬で頭が焼ききれそうだ。
怒りで、視界が、霞む。
反して、見開いた灰青の双眸に、得体のしれない力が籠っていく。どす黒い感情が、腹の奥底で鎌首を擡げたのがわかった。
押しつけられた背と掴まれた腕に痛みを感じながらも、気丈にルーヴァベルトは男を睨めつけた。赤茶の眦を吊り上げ、歯を食いしばる。
「嫌」
たった一言、けれどもはっきりと口にした。
ランティスは怒っているのだとわかった。けれど、その表情は、視線は、感情がごっそりと削げ落ちており、作り物のように見える。人ではない何かが、自分の中を覗き込もうとしているように感じられた。
綺麗に整った男の顔が間近に迫る。灰に似た青は、透き通った硝子玉のようだった。近づく程に、数多の色を孕んで見えた。
美しい瞳。
澄んだ空気の中、夜と朝が混じり合う天の、滲む空を閉じ込めたよう。
見つめ続ければ、見えぬ何かに絡め取られて、奪われてしまう気がした。美しさが、透明さが、恐ろしい。
首筋が泡立つのを感じた。抗うようにきつく瞼を閉じた。
同時に、力いっぱい頭を前に突き出す。
ガツッ、と勢いのある音と共に「いだっ!」とランティスが悲鳴をあげた。ルーヴァベルトの腕は離さぬまま、もう一方の手で顎を押さえた。
「おまっ…! ふざけんなよ!」
「それはこっちの台詞だ!」
同じく額を押さえつつ、少女も声を荒げた。
「さっきから何なんだ! 勝手なことばっか言いやがって!」
「勝手…て、お前が…っ!」
「何で簪を渡さなきゃならんのだ! 絶対に嫌だ!」
「このッ…!」
尚も怒鳴りつけようとしたランティスだったが、負けじと睨み付けてくる相手の視線に、ぐっと唇を引き結んだ。堪える様に歯を食いしばり、眼を逸らす。
「俺は…」くぐもった声が漏れた。けれど、言葉にはならなかった。
ぎゅっと硬く眼を瞑った王弟殿下は、やがて力なく吐き出す。
「…お前は、俺の、婚約者だ」
今更何を…そう口を突いて出そうな罵りを、何とか飲み込んだ。
拳で額を押さえ、男が項垂れる。おかげで表情は伺えない。まとめて撫でつけていた赤髪が、僅かに乱れ額に落ちていた。
「俺は、お前が好きだと…言ったはずだ」
「…ッ」
「俺は、お前が好きだ」
噛みしめるように声に出す。
「お前が…好きなんだ」
ルーヴァベルトを想うと、愛しくて、苦しくて、切なくて、狂おしく…憎い。
(だってお前は、俺を)
心の内に浮かんだ言葉は、自分で自分を切り裂いた。
自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。情けない気持ちになる。腹の底でとぐろを巻いた黒い感情が、ゆっくりと萎んで行くのがわかった。
ルーヴァベルトは、自分の事を好きじゃない。
嫌いじゃない。けれど、好きではないのだ。
だから。
「お前が、お前の好きなものを身につけるのは、自由だ」
本当なら、傍に在るもの全てをランティスで飾りたい。そんな幼稚な夢を見る程に、自分は狭量なのだと思い知る。
けれど、そんなこと、言えるはずもない。
何もかも奪って、首を絞めて、息を止めてしまいたいわけじゃないのだ。
だから、せめて。
「俺の前でだけは、特別な誰かのものを、傍に、置くな」
寛容でありたい。
寛容でありたい。
狂気でお前の全てを奪いたくはないから。
「頼む」
情けなく擦れた声は、揺らぐ灯りに溶けて、消えた。
―――王太子殿下が毒を含んだとの知らせが届けられるのは、翌々夜の話である。
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