第94話

 ランティスは舞い上がっていた。

 薄明りの廊下、足音を殺し進みつつ、思わずにやける口元をさりげなく手で隠した。並び歩く婚約者殿に、こんな緩みきった表情を悟られたくないからだ。

 頭の中で、先程の彼女の言葉が反復する。



 ―――嫌いだと、返答しない程度には



 素っ気ない台詞。

 十分だった。今は。

 嫌われていないと、そう言葉にされただけで浮足立つ。ルーヴァベルトは、嘘でもそういう言葉を口にする性質ではない、と思っている。だからきっと、その言葉は本当。

 好きだと言われたわけではなかった。

 けれど、嫌われていないのであれば、好かれる可能性がある、ということだ。



(…ふっふ…)



 漏れそうになる忍び笑いを、咳払いで誤魔化す。

 誰かに言いたくて仕方なかった。屋敷に戻ったら、ジーニアスを自室に呼ぼうと思う。この喜びを口にしたい。灰髪の乳兄弟は面倒くさそうに冷たい事を言うだろうが、今夜は平気だ。

 ふと、脳裏に公娼街の楼主の女の影が過った。正確には主ではないが、あの店を取り仕切っているのは実質彼女であるから、間違った認識ではないだろう。

 ヒグマの身体に蛇の眼をした、厚化粧の女…マダム・フルール。



「一つ、祝いに教えてやろう」と、記憶の中から煙草の香りがくゆる。



 ―――お前さん、随分でっかい怒りを買ったよ



 手の打ち方を間違えた、と。

 扱い辛さに苦しめ、と。

 毒を染ませて呪を吐いた女。


 実際、彼女の言う通りだった。ルーヴァベルトは酷く怒り、暫くの間はっきりと拒絶を露わにしていたから。

 それに対して巻き返しができたのだ、と思うと、また顔がにやけた。よく考えてみれば、こんなにも手をかけて機嫌を取った女は初めてだった。それどころか、視線一つで一喜一憂して。


 落ちて、溺れて、息が、苦しい。


 ランティスの頬がほんのりと赤く染まる。喜びと、気恥ずかしさと、その他諸々の感情が入り混じって、顔が熱かった。



 ちらと隣へ視線を投げた。

 既に表情を消した婚約者殿は、ランティスに歩調を合わせ早足に歩く。裸足の彼女へ再度抱き上げることを提案したが、固辞された。少しだけ残念に思う。

 廊下には点々とか細い灯りが置かれている。幸いなことに人気は無く、使用人の一人も鉢合わせずにいた。ここも随分広い屋敷であるが、主一人しか住んでいないため、使っていない部分も多いのだろう。

 薄明りの中、ルーヴァベルトの黒髪が艶めいて見えた。少し乱れているが、彼女は一向に気にする様子が無い。

 その髪に、銀色の簪。ぬるりと生々しい質感で、蝋燭の光を反射する。



「なぁ」と、徐にランティスが口を開いた。



「それ、どうした」



 問いかけに、ルーヴァベルトが顔を上げた。猫目がぱちりと瞬いて、怪訝げに眉を顰める。

 何を言われているのかわからない、といった顔に、改めて尋ねた。



「その簪、だ。お前、そんなの持っていたか?」



 自分が贈ったものだろうか。全てを覚えているわけではないが、この簪は違う気がした。自分の趣味ではない。

 すると彼女は俄かに表情を歪め、視線を逸らした。

 何となしに嫌な予感がして、名を呼んだ。



「ルーヴァベルト」



 むっつりと唇を引き結んだ少女は、やがて観念した様子で返した。



「…貰った」


「貰った? 誰にだ」


「…」


「ルーヴァベルト」



 かつり、と踵を鳴らし、足を止めた。一歩先で、彼女も立ち止まる。

 振り返った少女を、灰青の双眸がきつく見据える。居心地悪げに一度は視線を逸らしたものの、深い溜息を吐き、徐に口を開いた。



「先生に、貰ったんです」


「先生?」


「さっきの人。ソムニウムで一緒に仕事してて、身体の使い方を一通り教えてくれた恩師」



 脳裏に、不精髭の男の姿が浮かぶ。

 あいつか…思うと同時に、さぁと血の気が失せるのを感じた。全身の血液が、下へ落ちてゆくように。

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