第93話-2
「とにかく、屋敷へ戻る。ハルはそいつらと、見つからんように帰れ」
「はい」
「アンリ、ユーリ、頼む」
「わかった」
「任せて」
ぐるりと全員を見回し、灰青の双眸が、顔色の悪い青年で止まる。ひたと向けられた眼差しに、アーベルの肩がびくりと跳ねた。
「アーベル」硬質な声が、低く、呼んだ。
青年の顔色が、更に青くなる。暗がりだと言うのに、肌が真っ白に浮き立って見えた。背筋を正した身体が、僅かに震えていた。
婚約者殿の手を取り、そこで初めて、ランティスがにっと口元に孤を描いた。
「助かった」
「え」
驚いたように、アーベルの碧眼が見開かれる。
彼の脇を、ルーヴァベルトを連れすり抜けながら、王弟殿下が言った。
「お前が知らせてくれねば、すぐに対応できなかった。ありがとう」
すれ違いざま、流すように向けられた灰青の双眸に、怒りや落胆は、どこにもなかった。いつも通りの、余裕ぶった表情。それに、アーベルは全身から力が抜けるのを感じた。
その場にへたり込んだ青年に、「ちょっと!」とアンリが駆け寄る。マリシュカは驚いた様子で口元に手をやり、ユーリは吹き出し笑った。
と、その時。
「べ、ベルッ!」
字名を呼ばれ、ルーヴァベルトが振り返った。つられ、ランティスも足を止める。
慌てた様子のエーサンが、自分の懐に手を突っ込んだ。拍子に抱えていた男が一人、地面へ落ちる。臙脂の夜会服の男だ。ぐえっと潰れた声が漏れた。
気にせず取り出したものに、少女の双眸が大きく見開かれた。同時に、自分の肩を抱く王弟殿下の手を払いのけ、不精髭の男の元へと駆けだした。
黒髪が薄明りの中で揺れて行く。あっという間に腕の中からすり抜けた少女を捕まえようと伸ばされた手は、何も掴めず空しく宙を掻いた。
「それ!」
エーサンの手の中のそれに、ルーヴァベルトが声をあげた。
―――銀の、花の簪。花弁の端は、ほんのりと紅に色づく。
ぱっと男の顔を見上げた赤茶の視線に、エーサンは少し照れた様子で顔を綻ばせた。
「こいつが、持ってた…から」
そう言って、ルーヴァベルトに手渡した。
銀の、僅かにひやりと冷たい感触が肌に滲む。しっかりと握りしめ、祈る様に額に押し当てた。細く息を吐く。
改めて顔を上げたルーヴァベルトは、ふわり、顔に、笑みを浮かべる。
「ありがとう、先生」
言葉も声も、驚く程に、柔く。
更に照れたエーサンが、もじもじと身を捩った。その足元で臙脂の夜会服男が身じろいだが、しっかりと踏みつけるのを忘れない。
他の面々は驚愕に眼を瞠った。ハルだけは怯える様にちらちらと主の方を盗み見ている。視界の隅で、赤髪の男が、どんな顔をしているのかが恐ろしいようだった。
頭を一つ下げ、ルーヴァベルトは踵を返した。何事もなかったかのように、無表情にランティスの傍へ戻る。
渋面の王弟殿下は、黙ったまま彼女の向こう…不精髭の男を睨めつけていた。
相手もまた、むうと唇を引き結び、視線を返す。夜の暗さと前髪の長さで男の感情は窺い知れない。けれど、その中に僅かな敵意を見た気がした。
ルーヴァベルトがユリウスの傍をすり抜ける。
瞬間、つと彼を見上げた。
密やかに硬質な視線を彼女へ向けていたユリウスは、ぎょっと顔を顰めた。慌てて愛想笑いを上辺に貼りつけると、「何?」と首を傾げて見せる。
「先程のお話ですが」
脈略なく、唐突にルーヴァベルトが切り出した。
「私には、私の意図のがあります」
「は?」
怪訝に、けれど顔には笑みを浮かべたまま、双眸を瞬かせる。
「だから、私は私のやり方で、あの人を護ります」
はっきりと彼女は宣言する。
男は表情を変えぬまま、けれど瞳は探る様に相手を覗き込んでいた。緑がかった綺麗な碧眼。どこか、見覚えがある気がした。
「弱みになるなど、御免ですので」
綺麗な礼をし、踵を返すルーヴァベルト。その背に向かって、ユリウスがもう一度、まるで軽口のように声を投げた。「ねぇ」と。
「ランの事、好き?」
彼女は振り向かなかった。軽やかな足取りで、王弟殿下の隣に並ぶ。真っ直ぐに前を見やると、庭園に面した薄暗い廊下が、庭と平行に長く伸びていた。
瞠目し、口を開く。
「嫌いだと、返答しない程度には」
手にした簪を、無造作に、結い上げた髪に差した。
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