第81話
大荷物を抱えたファーファル兄妹が、ジーニアスの案内と共に屋敷を後にするのを見送ったランティスは、あっと声を上げた。
気づけば、ボサボサ頭の姿がどこにもない。どさくさに紛れて逃げ出したらしい。
「あの野郎…」
急ぎ追いかけようとした男の上着の裾が、ツンと引かれた。
「いい」そう首を横に振ったのは、婚約者殿。一つに纏めた黒髪が、馬の尾に似てゆっくりと揺れた。
振り返った赤髪は、しばし固まる。というのも、ルーヴァベルトから自分に触れてきたのが初めてであったからだ。例え、服であったとしても。
存外、胸が大きく跳ねたことに驚いた。上着の、しかもほんの裾を引かれただけ。たったそれだけで、こんなにも胸がかき乱される。
本当に、どこの初心なガキだ…と心の内で悪態をついた。いつもいつも、彼女といる時の自分は、初めて感じることばかりだ。まるで世界をやり直すかのように。
嫌ではない。
少し、むず痒いけれど。
己を落ちつけるように、ゆっくりと眼を瞬かせ、細く息を吐く。それから、改めて婚約者殿へ眼を向けた。
耐える様に、唇を引き結んでいる。代わりに猫眼は見開かれ、宙をじっと睨めつけていた。表情は、硬い。
思わず、自己嫌悪する。
(…喜ぶなよ、俺…)
片手で口元を抑えた。喜色に歪む顔を、決して悟られるわけにはいかない。
彼女は気づいたのだろう。兄が、自分を避けていると。逃げ回って逃げ回って、そして今も逃げ出した。
気づいてしまった。
気づかせたのは…ランティスだ。
灰青の双眸をすいと細め、目の前の少女を見つめた。強張った表情の下に、薄らと傷ついた心が透けて見える気がした。
ルーヴァベルトにとってエヴァラントがどんな存在か、どれだけ重く心を占めるか、ランティスは知っている。彼女の生い立ちや、たった二人の兄妹であることを思えば、想像は容易だ。
だからこそ、最初から兄を利用した。
そして今も、利用している。
―――それはお互い様であるけれど。
ランティスとエヴァラント、二人の思惑が合致したおかげで、今、ルーヴァベルトはランティスに弱みを見せている。
本人は気づいていないのだろう。彼女が故意に己を出すとは思えない。数か月前の婚約者殿であれば、きっと顔に無表情を貼付け、何でもないふりをするはずだ。
ほんの少し、それは僅かな距離ではあるが、けれど確実に近づいている。
それに顔が緩む。同時に、苦くも思う。これは、ルーヴァベルトに痛みを伴う心の変化である故に。
エヴァランに逃げ出され、ぽっかり空いた心の穴。そこに付け入っている自覚があった。
(わかっちゃいる、が)
腰に手をやり、息をつく。やっと、ルーヴァベルトが視線を王弟殿下へと向けた。
目が合うと、男は苦笑いを浮かべる。
「…望むなら、もう一度、捕まえて来てやるぞ」
赤茶の瞳が僅かに揺れ…ゆっくりと首を横に振った。それに、「そうか」とだけ返した。
未だルーヴァベルトは軍服の裾を握っている。上背のあるランティスからは、伏せ眼がちに見える表情は心細げで、ぞわりと肌が泡立つのを感じた。
愛おしい、という心が、溢れそうになる。
意図せず、手を伸ばしていた。少女の頤を、ついと持ち上げる。驚きにまん丸く見開かれた猫眼へ、甘く、囁いた。
「お前はもっと、甘えていい」
低く柔く、耳朶をなぞる声。冷たい指先が首筋を撫ぜた気がして、ルーヴァベルトは眉を寄せた。
「な、に…」
「ここで…俺の傍で、大人でいる必要はない」
硝子玉に似た灰青の一対。
きらりと光るどろりと濃い瞳が、じいとルーヴァベルトを覗き込んでいる。いつの間にかそこから感情がごっそり抜け落ちており、ただ無機質に少女の姿を映し込んでいた。
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