第46話
昼食後、自室に戻ったルーヴァベルトは、私物入れの側に座り込んだ。
鍵も何もついていない簡素な箱の蓋を押し上げる。中には、ヨハネダルクの家から持ってきた品が細々と納められていた。
とは言うものの、品数自体は多くない。嵩張っているのは、靴や数枚の服。特に衣服に関しては、今後着ることはないだろうけれど、いざ手放すかと考えた時にどうにも決心がつかず、結局箱の中に押し込んでいる状態だった。
そんな私物入れの一番上に置かれているのは、真新しい無垢の箱。長方形のそれを手に取ると、そっと開けた。
中には…銀細工の、簪。
しばらくの間、花の細工を見つめていたが、結局中身を取り出すこともなく、蓋を閉める。元通りに荷物の一番上に置くと、私物入れの蓋を閉めた。
屋敷を抜け出すように一人庭に出たルーヴァベルトは、目的もなくふらふらと散策を始めた。
本来であれば、もうすぐ午後のレッスンの時間だ。ダンスと礼儀作法の修学だが、午前中に講師であるジーニアスから時間を遅らせて欲しいと申し出があった。急な用事ができたらしい。
思いがけず自由な時間ができて、ルーヴァベルトとしては願ったり叶ったりである。が、それを顔に出さず、神妙な顔で「はい」と返事をした。
果たして手に入れた自由時間をどう使おうか、と考えた時、頭に浮かんだのは、兄の顔だった。最近、まともに話ができていない。先日、部屋に忍んで行って以来、何となく話ずらく感じていた。
しかし、話をしようにも、日中は仕事で出払っており、屋敷にはいない。
では、ばあやと…とも思ったが、結局やめた。今の時間であれば、また昼寝の最中だろうから。
そうして思いだしたのが、庭師の少年だった。
自分に代わり、ソムニウムで師の手伝いをしているらしい彼に、最近の店の様子を聞こう…そう思ったのだ。
とは言え、ハルがどこにいるかなど、知らない。まぁ、庭師なのだから庭にいるだろうと、安易な気持ちで中庭に来たわけだ。
相変わらず見事に花が乱れる様子が眩しくて、赤茶の双眸を細めた。蒼天を瑞々しい葉っぱが映し、輝いて見える。
皆で花を見よう…そうエヴァラントと約束したが、未だ果たされてはいない。その内に、盛りの短い牡丹の花弁は散ってしまっていた。今は、深い緑の大ぶりな葉だけが、涼し気に揺れている。
綺麗な場所、なのに。
立ち止まり、ぐるりと辺りを見回す。いくらか花は変わっても、変わらず「綺麗」な庭。
けれど。
(何だか…えらく淋しい気がする…)
晴れた空は抜けるように青く、風は心地よく肌を掠めてゆく。花の匂いは柔い。
あの日と、同じ情景。
なのに、酷く物悲しい気持ちになった。
一体、何が違うと言うのか。
思案気に赤茶の猫目を細めたルーヴァベルトは、思い当って「あ」と声を漏らした。
―――あの日と、違うもの。
(…いや、そんな)
脳裏を掠めた姿に、緩く頭を振った。
まさか、そんな。
あの日、中庭に一緒に立っていた相手が記憶に蘇る。
天の青さに浮き立つ、燃ゆる赤髪。
絡めた、指。
途端、頭の後ろがカッと熱くなるのを感じた。振り払うように頬を軽く叩いた。
まさか、ありえない。
(…淋しい、なんて)
そんなことは、決して。
心の内で自分に言い聞かせるが、それ程にはっきりと頭の中には男の姿が浮かぶ。声が、耳朶をなぞった。
―――好きだ
「あほか!」
思わず大きな声を上げた、
自分の額を拳で小突き、頭の中片残像を追い出そうとする。ぎゅっと瞑った瞼の裏側に、自分を覗き込む灰青の双眸が浮かんで…唇を噛んだ。
好きじゃない。
ルーヴァベルトは、あの赤髪の、灰青の瞳の、王の弟君を、好きなんかじゃない。
好きじゃない…けれど。
「何だ…これ」
すまんな、と囁く低い声が、酷く甘く首筋を泡立てた。
―――それでもやっぱり、俺はお前を、手放してはやれない
乞うような、瞳で。
それに重なるように、もう一人の姿を思い出す。欠けた月の下で久方ぶりに顔を合わせた、恩師の言葉を。
彼の、柔い声を。
―――永久にお前を害するものを失せる様に、我が名を持って言祝ごう。向かう先が、例え、どのような道であったとしても
渡された簪。
ぎんいろの、その輝きは、鈍くルーヴァベルトの心を穿った。
両手で顔を覆い、深く息を吐いた。同じ程深く息を吸い込むと、咽るような花の香りが肺を満たす。
苦しい、と思った。
その苦しさの理由を…まだ、わからずにいる。
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