第33話

 思わず、ノックする手が止まる。



「…き…で…」



 扉の向こう、室内から漏れ聞こえた言葉に、ランティスは頭をガツンと殴られた気がした。


 棒立ちのまま、目の前の戸板を見つめる。ノックしようと握った拳は、時間を止めた様に固まっていた。



 ルーヴァベルトを探し、部屋の前までやってきたのが、今しがたの話。

 鬼のように積まれた仕事を片付け、尚も書類を積み上げようとする部下を跳ね除けもぎ取った久々の休暇。前々から過ごし方を決めていたランティスは、その一環として、全く距離を縮められていない婚約者殿を誘いに来たのである。

 部屋へ行けばメイドが一人仕事をしており、彼女の姿はない。ルーヴァベルトの乳母の部屋ではないかとミモザが言うので、ここにこうして足を運んだ次第である。


 中からは楽しげな話し声が漏れ響く。一人はルーヴァベルトとすると…もう一人は、マリーウェザーだろう。ストロベリーブロンドを太い三つ編みにした乳母付のメイドは、明るく人懐っこい性質だ。年齢が近い事だし、思った通り、二人は仲良くなったらしい。



「でも、旦那様からアプローチはあるんじゃないですか? 二人っきりになったら甘い雰囲気…みたいな」


「えー…私がまだ子供だから、様子見してるんじゃないですかねぇ」


「あの旦那様が、そんくらいで自制心働かせるはずないじゃないっすか!」



 何て話をしているのだ、あのメイドは。

 そう思いつつも、思惑通りに事が運んだとにんまりした。



「ルー様は? 旦那様の事、どう思ってるんです?」



 盗み聞きも悪いか、と、扉をノックしようとした、その矢先―――。



「…好きですぅ」



 ルーヴァベルトの、声、だった。


 一瞬、息が止まった。勢いで吸いこんだ空気が、喉の奥で溜まっている感覚がした。

 握ったままの拳を見つめる。耳から飛び込んできた声が、言葉が、頭の中に沁み込んで…理解するのに一拍かかった。



(…ん?)



 目をぱちくりと瞬かせ、ゆっくりと思考する。聞こえた言葉は…ルーヴァベルトは、何と言った?

 



 ―――好き

 



 瞬間、灰青の双眸を見開いた。同時に口元を手で押さえる。

 そうしなければ、声が零れ落ちてしまうのがわかった。

 背中から何かが這い上がり、首の後ろを伝って、後頭部を熱くする。火がついたように燃える熱に、視界が揺れた。


 顔が、火照る。



(え、あ?)



 自分でもわけがわからず動揺した。何だこれ、と頭の中がぐるぐるする。とにかく熱い。

 その間も、ずっと耳の奥で声が繰り返されていた。婚約者殿の、言葉、が。

 たった一言だった。何でもない言葉。

 嘘だろ、とくぐもる声で呟く。



(こんな…ガキかよ…)



 頭の片隅に残る理性が囁いた。そんなうまい話があるか、と。


「好き」と彼女の声が言った。

 それが本心ではない、とどこかで分かっている。初日で、ルーヴァベルトが自分に抱いた感情が最悪なものだと理解していた。残念なことに、今日に至るまで挽回などしていない。

 だとすればきっと、先程の言葉は、マリーウェザーと話を合わせただけ。それか、ランティスの立場を慮ったのかもしれない。

 そんなことわかっている。


 わかっている、けれど―――。


 手で覆った頬が熱かった。多分、顔が赤くなっているのだろう、とわかる。絶対誰にも見られたくない。



 頭のてっぺんは燃えるようであるのに対し、腹の底は酷く冷えていた。ランティスの奥にたまった黒いものが、どろりと音をたて、まるで嗤うような気配がする。気を許せば溢れ宿主を食らい尽くそうとするそれが、己の抱える暗い欲求なのだと、赤髪の男は知っていた。

 暗く、黒い、我儘な欲望。抑えつけるのをやめれば、途端、矛先を彼の娘へと、襲い掛かることだろう。


 引き裂きたい程に勝手な、愛、を叫びながら。


 きっとそれは、溺れる程心地よいに違いない。代償に、腕に抱いた彼女を壊すだろうが。

 心臓の音が、酷く大きく聞こえた。まるで、欲望と欲求が甘言を囁く歌のよう。

 くらくらと脳が揺れ、灰青の双眸がじくりと痛む。


 ああくそ、と呟き、その場に座り込んだ。その時。



「だ、旦那様?」



 気遣わしげな声に、はっと顔を上げた。

 見上げた先にいたのは、白いコック服を着た中年の男。料理長のズクだ。

 彼は脱いだコック帽を手に、心配そうにランティスを見やる。なんでここに、と疑問を口にする前に、部屋の隣が厨房であったことを思い出した。彼の仕事場だ。


 真っ赤な顔で蹲っている主を気遣い、おずおずと様子を伺う。



「気分が悪くいらっしゃるのですか?」


「い…や…」



 言葉に詰まり、いやいやと首を横に振った。頭の隅で冷静な自分が「馬鹿みたいだな」と冷笑する。おかしくなって、笑うように顔を歪めた。

 けれど、親切な料理長は、心底心配してくれている。



「あの、誰か呼びますか?」


「いや! それはいい!」



 これ以上誰かにこの醜態を見られたら堪らないと、慌てて立ち上がった。勢いがつきすぎて、少しだけふらついた。笑って誤魔化すと、更にズクは心配そうな顔をする。

 情けなくて逃げ出したくなった。顔もまだ、熱いままだった。

 赤髪の頭を乱暴にかきながら、ズクへ言った。



「心配させて悪いな。ついでに頼みがある」


「何でしょう」


「部屋に、俺の婚約者殿がいる。彼女に応接に来るよう伝えてくれるか」



 是と頭を垂れた彼に一つ頷いて見せると、くるりと踵を返す。途端、恥ずかしさに顔をひきつらせたランティスは、逃げるように元来た道を歩き出した。

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