第16話-2

 胸倉を掴まれ、ぐいと引き起こされる。顔を覗き込んできた相手に、思わずエヴァラントは引きつった笑みを浮かべて見せた。



「る、ルー…」


「歯ぁ食いしばれよ、兄貴」



 言うや否や、綺麗なドレスに身を包んだルーヴァベルトは、大きく片手を振り上げる。ひゅっと空気を切り裂くを落とさせ、彼女の平手が、胸倉を掴んだ兄の、もう一方の頬を力いっぱい打った。



「…っつっ!」



 衝動に首がぐりんと捻り、耳の奥がじーんと鳴った。打たれた頬はもちろんの事、痛む口内で鈍い鉄の味がする。

 胸倉を掴んでいた手を放すと、エヴァラントは床に崩れ落ちた。俯いた顔を両手で多い、呻き声を上げながら机へ這ってゆく。手探りで卓上の眼鏡を探し当てると、鼻をすすりながらそれをかけた。



「くそ馬鹿兄貴」凍えた響きで、ルーヴァベルトが呼んだ。



「これでチャラにしてやる。有難く思え」


「う…ありが、と…」



 赤くなった両頬を抑えたまま、瓶底眼鏡の男は、ふにゃりと微笑んで見せた。


 見上げた先、最愛の妹は、始めてみる装いをしていた。

 濃紺のドレスに、薄く施された化粧。長い黒髪は緩く編み込まれ、白い玉で飾れられている。自分のぼさぼさの黒髪とは違い、この薄明りの中でさえ、艶やかに黒光りして見えた。



 思わず、薄笑ってしまう。


 同時に、鼻血がたらり、と垂れた。



 令嬢らしい化粧顔が顰められ、小さく舌打ちが聞こえた。何かを探る様に自分のドレスを触っていたルーヴァベルトの後ろから、涼やかな声がした。



「ルーヴァベルト様。こちらを」



 他に人がいたことに初めて気づき、エヴァラントはそちらへ視線を向けた。


 黒いお仕着せに白い前掛けをしたメイドが二人、妹の後ろに見える。

 一人はブルネットの髪をした、綺麗な顔の女性。ルーヴァベルトにハンカチを差し出した表情はつるりと硬い。エヴァラントと目が合うと、焦げ茶の双眸をすうと細めた。

 もう一人は扉の前で棒立ちになっている。ストロベリーブロンドを左右で三つ編みにした痩せたメイド。ぎょろりと大きい白目に小粒な瞳が印象的だった。口をあんぐりと、眼をぱちぱちさせていた。



「ああ、ありがとうございます。ミモザさん」



 ミモザと呼ばれたメイドは、ハンカチを渡すと一礼し後ろに下がった。


 ルーヴァベルトはその場にしゃがみ込むと、彼女から受け取ったハンカチを兄の顔に押し付けた。乱暴に鼻血を拭う顔は、眉間に皺が寄っている。


 されるがままになりながら、エヴァラントの表情は笑う形に歪んでいた。

 どんな顔をすればいいか、正直判らない。


 二発頬を打たれた。これで終わり、とルーヴァベルトが言った。彼女が、そう決めた。

 だから、もう、この話はこれで終わり。

 これ以上、エヴァラントの言い訳も言い分も思惑も、彼女は受け取らないだろう。自分の中で折り合いをつけてしまったからだ。



 きゅっと胃の上が締め付けられた気がした。


 瓶底眼鏡の奥で、瞳がちりりと痛んだ。




「ほら、後は自分で押さえときなよ」



 ハンカチを押し付けると、ルーヴァベルトは立ち上がった。腰に手をやりエヴァラントを見下ろす。

 ありがとう、と言うと、彼女は口を引き結んだ。ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。



「聞きたいことは、まだあるからな。ちゃんと答えろよ」


「わかってるよ」



 緩慢な動作で立ち上がると、苦笑う。もう一睨みしたルーヴァベルトの目尻には、淡く紅が差されていた。そのせいか少しだけ妹が別人のように見えて。


 ルーヴァベルトは振り返り、後ろに立つ二人へ視線を移す。



「ミモザさん、マリーウェザーさん。兄のエヴァラント。ヨハネダルクです」



 ボサボサ頭に瓶底眼鏡の兄を簡潔に紹介すると、今度はエヴァラントを振り返る。



「兄貴。あちらはメイドのミモザさんとマリーウェザーさん。ミモザさんは私の面倒を見て下さる方で、マリーウェザーさんはばあやの世話をして下さるそう。ご挨拶して」


「あ、そうなの? これはこれは…エヴァラント・ヨハネダルクです。宜しくお願いします」



 ひょろりと背髙な身体を折り曲げ、深々と頭を下げた。メイド二人も綺麗な礼を返す。



「ミモザと申します」


「マリーウェザーと申します。どうぞ、マリーと呼び下さいませ」



 相変わらず表情の乏しいミモザに対し、マリーウェザーはにっと笑みを作る。つられてエヴァラントもにっと笑った。



「仲がよろしいんですのね」



 マリーウェザーの言葉に、ルーヴァベルトがげぇと唸った。エヴァラントは嬉しげに肩を竦めた。それさえ楽しそうに、ヘーゼルグリーンの双眸を細める。



「ルーヴァベルト様」



 不意に、ミモザが口を開いた。手には小さな銀時計を持っている。繋がれた鎖は前掛けのポケットから伸びていた。



「そろそろ夕食の時間ですので、食堂へ移動いたしましょう」



 途端、ルーヴァベルトの腹がぐうと鳴き声を上げ、あからさまに表情を輝かせた彼女に、ミモザは小さく口元に笑みを浮かべる。

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