11『気まずい』


 昇降口で靴を履き替えて階段を上がれば、職員室の脇に出る。

 普段は違う階段から教室へと向かうが、今日は最短ルートのこの道を選んだ。


 ふと、時計を確認すれば八時三〇分を過ぎている。

 あと五分もすれば朝のチャイムが鳴る時間だ。

 俺は急ぎ足で職員室前の廊下を歩いて、二年A組の教室を目指した。


 遅刻ギリギリでこの廊下を通るのはあまり望ましくないが、幸いなことに今は教師の姿はない。

 その隙に通り過ぎてしまおう。

 

 ササッ、サササササッ——。

 忍者のごとき忍び足で駆け抜ける。


 途中、職員室を通り過ぎたとき中から慌ただしい空気が漏れてきた。

 多分、教師陣が授業の準備やらをしているのだろう。


 担任が来る前に教室へ急ごう、とまた少し歩調を上げる。

 このまま真っ直ぐ行って、突き当たりを右に折れればすぐにうちの教室だ。


 さっきは遅刻も覚悟していたが、今日はなんとか間に合いそうだ。

 やがて、突き当たりを右に折れる。

 と、その時だった——。


「ひゃっ!」

「うおっ! びっくりした……」


 角を曲がった瞬間、人とぶつかりそうになって俺は思わず体をらした。

 それは相手も同じく、そのままバランスを崩して抱えていたプリントがちゅうう。

 ひらひら、と散らばる数十枚のプリント。

 それらが床へと落ちた時、俺は慌ててしゃがみ込んだ。


「わ、悪いっ……」


 謝りながら、床に落ちたプリント拾い集める。

 一枚二枚と、拾い上げて、

 そのままあたふたしながらき集めていると、不意に手と手が触れ合ってしまった。


 白くて小さな手。

 細くしなやかな指がぴくりと、止まって、俺は慌ててその手を離す。

 そして、顔を見上げれば。


 そこには見知った顔があった。

 水篠みずしの陽葵ひまり——。

 俺たちはしゃがみながら向かい合った状態で顔を合わせる。


 どうしてこんなところにと疑問に思ったが、

 おそらくは日直にっちょくの仕事なのだろうと、すぐさま納得した。


 ふと気が付けば、水篠がじとーっとした目をこちらへ向けてくる。

 それに、またなにか言いがかりを吹っかけられるんじゃないかと、身構えたが。

 それは杞憂きゆうだったようで、水篠はふいっと顔を逸らした。


 その不自然な様子に小首を傾げ、じーっと視線を向けていると、

 ぽしょり、と小さな声が聞こえる。


「あ、あんまり、こっち見ないで……」

「お、おう……。すまん……」


 恥じらうような反応に、俺も思わず顔を逸らしてしまった。

 お、おかしい……なんだこの反応……。

 いつもなら速攻で突っかかってくるはずが今日は様子がおかしい。

 熱でもあるのか、とそのらしからぬ様子を不思議に思っていると、ふいに思い出す。


 昨日の図書室での出来事を——。

 フローラルの香りがした艶やかな髪、抱き留めたときの柔らかな感触がよみがえると、

 体温が急激に上がったのを自覚した。

 今でもその感触が鮮明に残っている。

 もしかしたら、コイツも昨日のことを思い出してしまったのかもしれない。


 互いに顔を逸らし、気まずい空気が流れる。

 水篠は頬から首筋までを真っ赤にして身をよじった。

 形のいい桜色の唇から吐息が漏れた時、心臓が高く飛び跳ねる。

 いつもとは違う一面に、恥じらうようなそのギャップにせられた。

 思わずごくりと、喉が鳴る。


 俺はそれを誤魔化すように床へ視線を落とすと、再び手を動かした。

 やがて、全てのプリントを回収すると、角を揃えて無言で差し出す。

 すると水篠はそれをひったくって、代わりとばかりにキッと不機嫌な視線を向けてきた。


「昨日のこと、誰かに話したりしたら許さないから……」

「……言わねぇよ」


 具体的にどのことを言っているのかはわからないが、

 おそらくは脚立から落ちた水篠を抱き留めた時のことだろう。

 それかパンツのことか。

 というか、どちらにしても言えるはずがないだろ……。


「思い出すのもダメ……。だからすぐ忘れて……」

「ん、わかった……」 


 言いながらも、そんなもの忘れられるはずもない。

 匂いも感触も、下着の色だって。

 きっと、今のその顔も——。


 水篠は俺の顔を覗き込むように一瞥いちべつくれて、また顔を逸らす。

 それから俺の脇を通り抜けて職員室の方へと歩いていった。


 俺はその背中を少し見届けてから教室へと向かう。

 道中、廊下の窓から吹き込む風が熱をびた頬には冷たく感じた。


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