第2ー18話 狂乱の大地

 圧倒的破壊力と勢いで収容所を抜け出して迷いの森へ進む天上軍を率いている嬴政と一行は天上界への帰還を夢見ている。



だがその中で虫の王である蛾苦は最愛の妻を探して羽をばりばりと音を立てている。



捕虜になっていた兵士とは別に民間人に等しい王妃などが嬴政率いる天上軍の後から迷いの森へ進み始めた。



 収容所での戦闘中は建物内で隠れていた誰かの妻や娘達がぞろぞろと出てくると虫の王は異音を更に激しく響かせている。



すると大きな黒目に捉えたのは両手を広げながら女達に手を引かれている者の姿だ。




「鈴よー!!!!」

「あ、旦那様!?」




 虫の王は着地すると半透明な羽を畳んだ。



そして飛びつくほどの勢いで近づいた者はイタチのヒューマノイド。



両目を閉じているイタチの半獣族は嬉しそうに硬い胸にしがみついている。



「や、やっと」と声を発するとそれ以上は口にできずに、滝の様に涙が閉じている瞳から溢れ出た。




「どれだけこの瞬間を夢見たか・・・」




 変わらず両目を閉じて泣いているこの女こそが鈴姫だ。



虫の国に暮らす世にも珍しいイタチの半獣族。



 非常に小柄な体型をしている愛おしい妻を尖っている腕で肩に乗せると、ばりばりと異音を鳴らして空中へ飛び立った。




「飛んでいるのですか旦那様?」

「ああ、そうさ。 風を感じるか?」

「ええ!! またこうして飛べるのですね!!」




 両目を閉じている愛しき妻は風を存分に感じると、思わず目を背けたくなる虫の背中に抱きついた。



彼女には本来あるはずのものがなかった。



それは視力だ。



だが鈴姫はその事を悔やんではいない。




「見えなくてもいい。 私は旦那様の愛を感じていますもの」




 見えないからこそ蛾苦という男の性格を愛せる。



誰が見ても絶句するこの異様な外見を自身も嫌悪しているが、愛する妻だけは何一つ気にせずにいた。



 盲目の妻に自身が虫である事を話しても彼女の愛は変わらなかった。




「見えないものを見るのではなく感じるものを感じるだけです。 私は旦那様の優しさを痛いほどに感じています。 さあ帰りましょう」




 この鈴姫もまた、自身が二十四年も冥府という悲惨な世界で生きた苦痛をあらわにしなかった。



長らく留守にしていた夫に再会したかの様にただ、嬉しそうにしがみついているあまりにも小さな体は微笑ましくも気高い。



 やがて安堵の表情を浮かべる一同の元に降り立った虫の王は触覚がちぎれるほど激しく動かしては頭を下げている。




「本当にありがとうございます皆様・・・」

「よかったなって言いてえけどまだ脱出はできてねえ。 蛾苦は鈴姫から離れるなよ」




 そう虎白が話すとうなずく嬴政が硬い体をばんばんと手で叩いて溢れる祝福の念を無言でぶつけていた。



やがて一同は森を抜けようとしている。



既に戦勝の雰囲気すら出している天上軍と一同は呑気に話をしながら森を抜けた。



 だがその明るい雰囲気も一瞬にして戦慄に変わった。



眼前は黒く染まった大地が見えている。



低いラッパの音色が響き渡り、黒き大地が動き始めた。




「第一軍突撃準備だ!! 十二使徒、魔那まな様に続け!!」

「第二軍も同様だ!! 魔李まり様に従え!!」




 戦慄する一同をあざ笑うかの様に不気味なまでに待ち構えていたのは冥府軍の大軍だ。



そしてその先頭で恐ろしいほどの笑みを浮かべている二人の女を冥府兵は確かに十二使徒と呼んだ。



 だが衝撃はこれだけで終わらなかった。



愕然とする虎白が空を見上げると、上空には羽を羽ばたかせている無数の影が見えているではないか。



 絶句していると、影は二人の十二使徒の前に降り立った。



中でも一際悍ましい気配を放ち、冠を被っている存在を見た虎白と嬴政は嗚咽すら催した。




「鞍馬ああああ!!!! お前の居場所はこの冥府だああああ!!!!」




 一度耳にすれば永遠につきまとうほどに恐ろしい低音の声を発した存在は魔族だ。



だが発狂している魔族はただの魔族ではないのだ。



虎白と嬴政が顔を見合わせては互いに震えている顔を近づけた。



 小さく発した言葉は「怖い」だ。




「無理だ・・・勝てねえぞあいつには・・・」

「友がやつによって殺されたのだ・・・」




 全身の血液が凍りつくほどに恐ろしい視線を向けては二重音声にも聞こえる声を発しては何度も虎白の名前を呼んでいる。



 その悍ましき者は魔族の王として君臨しているのだ。



いつだって冷静な表情をしている虎白が怯えながら口にした魔王の名は。




「やつはルシファーだ・・・」

「別の名はサタンだぞ」




 魔族の王にしてこの冥府でハデスに次ぐ権力を有しているサタンが引き連れてきた魔軍の兵力は大地を埋め尽くすほどだ。



サタンの背後には十二使徒にして魔呂の姉である魔那と魔李が勝ち誇った様な笑みを浮かべている。



 もはや絶望的な状況に一瞬にして立たされた一同は数分前までの笑顔も歓声も全て消えた。



サタンが先頭で悍ましいほどの笑声を響かせている間、虎白は自らの定めを問うている。




「これも運命なのかな・・・やるしかねえよな。 俺は死ぬんだな・・・」




 冷静で取り乱す事のない虎白がそう口にすると真実味を帯びてくるのだ。



この絶望的な状況でなまくら刀を抜いた虎白は一歩前に出た。



すると傍らに立つ竹子の愛おしい顔を見ていると微かに微笑んだ。




「俺と出会ってくれてありがとな。 どうか聞いてほしいんだが、捕虜の女達を連れて一目散に真っ直ぐ走ってくれ・・・」




 言葉を発した虎白の表情はこれから戦う者のそれではなかった。



死にゆく者が安らぎでも見つけたかの様に落ち着いた表情をしている。



目に涙を浮かべて着物の袖を掴む愛しき者の頬に口づけをすると親友と顔を見合わせて死地へと赴いた。



 長らく仕えていた家臣の莉久は当然の事の様に主の背中を追って死地へと進んだ。



だがそれだけではなかった。




「はあーあ・・・まあ仕方ないわなーなあ竹子・・・あたいも愛してるからな。 女達を頼むぞー」




 そう言い残すと甲斐と副官二名も最期の時を迎えるべく進んだ。



だがこの行動には意味があるのだ。



皆々が竹子と優子に別れを告げていったのはこの姉妹に捕虜であった女達を逃がすための先導を任せたからだ。



 愕然としている姉妹に背を向けて走り去っていく彼らの中で嬴政が立ち止まると、一度だけ振り返ってこう発した。




「天上軍は生きて帰るのだ。 俺達が時間を稼ぐから進め」




 竹子は綺麗な唇を食い破るほど力強く下唇を噛んでいる。



薄くてぷるっとした唇から赤い血が流れ出ると絞り出す様な声で「行くよ優子」と言葉をかけた。



優子はまたしても大切な者を失う事になるのだ。



悲痛の表情で重い足を前に出すと、捕虜であった女達を連れて冥府軍の大軍へと向かった。



 状況はこれでも絶望的な事に変わりはない。



竹子と優子は眼前に佇む冥府軍を突破しなくてはならないのだ。



刀を同時に抜くと、最初の冥府兵を斬った。




「虎白死なないでよお!!!! みんな私から離れていかないでええ!!!!」




 号哭を響かせる妹を懸命に導いて、殺到してくる冥府軍の中を必死に進んだ。



天上軍達も竹子姉妹に続いて突入したが、無防備な女を守りながら包囲されている状況を突破するのは至難の業だ。



 ここまで来たというのに次々に倒れていく天上軍兵士達は仲間の屍を踏み越えて進んだのだった。

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