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古川倫は、日本の首都に生まれ、両親と弟一人という特段珍しくも無い家族構成で集合住宅に住み、それなりに学生生活を楽しんでいた、ごく普通の女子高校生だった。
ただ、その身に訪れた度重なる不幸により、その平々凡々な生涯を閉じてしまった、らしい。
その日の初めての不幸は、通勤ラッシュで混み合う電車の中で、痴漢に遭ったことだった。
この線は高校生がよく使うこともあり、女子高生を狙った痴漢被害が相次ぐことでその悪名が知られていた。
倫も被害に遭うのは初めてでは無かったが、通学には不可欠なこともあり、いつもはさりげなく場所を移動して痴漢から距離を取るなどして面倒を避けていた、のだが。
二つ目の不運は、その日がちょうど生理前で、朝から虫の居所がとんでもなく悪かったことだ。
いつもなら辛くても耐えられていた所が、その日ばかりは、どうしても我慢ならなくなってしまったのだ。
電車が駅に着いた瞬間、倫は痴漢の手を引っ掴んでひねり上げ、痴漢を受けていると叫んだ。
痴漢は動揺して、捕まえた倫に引きずり出される間も訳の分からない言い訳を並べ立てていたが、他の乗客は呆然として、それを見つめることしかしなかった。
すると、痴漢が手を振りほどこうと突然暴れ出し、倫はそれでも手を放すまいと抵抗した結果、揉み合いになった結果、弾みで反対側の線路に突き飛ばされてしまったのだ。
そして、倫に訪れた最後の不幸とは、その線路には、今にも列車が迫ってきていたことだ。倫が現世で最後に見たのは、ホームに居た乗客達に掴みかかられた痴漢の、呆然とした顔だ。
すぐそこに電車が迫っていて、横顔に強い風を浴びた瞬間に、倫は轢かれて死んでしまった、らしい。
何故“らしい”などと断定できないのか。
それは、倫は死という感覚を味わう前に、何らかの理由で、今まで住んでいた世界から、不可思議で変哲な世界に、その身を放り出されてしまったからだ。
「リン! 朝ごはん出来たわよ!」
かろやかな女性の声が下の方から聞こえてきて、倫は勢いよく振り返った。
「はーいっ!」
大声で返事をすると、倫は寝間着のまま部屋を飛び出した。
廊下にはすでに朝ごはんのいい匂いが漂っていて、倫はそれをたどるように、廊下の突き当りを曲がってすぐにある階段を、速足で駆け下りていった。
階段を降りてすぐの左側には、暖簾で区切られた部屋があり、そこが朝ごはんの匂いの出どころのようで、いっそういい匂いが漂ってくる。
倫は匂いに酔いしれながら暖簾をくぐると、そこには広々としたキッチンがあり、そこに一人の女性が立っていた。
その女性は、年齢は倫と殆ど変わらないくらいで、褐色の肌と、鮮やかな黒髪をきちんとまとめあげていて、後ろ姿だけでも綺麗な人だとわかる。
女性は、コンロの上でくつくつと鍋の中で煮えるスープを木の器に盛りつけていた。良い匂いの正体はこれのようだ。
「アーニャ、おはよう!」
倫がその背中に声を掛けると、アーニャと呼ばれた女性は振り返って、これまた可愛らしい顔に、柔らかい笑みを咲かせた。
「あら、おはようねぼすけさん。今日の朝はリンの好きな豆と野菜のスープよ」
「あっ、やっぱり! 覚えててくれたの嬉しいなぁ」
無邪気に喜ぶ倫の横顔をみて、アーニャはつられるようにして笑みを深める。
「キッチンに来たついでに、スープを食卓に持って行ってくれる?」
「了解!」
倫は気合を入れて返事をすると、スープが置かれたトレイを手にして、キッチンからそのままつながる食卓に向かうと、そこにはすでに先客が居た。
「おはようございます、ボルドーさん」
倫が声を掛けると、ボルドーと呼ばれた男性は、読んでいた新聞から顔をあげて、アーニャとよく似た柔らかい笑みを浮かべた。
ボルドーはアーニャと同じく鮮やかな黒髪と褐色の肌をしているが、年は二人よりもずっと上で、落ち着いた雰囲気の男性だった。
「ああ、おはよう。今日も元気そうで何よりだ」
「あはは、元気が取り柄みたいなもんですから。はい、アーニャ特製のスープですよ」
「ありがとう。今日もおいしそうだ、さすが私の娘だね」
そう言って二人が笑い合っていると、キッチンからアーニャがたっぷりのスクランブルエッグが盛られた深皿と、籠いっぱいパンを持ってやってきた。
「さて、三人そろったし、朝ごはんにしましょうか」
「さんせーい。あたし、もうお腹ぺこぺこだよ」
「もう、リンは食いしん坊なんだから」
三人全員が食卓につくと、そろって顔の前で手を組んで、目を瞑る。
「我らに恵みを与え賜う地と天の神に感謝します」
先にボルドーが祈りの言葉を口にすると、それに続いて、アーニャと倫も同じ祈りの言葉を口にする。そして三人が各々手を解いて顔をあげると、ボルドーは小さく頷いた。
「さあ、いただこうか」
「はーお腹空いた。いただきまーす!」
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