第47話 千葉県カビ対策チーム代表・森

 二階堂研究所所有のプライベートジェットはとんでもなく乗り心地が良かった。

 自分がよく乗っていたヘリコプターとは大違いだ。特にチヌークなんかあのタンデムローターのおかげで安定はしているものの、やかましくて会話にならなかったもんだが。

 ここでは普通に会話もできるし、自己紹介する時も全く支障が無かった。そういえば自分は普通の旅客機に乗ったことがない。旅行で海外に行くことも無かった。


 リタイアしたら一緒に海外旅行へ行こうと言っていた女房は、自分の退職を目前にして病気で先に逝ってしまった。

 あれから自分は空っぽになった部屋にいるのが苦しくて、すぐに派遣会社に登録した。だが自衛隊一筋だった自分には、何か全てが物足りなく感じていた。

 そんな時だった。岩倉さんが『匠エージェンシー』を立ち上げ、真っ先に誘ってくれたのは。


 その自分が今、七十を目前にして再び自衛隊の基地に向かおうとしている――。

 森は眼下に広がる太平洋を眺めながら、ぼんやりと回想に耽っていた。

 機内には操縦士の他に四人の男と紅一点の天野博士。


 天野博士は二階堂研究所の主任研究員で三十そこそこの別嬪さんだ。彼女が連れて来た助手の御手洗みたらいさんは彼女と同い年くらいのひょろりと背の高い男性、それからアオカビ対策特別担当大臣の筧さん、そして現地の案内をしてくれる硫黄島航空基地隊の青島あおしま三等空曹。

 ここでの自分は『千葉県カビ対策チーム代表』であって、元陸上自衛隊員ではない。

 自己紹介が終わると、天野博士から早速今回の試験の概要について説明があった。


「今回ばら撒くウィルスは、現在大増殖しているカビだけに感染してその増殖能力を抑えるものです。野良猫も放置したら増え続けますが、去勢するなり避妊手術を受けさせるなりすれば増えません。青カビに対してそういった処置を施すウィルスであると捉えていただければ結構です。基本的にこのカビにしか感染しませんので、他の生物には一切影響がありません」


 ここで彼女の助手の御手洗さんが硫黄島の地図を映し出した。コクピットのすぐ後ろの壁は、大きなディスプレイになっている。


「試験なので当然ウィルスをばらまく前後で比較しないといけません。比較の基準となるポイントで写真を撮って、数日後にまた同じ場所で写真を撮ります。候補としては、この赤い×印のついているところ、島の最北端、東端の金剛岩付近、西側平和記念墓地公園、南端の摺鉢山の手前、戦没者慰霊碑付近、空軍基地食堂付近の六か所で考えています。青島さん、行けない場所はありますか?」


 話を振られ、それまで黙って聞いていた青島三曹が「島の最北端は海岸まで出ます

か?」と聞いた。「車で行けるところまででいいわ」という天野の応えに「了解。全て行けます」と短く返事をする。


「二チームに分かれての行動となります。陸上チームは比較ポイントの写真を撮るチーム、残りはヘリチームになります。研究所から持って来たのはウィルスそのものではなくて、ウィルスに感染させたカビです。これをヘリから農薬を撒くような要領で地上に向けて散布します。散布用の機材を持ってきているので、これをヘリに積んで出発する予定です。メンバーですが、ヘリの方には私と御手洗が乗ります。青島さんには陸上の案内をしていただかないといけないので、あと筧さんと森さんはどちらに同行されます?」


 その時、青島がハッと何かに気付いたような顔をした。森とほぼ同時だった。


「ヘリの操縦はジェットのパイロットの方がなさるのですか?」

「いえ、パイロットは帰りに向けてジェットの整備をします。胞子がエンジンに溜まったりしていると怖いので。基地に残っている自衛隊員の方でどなたかヘリの操縦をしてくださる方はいないかしら」

「基地は現在誰も残っておりませんが」

「え?」


 五人を妙な間が襲った。


「えっと、じゃあ筧さんか森さんが写真を……でも案内役がいないわね。ええと、御手洗君、車の免許持ってるよね」

「持ってますが、ウィルス感染した菌のカートリッジのセットと溶媒に混ぜる作業は誰がするんです? 僕しかできないと思いますけど」

「そうだった……」


 まさかの事態だ。天野は硫黄島にヘリの操縦ができる隊員が残っていると思っていたのだ。


「どうしよう、ごめんなさい、私ったら勝手に勘違いしちゃって」

「あの……私が」


 森は思わず声を出してしまった。もう引退してからずいぶん経つ。なのに、自衛隊員の血が『自分にできる最大限の努力』をしようとしてしまう。感覚も体が覚えている。

 そこへ「とんでもない」と筧が入る。


「森さん、車が運転できても道端で写真を撮るわけにはいきませんから、それなりに降りて歩いてもらう必要がありますし。その、失礼ですがこのメンバーの中では最もご高齢ですから。あ、ではこうしましょう。森さんに運転していただいて私が写真を撮りに行くということで」

「筧さんが足場の悪いところに入って写真を撮るんですか? 筧さんだって丹下知事より一回りくらい年上でしょう?」


 天野は筧にはズバズバと遠慮なくモノを言うようだ。さすが公共の電波を使って国民の前で派手にやりあったわけではないらしい。

 だが、全員勘違いしている。このままでは話が進まない。仕方なく森は少々声を張った。


「いえ、車の方じゃなくて。私が動かすわけにはいきませんか?」

「は?」


 寝ぼけたような筧の声と同時に、青島空曹と天野博士がパッと振り返る。


「森さん、ヘリなんて操縦できるの?」

「ええ。昔は毎日のように乗ってましたから」

「運輸関係のお仕事されてたの? 聞いてないわ」

「まあ、免許を更新していないので今は無免許ですが」

「最後の一言は聞かなかったことにしましょう。国難ですから」


 筧が涼しい顔で返す。筧大臣はこんな男だっただろうか。


「ちょっ、筧さん、それいいの? あたし責任持てないわよ?」

「総理みたいなことおっしゃらないでください。自衛隊の私有地ですからいいんです。これ以上千葉の劉備にいいとこ持って行かれてばかりじゃ悔しいですからね。『チーム筧』の凄さを見せつけてやりますよ」


 ――その『千葉の劉備』に雇われているんですが――とは言いにくく、森は苦笑いで応えた。


「私で良ければヘリの操縦をお任せいただいて、車の方は青島三曹にお願いしますが」

「それでは車の方は青島さんと私で回りましょう。ヘリの方は森さんに操縦をお任せして、天野博士と御手洗博士にはウィルスの散布をお願いします」

「筧さんこそ車の方に参加して大丈夫なの? 二番目にご高齢よ?」

「散布の様子なども写真に収めておきたいので。こういう活動をしているというのを知らせた方が、国民も安心できますから」


 筧は天野の軽口など気にも留めない様子で真面目に答えた。そして小声で付け加えた。「総理にしっかり見ていただかないと」と。


「言っておくけど、ヘリチームは下に陸上チームがいようがいまいが、問答無用でウィルスを撒きます。風で飛んで行かないように液体散布にする予定だから、下で写真を撮る人はウィルスを被る可能性もあるの。わかってる?」


 青島が「自分は問題ありません」と即答するのに続き、筧もしばらく考えてから口を開く。


「ではこうしましょう。青島さんに運転をしていただいて、私が写真を撮りに降ります。ウィルスを浴びる人数は少ない方がいい。私が人体実験の被験者になりましょう」

「とんでもない、筧大臣に何かあっては困ります。自分が降ります」


 慌てる青島を制止して筧は有無を言わせない調子で切り返した。


「君はまだ若い。家族もいるだろう? 私はもう十分生きた。独身だから何かあっても誰にも迷惑はかけない。それにアオカビ対策特別担当大臣自ら被験者になれば、誰も私に逆らえないはずだ。この立場を最大限利用させてもらうよ。総理を動かすためにもね」


 そしてチラリと天野に視線を投げて続けた。


「天野博士の自信作なんだ、私はそれに賭けよう」


 あまりに清々しい物言いに、天野もクスクス笑っている。


「そうね。筧さんに被験者になっていただきましょう。ジャージがあるからそれを着てくださらない? 筧大臣の心意気に敬意を表して、せめてイタリアブランドのスーツは死守させていただくわ。森さんも容赦なく筧さんの頭上を飛んじゃってくださいね」

「了解」


 機内が笑いに包まれた。どこの国に大臣で人体実験する国があるというのか。それを本人に決断させてしまう天野梨香という科学者の辣腕に空恐ろしささえ覚えるが――。

 それより何より、久しぶりのコクピットに森は自分の血がざわざわと高揚していくのを感じた。

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