第十二章 カビ

第45話 千葉県知事・丹下源太 

 政治の世界に足を踏み入れてから今までで最大のピンチだな――執務室のデスクでパソコンを眺めながら、丹下は独り言ちた。

 大抵ピンチはチャンスとワンセットだ。日本で開かれる万博、それが自分が知事として働いている時にその地で開催されることになろうとは。こんなに責任重大なビッグチャンスは二度と来ないかもしれない。


 そして、そのビッグチャンスの中にあってまさかの大ピンチだ。開催までひと月を切ったところで、こんなどこにでもいるような菌類に世界をひっくり返されようとは。

 幸い丹下には味方をしてくれる多くの千葉県民と科学界の大御所である二階堂研究所がついている。副知事の阿曽沼もなんのかんのと世話を焼いてくれる頼もしい同僚だ。学生時代の先輩である岩倉も、彼の人望で集めた優秀な人材を投入して頑張ってくれた。


 だがここまでだ。これ以上はどうにもならない。

 あとはどうやって二階堂研究所が開発したウィルスの安全性をチェックするか、だ。


 幸い千葉県には人の入らない離島がたくさんある。伊達に県のほとんどを半島が占めているわけではないのだ。こういうとき海に面した場所の多い県は役に立つ。

 意気揚々、試験用にどれか島を一つ提供しようと二階堂研究所に打診したはずだった。が、即答で断られてしまった。無人島では人の出入りがないためカビが繁殖しないという理由だった。


 試験場はない、しかし岩倉たちの手に負える量をとうに超えている。政府に要請を出し続け、ようやく筧が動いたころには完全にキャパオーバーだ。どれだけ自衛隊員を派遣しても、増殖速度の方が駆除速度を上回っている限り追いつくことはない。

 どうにかする方法はないだろうかと岩倉にリモート会議を設定して貰ってはみるものの、もう彼らにも太刀打ちできないところまで来てしまった。


 さてどうするか。

 パソコン画面の向こうの岩倉と共に頭を抱えていると、不意にフレームに入って来た森が『岩倉さん、ちょっと』と割り込んだ。たしか自衛隊上がりの人だったと丹下は記憶している。


『どうしました?』

『いや、ちょっと。今、筧大臣は自衛隊を全国に派遣してますよね』

『そうですね』

『つまり、


 それはそうだろう。できるから派遣しているのだ。二人は何の話をしているのか。


『そういうことなんでしょうね』

『今、現役時代の後輩からメールが入ったんですよ。硫黄島と南鳥島が一旦厚木に戻るらしいんです』


 丹下は今一つピンと来ない。それとどういう関係があるのだろうか。


『出入りする隊員によってカビが持ち込まれてしまったらしいんですよ。たくさんの物資を届けるのも困難になりそうなので、最小限の数人を残して隊員は一旦戻るということです』


 そこで一度話を切った森は、話はここからだと丹下に視線を送って来た。


『自衛隊の基地なら一般人は入ることができませんよ』

『そうでしょうね。えっ? ちょっと待った。森さん、何考えてますか?』


 岩倉は何かに感づいたらしい。丹下は全く話の流れがつかめない。が、そんなことはお構いなしに森は続ける。


『硫黄島も南鳥島も一般人は立ち入ることができません。そこに入るのが許可されているのは、基本的にそこで働く自衛隊員と気象庁の人間だけです』

『その手がありましたか』

「ちょっと待ってください、こっちは全然話がわかりません」


 どんどん二人で話を進めてしまう事に焦りを感じた丹下がやっとこさっとこ割り込むと、岩倉が一つずつ噛んで含めるように話をまとめ始めた。


『現在カビが生えていて、民間人に影響を及ぼすことなく、民間人の住居から遠く離れている場所、そして、ということですね』

『そうです』


 まさか――


「いや、それって」

『丹下ちゃん、出番だよ』




『また丹下さんですか。こちらが忙しいのはあなたもご存知でしょう。私は千葉県だけを相手にしているわけではないんですよ』


 彼の初動の鈍さによって政府の求心力は今やゼロに等しい。この絶体絶命のピンチにあっても、筧の高圧的な態度は変わらない。むしろそうすることで自分を保っているのかもしれない。

 だが今はそんな彼の個人的事情にかまっていられるほど時間の余裕はない。


「わかってます。筧大臣でなければできない事があるんです。例のウィルスの試験に関することです」

『なんですか』


 筧の声色が変わった。今だ、一気に畳みかけるしかない。


「硫黄島と南鳥島の自衛隊員が厚木に戻ると聞きました。カビがついにそこまで広がったらしいですね」

『隊員が運んでしまったんでしょう。それが何か?』

「硫黄島には民間人が住んでいない。そしてカビが蔓延している。上陸することができるのはごく一部の限られた人だけ。これだけの条件が揃ったはありません」

『なっ――』

「筧大臣なら自衛隊に要請することができます。硫黄島でのウィルス投入試験を今すぐ検討してください」

『硫黄島でウィルスの試験だと? あそこには戦没者の霊が』

「だからこそ硫黄島でやるんです!」

『丹下さん、正気か? 何を言われるかわかったもんじゃない』


 丹下は一度ゆっくり呼吸を整えると、自分を説得するかのようにもう一度口を開いた。


「戦没者のための慰霊碑がカビに埋もれているんです。鎮魂の丘が、平和記念墓地公園が、今まさに青カビの侵食を受けているんですよ。それを放っておくことの方が問題でしょう。既に自衛隊を全国に派遣しているんだ、自衛隊の基地しかない硫黄島なら使えるはずです。それに――」


 丹下は手元の資料に目を落とした。


「二階堂研究所の分析では、このカビは硫黄と硫化化合物を餌にして増殖してるらしいんですよ。硫黄島は硫黄の噴出が顕著な事からその名がついた。効果が一目瞭然という意味では硫黄島を置いて他に最適と言える場所はありません」

『しかし』

「筧さん、あなた以外にこのピンチを救える人がいないんだ。あなたが今ここで判断することが、日本を、いや世界を救うために、必要不可欠なんです!」


 が空いた。筧は何も言わない。何かを考えているのか、それとも話にならないという間なのか。

 だが丹下も無理に結論を急ごうとはしなかった。ただ、黙って反応を待った。

 しばらくして、筧がボソリと言った。


『あなたには負けましたよ、丹下さん。そこまで本気で考えていたとは』

「私だけじゃないですよ。一人じゃこんなこと考えつかない。すべての千葉県民が頼りない私を後ろで支えてくれてます。私がこうしていられるのは千葉県民のおかげなんです」


 静かなため息が聞こえた。筧はどう出るのか。


『わかりました。私もいい加減総理の子守りにはうんざりしていたところだ』


 ――えっ? 子守り? 今、子守りと言ったか?


『総理には必ずYesと言わせます。言わなかったら私の独断で実行します。先に丹下知事の方から二階堂研究所に打診しておいていただけますか』


 もちろんだ。俺は人にものを頼むのだけは得意なんだ――。

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