第20話 ザワディ・2

 翌日、ザワディはワンガリからの招集で大学へ向かっていた。何の話で集合がかけられたのかは聞かなかった。聞く必要が無かった。

 大学の近くに住んでいる彼女は、いつも乗っている自転車を利用せずに徒歩で学校へ向かった。自転車のサドルにカビが生えていて、とてもそれに乗る気にはなれなかったのだ。


 ここまで酷くなったのはいつからだろう。

 ブルーラグーンへ行ったのは四月末だった。五月になると混むと聞いていたから、わざわざシーズンオフの四月を選んだのだ。

 戻ってきて五月に入るころには家の中でカビが目立ち始めた。雨季だからこんなものかと思って大して気に留めていなかった。


 周りを見渡すと、半数以上の人がマスクをしている。彼女が初めて目にする異常な光景だ。かく言う彼女自身も今では外出時のマスクが必需品となっている。

 今踏みしめている赤いレンガ敷きの道も既に淡い青緑に覆いつくされており、彼女が一歩足を踏み出す度にふわりと細かい粒子が舞い上がるのが見えるのだ。


 彼女はふと、足を止めた。

 ――そうだ、六月に入った途端、爆発的に増殖し始めたんだ。それならカビは五月の間、静かに潜伏していたのだろうか。

 それとも?

 自分たち以外の誰かが五月にアイスランドへ行って、カビの胞子を持ち帰ったのではないか? もしそうなら、自分たちが責められることは何もない。

 いや、そもそも責められるようなことなど何もしていないのだ、なのになぜそんなに怯えているのか。


 とはいえ、この景色には恐怖しか覚えない。大学構内のレンガ敷きの道はもとより、噴水の周りやモニュメント、土や木の幹、石畳など、視界に入るあらゆる場所がその色に塗りつぶされている。これを見て怯えるなという方が無理だろう。


 ケニアには雨季が二回ある。三月から五月にかけての大雨季と、十一月から十二月にかけての小雨季だ。大雨季が過ぎた六月は乾季に入る。

 五月中、家の中で細々と増殖を続けていたカビが、雨が上がると同時に外へ飛び出し、我が世の春とばかりに増殖を始めたのではないか。

 あてにならない推理をしながら研究室のドアを開けると、先に来ていたワンガリとウマル、そしてルカが一斉に顔を上げた。


「ごめん、待った?」

「ううん、私たちが早く来過ぎただけ」


 確かにワンガリの言う通りだ。ザワディが到着したのは指定された時刻より十分も早い。それでも彼らの方が早かったのだ。ザワディだって直前にファティマと電話していなかったらもっと早く来ていたかもしれない。

 本当は知っていたが、わざと知らないふりをしてファティマのことを聞いてみた。


「ファティマは?」

「カビアレルギーで喘息の発作が出るから外に出られないって。ここで僕たち四人で決めたことに従うって言ってたよ」


 ルカがスマートフォンを立ち上げ、ファティマからのメッセージ画面をみんなに見せる。家を出る直前に聞いた話の通りだ。ルカから連絡が来て、喘息のせいにしたと言っていた。


「そっか。ファティマには死活問題だもんね」


 相槌を打つワンガリを見ながら、ザワディは妙な違和感を覚える。何か落ち着かない感じというか、手持無沙汰というか。


 ――そうか。誰も座っていないんだ。カバンさえも下ろしていない――


 赤かったはずの布張りの椅子には、うっすらと青緑色のもやがかかったようになっていて、そこに座ろうという勇気のある人間がいないのだ。

 小さな一般家屋なら、まだカビを押さえこむべく次々と掃除して行くこともできる。だがこれだけ広い大学となると、清掃が追い付かないのだ。


「車、ほとんど走ってなかったね」

「胞子が車の内部に入って故障したって、うちの親が言ってた」


 ふと、誰にともなく話しかけたザワディに、ウマルがすぐに呼応する。この沈黙に耐えられないのだろう。


「じゃあどうやって来たの?」

「徒歩」

「ウマルんち、結構距離あるでしょ」

「たったの二キロだよ」

「あたしも一キロないから歩いて来ちゃった」

「ウマルもザワディも近くていいな。僕なんか三キロ歩いて来ちゃったよ。帰りも三キロ歩かないと」


 ずっとサッカーをやっていたウマルと正反対に、ルカはプログラミングに明け暮れていたようなインドア派だ。ウマルが三キロ走るのが日常でも、ルカは三キロ歩くことさえ滅多にない。


「三キロどうだった?」

「アスファルトはあんまりカビ生えて無かったかな」

「密度が高いからだろ。多孔質ほど脆いよ」


 誰も核心に触れようとしない。みんなワンガリが口火を切るのを待っているのだ。当然と言えば当然だ、彼女が招集をかけたのだから。

 しかしここへ来て怖気づいたのだろうか、彼女自身その話題に触れようとしない。いつも堂々と自分の意見を述べ、みんなの話をまとめている彼女が、だ。


「ワンガリ? どうしたの、大丈夫? 顔色悪いよ」


 俯き加減だったワンガリが上目遣いにザワディを見上げた。

 その目に心臓を掴まれた。あのいつも自信に満ちた彼女の目が、怯えていたのだ。


「あ、ごめん。大丈夫、なんでもない」


 ワンガリは静かに顔を上げると、一言ずつ確認するかのように話した。


「私たちは何も悪いことはしていない。そうよね?」


 まるで自分に言い聞かせているように。


「うん、あたしたちは何もしてない」

「ただアイスランドを旅行して帰って来た。それだけよね?」

「うん、そう。それだけ!」


 ザワディが力強く肯定すると、ウマルとルカも黙って頷く。


「それなら、逃げたり隠れたり誤魔化したりする必要なんてどこにもない。そうよね?」

「う……ん。そう……かな」

「なにかやましいことでもある?」

「ないないない!」


 ワンガリは一呼吸おいてから、はっきりと言った。


「それなら、私たちはアイスランドへ旅行に行ったことを、ケニア政府に申告すべきだと思う」

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