第10話 グズムンドゥル・3

 翌朝早く、彼女がまだ眠っている間に自宅に戻ったグズムンドゥルは、今日が出勤日でないことを心底呪った。仕事をしていれば忘れられただろうに、家でゆっくりしている限りずっと彼女のことを考えてしまいそうだった。


 連絡先の交換すらせずに出て来たことが悔やまれたが、逆にそれで良かったのかもしれない。もしも彼女のアドレスを知っていたら、気になって何度も何度も連絡を入れていただろう。

 実際今だって、こうして『ナイロビ大学で地熱発電の研究をしているワンガリという名の女子学生』で検索すれば何か引っかかるんじゃないかと、パソコンに頼ろうとしている自分がいる。これじゃまるでストーカーだ。


 彼は苦笑いするとパソコンを閉じた。――いずれ彼女がその道の技術者になったとき、またブルーラグーンに遊びに来てくれたらそれでいいか。その時は隣に彼氏がいるのかもしれないけれど、その頃には自分にもいい人がいるだろう。


 グズムンドゥルがコーヒーを飲みにリビングへ行くと、弟のヨウンが軽く手を挙げて来た。


「今ちょうどコーヒーを淹れようと思ってたんだ。兄さんも飲む?」

「ああ、頼む」


 ヨウンは現在アラスカに留学中で長期休みに実家のアイスランドに戻って来ており、今日あちらに戻る予定だった。グズムンドゥルは見送りをしようと休暇を取っていたのだ。


「今日戻るんだろ? 何時の飛行機?」

「昼前。空港まで送ってよ」

「ああ、そのつもりで休みとったんだ」

「ありがとう。次の土産は奮発するよ」

「心にもないこと言うなよ」


 笑いながらコーヒーを二つ持って来た弟は、兄の前にカップを一つ置いて、向かい合って座った。


「で、どうなんだ、研究の方は」

「楽しいよ。寒いのが玉に瑕だな」


 ヨウンは魚の研究をしている。小さい頃から魚に興味を持ち、アイスランドの水産業に貢献したいと言って、大学では魚の生体について学んだ。

 今では更なる研究の為アラスカに留学し、魚の加工工場で働きながら勉強している。


「研究も楽しいけど仕事も楽しくてさ。毎日山ほどの魚が見れるんだよ。僕の愛してやまないキングサーモン、ベニザケ、ギンザケ、シロザケ、カラフトマス、他にもスケソウダラ、ギンダラ、マダラ……あ、タラはスリミにしてから日本に行くんだ」

「スリミ?」

「ミンチにした魚肉の事だよ。日本語でスリミって言うんだ」

「へぇ~」

「知ってるかな。カマボコって言ってさ、スリミを蒸した料理があるんだ。この前スリミの検査のために来た日本人の技術者が、その場で作ってくれたんだ。美味しかったよ」


 生き生きと楽しそうに話す弟にやや羨望を込めて、兄は目を細める。自慢の弟は常に先を見つめている。毎日を惰性で生きている自分とは、根本的に何かが違うと兄は感じる。


「相変わらずだな、ヨウンは」

「それ、誉め言葉?」

「もちろんだよ。どんな環境でも必ず楽しむ。凄い事さ」

「楽しまなきゃ損だからね。最近じゃズワイやタラバも守備範囲」

「楽しそうで良かったよ。あんな寒いところに行って、落ち込んでるんじゃないかと心配してたからね」

「まさか。工場のスタッフはみんないい人達ですごく可愛がってもらってるし。今が人生で一番楽しい時さ。兄さんも昨夜はお楽しみだったんじゃないの?」


 どうやらバレていたらしい。さて、どうやって誤魔化すか。


「もしかしてブルーラグーンのお客さん?」

「えっ? ああ、まあ……」


 どうしてこうも勘が鋭いのだろうか。隠しておきたいことに限ってあっさりバレてしまう。弟が帰省したのは半年ぶりだというのに。


「兄さんにもモテ期到来?」

「そんなんじゃないよ。地熱発電の研究をしている大学生で、ホットスプリングスも研究対象だっただけさ」

「彼女と一緒にアラスカにおいでよ。フェアバンクスにもホットスプリングスがあるんだぜ」


 グズムンドゥルは間欠泉の如く噴きだしそうになったコーヒーを、辛うじて喉に押し流した。


「だからそんなんじゃないって。彼女、ケニアの人だから、多分もう来ないよ」

「なぁんだ、そりゃ残念。一晩限りの火遊びか」


 そのたった一晩で、指一本も触れぬまま身も心も持って行かれてしまったけどな――口には出さないが顔に出てしまいそうで、慌てて話題を変える。


「それより、向こうに戻る準備は終わってんのか? 飛行機乗り遅れても知らないぞ」

「ヤバい、準備して来る。あとでよろしく」


 自室に戻っていく弟を見送りながら、グズムンドゥルはワンガリの事を思い出していた。

 ――もう来ない。そうは言ってみたものの、心のどこかで期待していた。連絡先を交換しなかったとはいえ、彼女にその気があればブルーラグーンに問い合わせれば一発だ。そのまま連絡が来なければ、この先ずっと彼女に会うことはない。

 なぜこんなに彼女に入れ込んでいるのか自分でも笑ってしまうが、気になるものは仕方がない。それが恋というものだ。

 こんなに気になるなら、仕事を入れておけば良かった――そう思ったちょうどその時、職場の上司から彼の端末に電話がかかって来た。


「はい、グズムンドゥルです。どうかしましたか?」

「休暇の日にすまないんだが、ちょっと人手が必要になってな。少しの時間でもいいから来れないか?」


 願ったり叶ったりだ。これでしばらくワンガリの事が忘れられる。


「大丈夫ですよ。弟を空港まで送らないといけないんで、その足で行きます。午後一くらいになりますけど、かまいませんか?」

「ああ、それで十分だよ。すまんな」

「いえ。ところで何があったんですか?」


 むしろその内容が気になる。いきなり人手が必要になるような事が発生したのか。昨日は何も問題が無かったが。


「外部に漏らすなよ?」

「えっ? あ、はい」


 何か重大なことが起こったというのか、いきなり声を落とした上司に反応して彼も引きずられるように小声になる。


「カビが生えたんだ」

「カビ? カビってパンに生えるあれですか?」

「そう。更衣室なんかは清掃員がいつものようにピカピカに磨いてたんで気づかなかったんだが、今朝早番のスタッフがラグーンの方で見つけたんだ。シリカにしちゃ色が変だなと思ったんで近付いてみたら、胞子がふわふわしてたって言うんだ。俺も見たけど、あれは青カビだな」

「はぁ……」

「それがラグーンのいたるところに広がっていて、どこにあるか見当もつかない。今ラグーンを閉鎖してスタッフ総出で駆除してるんだが、ただでさえだだっ広いのにあちこち広がっててとてもじゃないが手が足りない。そういうわけだから、すまんが早めに来てくれ」


 たかがカビだろう、そんなに大袈裟に騒がなくても……とは思ったが、せっかく仕事をさせてくれるんだ、ここは素直に「わかりました」と言っておけばいい。

 上司との話を終えて電話を切った彼の耳に、今度はランドリーの方から弟の「うわっ」という声が飛び込んできた。


「どうした?」


 リビングからグズムンドゥルが声をかけると、「兄さんちょっと来て」と呼んでいる。何事かと弟の下へ向かうと、彼は眉間に皺を寄せて立ち尽くしていた。


「これ、このまま洗濯機に入れるのはマズくない?」


 彼が指していたのは、今朝グズムンドゥルが帰って来て脱いだばかりのシャツだった。何が問題なのかわからない。

 キョトンとした兄の顔を見て、弟はシャツを目の前に突き出した。


「これ、カビじゃない?」


 カビだって?

 脇の下の汗をたくさん吸っているであろう部分が、青緑色に変色していた。


「ベッドの下から三ヵ月ぶりに出て来た?」

「いや……」


 今朝まで着ていた、と言うのが憚られた。


「母さんが怒り狂うから、せめて少し洗ってからにしなよ」

「ああ……そうだな、そうするよ。塩素系洗剤で洗えば綺麗になるかもしれないし。そろそろ時間か?」

「うん、頼むよ」


 グズムンドゥルはプラバケツに水と漂白剤を入れてシャツを放り込むと、車のキーを手にした。

 カビは断末魔の悲鳴を上げるかの如く途轍もない速さで胞子をつけ、それを飛ばしながら漂白剤の海に沈んで行った。

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