第294話「出ていく前に」


「おはようございます。起きてください」

「うん?……うん」

「あっこらっ。二度寝は許しませんよ」


 頬にちゅっと軽くキスをされてもう一度、桜花に起こされた。

 毎度の如く二度寝をしようとするとキスしてくるのでいつしか、二度寝をしようとすることが日課になりつつある。


 しかし、そのキスでぱっちり目が覚めてしまうのは、まだ慣れていないからなのだろうか。

 どきどきと朝から心臓が激しく動いており、これは身体に悪いのではないか、と少し不安になるがこれで死ぬなら本望だ、というぶっとんだ自分がいることもまた事実である。


 リビングへと向かうと、コトコト、トントンと食事を作っている音がした。桜花はもう何十分も前から起きていたのだろう。髪を結って、邪魔にならないようにしていた。


「誕生日おめでとう」

「あ、ありがとうございます。おかげ様で16歳になりました」


 にこりと微笑む桜花はその手を止めることなくそう言った。翔は桜花に近づいて、桜花の手に自分の手を重ねて持っていた包丁をそっと台所に置いた。


 そして、ぎゅっと抱き締めた。

 昨日から翔の抱き締めたい欲は限界を突き破っていたので仕方が無いといえば仕方が無いのだが、桜花はそんな翔に対して驚きのあまり目をぱちくりと瞬かせそれからぽんぽんと背中を軽く叩く。


「朝から積極的ですね。もう少しでできるので待っててください」

「僕も手伝うよ。お皿に盛り付けるぐらいならできる」


 そう言って翔が食器棚から食器を取り出そうとしたところでぽすっと背中から衝撃が伝わった。

 桜花が後ろから抱きついてきたらしい。どきっと心臓が跳ねる。


「ど、どうした?」

「……急に抱き締めたくなりました。翔くんが可愛くて」

「そっか。……でもお皿が」

「もう少しだけ。……落ち着きます」


 桜花にそのような事を言わせられるのは翔ぐらいではないだろうか。その論が頭に浮かび、翔はどうしても顔がにやけるのを止められなかった。

 少しして、桜花は名残惜しそうに翔から離れた。これで反対にもう一度、翔が桜花を抱き締めると今度こそ桜花は翔を、離してくれないような気がしたので、翔は我慢して皿に食事を盛り付けて運ぶ。

 そして、少し遅めの朝食をいただいた。


 後の片付けは大体は翔の役目であり、今回も翔だった。早々に洗って、片付けた翔はリビングでのんびりとしていた桜花に駆け寄って、


「桜花、ちょっと手を見せてくれないか?」

「どちらの手ですか?」

「どっちでもいいけど……じゃあ、左手」

「手相でも占ってくれるのですか?」

「おっ、よく分かったね。昨日、手相を調べてみたんだ」


 翔は桜花の掌をまじまじと見つめた。昨日の会議の後、手相を調べたのは事実である。しかし、ただ手相占いのためにというわけではない。他の思惑があってのものだったが、桜花には勘づかれていないようだ。


「生命線が長いな。健康にも問題なさそう。恋愛は……」

「何ですか?はっきりいってください」

「……難色あり。意中でもない男に多く言い寄られる」

「ふふっ、私、モテモテですね」


 翔がぶすっと拗ねた様子で恋愛については話したので桜花がからかってくる。元々は自分がモテているとわざわざいう性格では無いので、翔の嫉妬を喜んでいるのだろう。


(まぁ、それにしても細い。華奢とはよくもまぁ、いったものだな)


 まぁ、まぁ、と驚いてばかりだが、翔はその間にもしっかりともうひとつの目的を果たす。


「じゃあ、少し予言をしてあげるよ」

「手相を見るとそのようなことまで分かるのですね……」

「手相、なめたらあかんでぇ」

「肝に銘じます」

「んー、もう少しで予期せぬ来客がある。それは断らない方が吉と出た」

「予期せぬ来客……断らない方がいい?」

「うん、そう書いてある」

「分かりました、着替えてきます」

「あ、待って」


 翔は慌てて呼び止めた。立ち上がった桜花は翔の呼び止めに素直に応じて、またこてんと座り込む。


「朝のキスを……するべし」

「それは……占いですか?」

「う、占いが……一割で、願望が九割」

「もう願望ですね」


 くすりと微笑みながら桜花は翔にキスをした。

 舌を入れるような深いものではなく、唇どうしが軽く触れ合う程度のキス。しかし、それはなかなかどうして、翔の頭をこんなにも痺れさせてくるのだろうか。


 朝だからか。

 桜花がいつにも増していじらしくて可愛いからか。


 いずれにせよ、翔の心は完全に桜花にメロメロということだ。


「では、着替えてきますね。翔くんも着替えた方がいいですよ」

「うん、そうだね。……僕も何か着替えてくるよ」

「どきどきですね。もしも、翔くんの予言が当たればこれはもうテレビに出演するべきです」


(うーん……。今更、八百長だって言えないしなぁ)


 翔は男の見栄、ということで黙っておくことにした。

 翔は今まで触っていた桜花の指の感触を思い出すようにもう一度自分の手を動かした。


 そして、さらさらと置き手紙をティッシュ箱の底にいれておく。隠し場所は事前に蛍には伝えてあるので、頃合いを見計らってその手紙を桜花に見せてくれるだろう。



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