第286話「話す機会」
「桜花、ちょっといいか?」
「な、何ですか?」
翔が桜花を呼び止めたのは夕食後でしばらく経った時の頃であった。
桜花は家事をしていたのだが、その終わる頃を見計らって翔は話しかけたので、すぐにその家事を終わらせて、桜花はリビングへとやってきた。
しかし、その座った位置は翔とは程遠く、むしろテレビとの距離の方が近い。いつもならば隣、あるいはそれに準じた近くに寄って、座るはずなのだが、それがないということはやはりいつもの桜花とは違うということだろう。
翔は心を紛らわすためにテレビの電源は付けたままにして、桜花に頭を下げた。
「……?」
翔の姿が謝罪をしている、というのは桜花も分かったのだろうが、その謝罪が意味するところがよく分からず不思議そうな顔を浮かべていた。
翔は頭を下げているのでその姿は目視できない。ただ許してくれるのか、否かを待っていた。
「これは……何に対する謝罪ですか?」
桜花は「全く身に覚えがありませんが」と付け加えながら翔に訊ねた。
翔ははっと顔を上げて桜花を見た。
場違いにも「相変わらず綺麗だな」などと思ってしまうが、すぐにその意識は深層まで放って、説明を始めた。
「チョコの時から桜花の僕に対する態度が変になってるように感じて……」
「……」
「でも、桜花が僕に何かすることはほとんどないし、たぶん僕のせいなんだろうけど……。何か……したのか?」
それを聞くのはあまり良くないことだと分かっていながらも聞かずにはいられなかった。
何か桜花が不快に思うことをしてしまったのかもしれない。
何か桜花に強要を迫ってしまったのかもしれない。
その真相は定かではないが、何かがなければここまで避けられることは無いだろう。翔は自分の記憶のなさを恨みながらも桜花に訊ねる。
桜花が嫌だと思わせてしまったならば翔がどれだけ善意だとしてもそれは悪事へと変わる。
ありがた迷惑というのは言い得て妙な言葉なのである。
「……したかと問われれば確かにしましたけど」
「……ごめん」
「決して嫌ではありませんでしたし……。それに何をしたかも覚えていないまま謝られても困ります」
桜花が最もな正論をいう。
謝罪だけしても中身が伴っていなければそれはただの絵空事であり、その言葉には何も籠らない。熱意がなく空虚で軽薄な言葉になってしまう。
しかし、その具体性を知ろうとしても桜花が教えてくれないのではどうしようもない。幾ら桜花に訊ねたとしても「教えません」といって、取り合ってくれないことは目に見えていたので、翔はしゅんと落ち込むしか無かった。
何も出来ない、何もさせて貰えない状況に、翔は不甲斐なさを感じた。
その翔の様子を察した桜花は翔の考えているその思考までも大体の察しがついたのか、仕方がないな、とばかりにため息を吐いたかと思えば、すっと翔の隣に寄ってきた。
男の子というのは何とも単純なもので、桜花が予期することも無く桜花が隣に腰を下ろしたと理解した時点で翔の心には不甲斐なさなどというものは消え失せ、幸福を感じてしまう。
ぱーっと満開の花が咲いているかのように顔面を綻ばせる翔に桜花はくすくすと笑い始めた。
「翔くんは分かりやすいですね」
「……そうかな?」
「そうですよ。今は私が隣に来て、とても嬉しそうですし」
「べ、別に?そ、そんなことないし」
翔は必死に取り繕うがその言動と顔を抑える手によって全くその意味を成していなかった。どちらかと言えばむしろ、肯定しているようなものだった。
桜花はよしよしと翔の頭を撫でた。
急に撫でられて翔は大人しくするしかなかった。
「私が意地悪を言ったのは謝らないでくださいという暗示だったのですが……翔くんにはわかって貰えなかったようですね」
「……。そんな無茶な」
何かしたのならば謝らなければならない。しかし、その内容をしっかり自分で噛み砕いて悪いと思っていなければ、謝る必要は無い。
そのふたつは矛盾しているようでまったく矛盾していない。
今回の場合、翔は覚えていないのだから、謝らないでくれ、という桜花なりのメッセージだったらしい。
「私の方こそごめんなさい。一人でツンツンしてました」
「桜花のツンは後にこうしてデレがやってくるから、桜花はツンデレだな」
「もうデレはやめておきますね」
「えっ?!……言わなきゃ良かった」
ふふっと微笑む桜花に翔は激しく後悔した。
しかし、何だかんだといって、翔は桜花に許されたらしいということだけは明白にわかったのでそれは僥倖なことだ。
桜花が翔の肩に頭を乗せる。
翔は桜花の手を握る。
その様子は今までの我慢が吹っ切れたような、そんな大胆さも兼ね備えられているようで。
「……こっちのほうが安心する」
「翔くんは甘えん坊さんですからね」
「桜花も人のこと言えないだろ?」
「私は……。確かに、そうかもしれませんね。とはいえ、翔くんにだけですけど」
「こらっ。耳元で囁くんじゃない」
「これはお返しです」
翔と桜花は顔を向かい合わせてくすっと抑えきれずに笑いあった。
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