第242話「失礼します」


「入ってもいいですよ」

「失礼します」


 翔は桜花が服を脱ぎ、タオルを巻いている数分間の間に自分の先程までの言動とこれから起こるであろうことについて、冷静に思い返しこれはもしや自分にはハードルが高すぎるのではないか、と気後れしていた。

 だが気後れをした所で桜花は翔を待ってくれているし、今更やはり無理だと断る訳にも行かない。


 こういうヘタレを治していかなければ、と前向きに考え直す。


 翔は思い切って脱衣所と繋がる扉を開ける。


「どうして翔くんが敬語になっているのですか?」

「と、特に理由はないよ」

「本当に?」

「……本当です」


 特に理由もなく口調を変えているのならそれは変人以外の何者でもないだろう。しかし、桜花は熱に浮かされてしっかりとした思考ができていないのか翔を深く追求することも無くそうですか、と返した。


 桜花はタオル一枚で大体の場所を覆っていた。隠れていない鎖骨のラインが美しい。

 肌にかかる髪というのもまた趣がある。


 と、平安貴族並みの感想を心の中で述べたところで翔はそっと桜花に寄り添った。


 あまり桜花に負担をかけないようにしなければならない。翔の思い描く具体的な計画としては桜花は座っているだけでほとんど翔がしてやるというものだ。


 キャンプ帰りということもあって、普段の手入れよりも更に入念に髪などは手入れをしたいだろうがそれは今日のところは諦めてもらうしかない。


「座れるか?」

「私はおばあちゃんですか。それぐらいは出来ますよ」


 そう言って、勢いよく座ろうとするとよろめいた。翔は堪らず桜花を抱き留めてコケないように支えてやり、ゆっくりと座らせてやる。

 これは思ったよりも重症かもしれない。風呂を出てしばらくした後には必ず体温を計らせようと決める。


「むー。翔くんにお世話をされている気分です」

「気分じゃなくて、そうなの。今お湯出すからちょっと待ってな」


 シャワーはすぐにお湯が出てくれない。温水に設定していても、冷水から徐々に暖かくなっていく少し古いタイプのものなのだ。


 大分温度が高くなり、熱いと思えるほどになったところで桜花の足にかけてみる。


「どう、熱すぎる?」

「いえ、ちょうどいいですよ。気持ちがいいです」

「頭からかける?」

「お願いします」


 桜花が酸素を溜め込んで頬を膨らませる。その微笑ましい様子に口角が少し上がったのを感じた。翔はシャワーを桜花の頭からかけてやる。


 あまり長すぎると溜め込んだ酸素も尽きてしまうのでそこそこの時間を狙って一旦止めた。


「折角ですから頭も身体も洗っておきましょう」

「えっ」

「……翔くんには頼んでいませんからそのように身構えなくても大丈夫ですよ。そこのシャンプーを取ってください」


 翔は何も言うことが出来ず、言われるがままにシャンプーを渡した。

 翔はシャンプーぐらいなら自分にもできるのではないか、とふと思った。


「いいよ、僕がやる。桜花は何もするな」

「翔くんは髪の長い女の人の髪の毛をを洗ったことがありますか?」

「……ないよ」

「とても面倒ですよ?」

「でも桜花はそれを毎日しているんだろ?だったらこういう時は僕が頑張るよ」

「翔くんは……いえ、何でもないです」


 その先を訊ねるとはぐらかされてしまった。

 翔は渡したシャンプーをもう一度受け取り、自分の手に垂らす。

 翔と桜花が使っているのは違うタイプのシャンプーで少し感触が違うことに驚いた。元々は修斗のものと梓のものだったので、それを翔と桜花が受け継いでいる形だ。だから桜花が使っているシャンプーは高価なものである。


「触るぞ」

「改めて言われると……何だか緊張しますね」

「ご、ごめん。……目は閉じてた方がいいよ」

「あまり力を入れなくていいですからね」

「うん」


 強く握ると潰れてしまうシフォンケーキのように、優しく包み込むようにして洗うのだ。

 翔は桜花の頭のそっと触れて優しく髪の毛を洗い始めた。

 自分の髪を洗うようにごしごしとする訳ではなく、絶妙な力加減で洗っていく。


「何だか眠たくなります」

「散髪屋と同じ感じだな。誰かに頭を触られていると刺激が気持ちよくなって眠たくなる現象」

「このまま寝てもいいですか?」

「洗い終わったらお湯をかけるけど……」

「びっくりしてしまいそうですね。……我慢します」


 桜花はぎゅっと全身に力を込めて眠気と戦うことにしたらしい。


 出来るだけ早く済ませてしまわねば、と翔は髪を洗う手を急ぎめで動かした。



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