第217話「うたた寝」
翔がはっと目を覚ますと、そこには天使がいた。いや、ねむり姫だろうか。どちらにしても儚く、それでいて美しい、姫と呼ぶにふさわしいその人が静かに眠っていた。
しかし、姫、とは言うがその容姿はメイドであった。
その矛盾に気が付いた翔は段々と現実世界へと思考が戻ってくる。翔は自分の彼女が可愛すぎるあまり、鼻血を出してしまうという失態をしでかしてしまったことも、その後に桜花がとても親身に介抱してくれたことも全て思い出した。
だから、目前ですやすやと眠るのは桜花であることは言うまでもない。そして、更に見上げている形になっているのは直前に桜花に膝を貸してもらっていたからだ。
いつもとは違うアングルだからか、いつになく心臓が忙しなく動いているのがわかる。
「桜花」
翔が呼び掛けながら桜花の頬に触れる。うたた寝する姿は何回か見た事はあるがその度に毎回、そのあどけない表情に骨抜きになっているような気がする。
どうにかして慣れないものかと思うが、こればかりはいつも突然にやってくるので対処の仕様がなく、それでいて破壊力が抜群で生半可な防御策では意味をなさないだろう。
「か、翔くん」
「お目覚めですか、お嬢様」
「何ですか、それは」
翔が茶化すと、桜花は翔の頬をむにむにと摘んだり、引っ張ったり揉んだりし始めた。
明らかに遊ばれてしまっていたが、翔は好きにさせようと放っておいた。
「メイド姿で寝ていると……働きすぎ、みたいに見えるな」
「翔くんの膝枕という大切な仕事は疲れますからね。今後なくなるかもしれません」
「えっ。今後一切はちょっと……」
「ちょっと、何です?」
「……たまにしてください」
「仕方がないですね、ご主人様は」
桜花が仕方なくと言うよりは少し嬉しそうな声色で翔の頬から手を離す。
翔は頬を擦りながら顔を上げる。心做しか自分の頬が柔らかくなったような錯覚があるがそれはきっと血流の問題だろう。
「何時間寝てたんだ……?」
「えっと……。約一時間ですかね。お昼寝には充分な時間ですね。ところで、鼻は大丈夫ですか?」
「ごめんな、一時間も。体調不良はこの通り、解決した」
「それは良かったです」
翔自身も驚いたが、桜花もまた驚いたに違いない。何もしていないのに翔の鼻から突然大量の鼻血がでてしまったのだから。
翔はしっかりと理由をわかっていたので桜花程、あまり驚きはなかったが桜花はそうはいかない。
しかし、それでもいち早く動いて介抱してくれたのは自分ではなくて桜花だった。
「着替えましょうか」
「た、タキシード?」
「嫌なら着ません。少し借りますね」
「どうぞどうぞ」
ぱたぱたと桜花が着替えに出た。翔は先程まで、桜花が触れていた頬を摩る。
メイド服というのも破壊力があったが、タキシードはどうだろうか。
不安と期待が交互に混じり合い、途方もないわくわく感が募る。
男性用、しかも翔のものであるから、それなり桜花の身体よりも大きく作られているので、着るとだぼだぼになるのだろうか。
「着替えてきました」
「お、早かっ……」
翔は言葉を奪われた。
それはあまりにも似合っていたからだ。しかも、ご丁寧なことにツインテールはポニーテールへと変わり、メガネまで掛けており、その姿は仕事のできるキャリアウーマンそのものであった。
「どうでしょうか」
「……全然あり。これで接客しても人はわんさか来そう」
「少し大きいのですが……」
「まぁ僕の身体に合わせて作られているからね。でもまたそこが……」
「何か言いました?」
「いえ、なんでもありません」
背筋を張っていると言えばいいのだろうか。所謂「萌え袖」と呼ばれるものになっている桜花の袖は指先のみが顔を出しているので、コアな客にはドンピシャに違いない。
彼シャツと同じ原理が働いているのだろう。
そう思えば思うほどに、翔は何かいけないことをしているのでないか、という錯覚に襲われそうになるが、実際のところ、翔の服を着させているので事実なのかもしれなかった。
「どちらがお好みですか?」
「……桜花が髪型を変えたり口調を変えたりメガネをかけたり、本腰でするとは思わなかった」
「文化祭のためにはしませんが、翔くんのためならします」
「うっ……」
真っ直ぐな瞳に射抜かれて、翔は生半可な答えは出来ないな、と感じた。
正直にいえば決められない。どれも素晴らしいほどによくて、翔の性癖に随分と深く刺さり、叶うことならば毎日交代でしてくれないかな、などという幻想を抱くほどにはよかった。
クールという性格は変わることなく、しかし全く別のジャンルを魅せられて、すぐに選べという方が難しい。
「甲乙つけ難い」
「正直ですね」
「正直だよ、ここで嘘はつけない。……でも強いて言うなら、いつも通りの桜花が一番かな」
「……」
桜花が石のようにぴたりと固まり、動かなくなった。
翔は己の言動がどんな影響を桜花に及ぼしたのかに気づかない。
「翔くんはずるいです」
「何が……?!」
「何でもです」
そう言われながら翔は抱き締められた。
何だかよくわからなかったが、キャリアウーマンに抱き締められたので、翔は心中で思い切り喜んでいた。
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