第68話「浴衣美人」
「お待たせしました」
「いや、僕も今出たとこ」
翔が少し早めに風呂から上がり、桜花を待っていると、ぱたぱたと手で扇ぎながら女湯の暖簾を潜る浴衣美人が出てきた。
浴衣は旅館が貸し出してくれたもので、翔も男用の同じ浴衣を着ている。
桜花の湿った髪や、上気した頬、身体から湯気が立ち上っている姿は変に艶やかに映る。
「良く似合ってるよ、浴衣」
翔が素直に褒めると、桜花は裾を掴んで広げくるり、と一回転した。
満足気な笑みを浮かべている桜花に思わず撫でようと手が伸びていたのを慌てて引き止めた。
「翔くんも良く似合ってると思います。かっこいいです」
「……ありがとう」
急にかっこいい、とか言わないで欲しい。
言いますよ、と前置きされたとしても翔は全く同じ反応を返したに違いないが、堪らず心の中で言葉を漏らした。
「桜花も、可愛いぞ」
「……そ、そうですか。あ、ありがとうございます」
桜花も同じ気持ちを味わってみろ、と翔が褒めると桜花は翔が思った以上に動揺して目を泳がせていた。
少し満足した翔は手を差し伸べた。
桜花もそれを受け取り、翔の手に自分の手を重ねる。
「部屋に戻ろうか」
「お腹が減りました」
食べ歩きをしていたはずなのに、走って逃げ、どちらかというと運動の方が多かったような気がするので翔は苦笑で誤魔化した。
部屋に戻ると、そこにはある意味で絶景が広がっていた。
料亭の料理がテーブル一杯に並んでおり、宣伝と同等かそれ以上のクオリティだ。
取り分け目を引くのは一人鍋とメインだ、と主張されている伊勢海老だろう。
「食べ切れるか不安です」
「見た目程の量じゃないと思うけど。食べられなくなったら僕が食べるよ」
見た目に惑わされた桜花が不安そうだったので翔は自分が食べる、と断りを入れる。桜花が一人で食べ切れればそれはそれでいいのだが、残す、ということに抵抗感があるようなので多少の無理の覚悟は必要だろう。
「なら、翔くんの嫌いな物を特別に食べてあげます」
「しいたけ、と、ナスと、かぼちゃはあげる」
聞いた途端にひょいひょい、と箸で持ち上げて桜花の元へ送る。旅行でいつもより気分がいいのか、特別な事が本当に特別だ。
桜花は残すことが嫌いだ。それは自分だけに関わらず、他人が残すのにも当てはまる。
「これで私のお詫びです」
「充分だよ」
新幹線の時のことを言っているのだろう。翔は気にしていなかったが、桜花はここで返しておきたかったようだ。
「美味しい」
「美味しいです」
二人して出た言葉がそれだけだった。しかし、それは今まで食べたことの無いような次元の美味しさであり、情報量が途方もない量で他に表現するものがないからだった。
夢中で食べていると、不意に桜花が声を発した。
「一番の思い出ですね……」
「喜んでくれたのなら良かったよ」
翔に聞かせるつもりはなかった発言だったらしく、翔がそう返したのを聞いて、ぴくっと肩を驚かせた。
「まだありますけどね」
「露天風呂にも入ってないし、明日はテーマパークに行くんだったっけ?」
「露天風呂は明日の朝一番に、と言ったのは翔くんでしょうに。私も入りたいです」
明日のテーマパークは頷き一つで済まされてしまった。
温泉から上がってすぐの食事中に風呂の話をするのはどうかと思ったが、露天風呂は格別なので大丈夫なのだ、と謎理論をでっち上げ、無理矢理納得した。
「僕だけのものじゃないから桜花も入ればいいよ。日の出すぐの景色は相当に絶景らしいし」
「そうなのですか……!でも、早起きの自信がありません」
「完全に昇るまでなら大丈夫……なはず」
急に自信がなくなった。
夕日が綺麗なのはもちろんなのだが、一日の始まりである朝日を拝みながら露天風呂に入るのも中々に乙なものがある。
是非その景色を見てもらいたい。
「寝過ごそうとしてたら起こすよ」
「翔くんが私を起こせば私は入れないではありませんか!」
ん?と少し思案したあと、桜花の言っている意味を理解した。
「僕はもう入ったあとだから!ちゃんと早めに入るよ!」
「私は翔くんにも絶景を見てほしいです!」
「ギリギリを攻めるよ」
「見る時間が減るのはいやです」
「そんな無茶な……」
桜花が無茶苦茶なことを言う。翔はどうしたものかと頭を悩ませ、どうにも全ては満たせそうにない、と結論づけた。
しかし、当の桜花は、
「一緒に入れば問題ありません」
「倫理的な問題が多発してない?」
「翔くんが翔ちゃんになれば解決です」
「え、僕、女の子になるの?」
「私は男の子になれませんよ」
無理に決まっているだろう、そんなおかしなことを言うな、と言外に言っているような気がした。
翔が性転換出来ると思っているのが謎すぎる。
翔はふと、桜花が男の子だったら、と考えた。イケメンでかっこいい姿が容易に想像できて、何もかも敗北した気分になった。
くそぅ。イケメンは滅べ。
桜花が男の子に変わることは絶対にないのでそこだけは安心だった。
「僕は男の子にしかなれない」
「当たり前ですよ」
「理不尽!」
悲痛な面持ちで叫べば桜花はくすくすと可笑しそうに笑った。
結局、それから戯言ばかりでどうするのかは決まらなかった。
その事が尾を引いた訳では無いだろうが、翔は布団で眠るにしてもあまり寝付けなかった。
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