補遺『楓待つ山吹』7

「楓先輩! 何もされてませんよね?」

「ぇえ、大丈夫ですよ」

 私なら腕まくりでもするのだろうけど、控えめな先輩はそういった仕草もしない。

 でも、先輩の大丈夫ですよ、には万感の思いがこもっていて力強さが感じられた。

「どこの悪党が先輩を連れ去ったんですかね。身代金の要求とかもなかったですし」

「さ、さぁ、さっぱりです……」

 何か言いづらそうな先輩。

 まさか特高から事件について口止めされているのではないだろうか。

 個人が聞き知ったものを抑圧する権利なんて司法にはないはずだ。

 いや、もしかすれば特高なんかは関係なくて、先輩自身がお話ししたくないのかもしれない。それなら仕方がない。先輩自身が打ち明けたい時になったら、私はいつだって先輩の話に耳を傾けるつもりだ。

 それがどんなに重い内容であったとしても。

「でも楓先輩がご無事でしたので、私はそれだけでお釣りがくるほど嬉しいですよ」

 それよりもいま喜ぶべき点はそこなのだ。


「容疑は完全に晴れたと見ていいのですか」

 部長が先輩に尋ねる。もしも特高がまだ何か言いがかりをつけくるのならば、私はすぐにでも廊下を駆けて行って、あの偉そうな捜査官に強烈な一撃をお見舞いしてやろう。

「はい。全ての取り調べがすんだと言われました」

「そう、本当に良かったですよ」

 それにしても特高め、さんざん人を疑っておいて詫びの一言もないなんて。

 自分たちの捜査手法や疑いありきで行う取り調べは正当なもので、だから謝る必要なんてないとでも言いたいのだろうか。

 それに比べて、

「楓先輩に『もしも』がある前に救いだして見せるなんて、さすがは神楽坂探偵です!」

 もとは坂下探偵の失態とはいえ、依頼もしていないのに事件を解決してみせたのみならず、姿を見せないなんて素っ気なさすぎるくらいだ。誘拐事件が新聞に載らず楓先輩が晒し者になっていないのも、きっと神楽坂探偵のご高配あってのものに違いない。

「先輩は会ったんですよね、神楽坂探偵に」

 坂下探偵ならばしっかり言伝ことづてを伝えてくれているはずだけど、叶うのならばやはりじかにお会いしてお礼を伝えたかった。

「神楽坂探偵って、確か《軍団卿》と呼ばれている」

「そうです! 帝都探偵協会の碩学級探偵《軍団卿》神楽坂和巳かずみ探偵です」

 極東や先輩の故郷を田舎とは言いたくないけど、田舎では探偵の知名度はほとんどないのかもしれない。帝都の碩学級探偵といえば、世界中の誰もが一目置く存在だと思っていただけに、それを知らない先輩がかえって新鮮に感じられる。

「会っていないですね。私を助けて下さったのは坂下探偵と市谷さんですから」

「坂下探偵ってあの背の高い男の人ですよね?」

 事件の解決まで坂下探偵がしたということだろうか?

「はい」

「あれ……? いや、でも坂下探偵は神楽坂探偵の助手だから、それすなわち神楽坂探偵の手柄でもあるわけで――」


 坂下探偵は最初に顔を合わせた時、神楽坂探偵が事件の担当だと言っていた。

 それは最後まで変わっていないはずだ。

 そして部長の推察によれば、坂下探偵の担当は私たちへの連絡や事務なんかで、ご本人は事件の解決に専念していると。

 だけど先輩は自分を救ったのは坂下探偵と助手の市谷少年だという。

 そこから考えられる可能性としては、神楽坂探偵は、同時に解決せねばならない他の事件があって、その兼ね合いで坂下探偵と市谷少年が、先輩を救助する実働にあたったのかもしれない、ということだ。

 でもそれだと分業制という部長の話を私が認めることになってしまう。

 あるいはこうも考えられる。

「神楽坂探偵が坂下探偵に手柄を渡したってことなのかなあ」

 助手に解決の手柄を譲ったのならば、まだぎりぎり納得がいく。

 いや、そもそもこれは推理する類の事件ではないのだ。

 推理が介在できるのはおそらく居場所の特定までだろう。

 それから後、誘拐された先輩を実際に救出するにあたっては、当然それを連れ去った犯人の抵抗が予想される。そうした荒事にはご本人よりも、頑丈そうな坂下探偵と少年が適任だろう。

 それならば全ての辻褄が合うし、分業かもしれないという疑いにも納得がいく。


「神楽坂気違いはいいから、こんなところで立ち話をしてないで戻りませんか」

「あー部長ひどいですよ気違いなんて!」

 本気で言っているわけではないと分かっているので、私も本気で怒るのではない。

「神楽坂探偵贔屓びいきでしたね。贔屓の引き倒しにならないようにしてくださいよ」

「今どきはファンって言うんですよ!」

「ファンなんてそれこそ狂信的じゃないですか」

「どういう意味ですか!」

「意味も分からず横文字を使わないことです」

「そのくらい知ってます、バカにしないでください! 楽しいって意味ですよ!」

「もう、静かにしてください。にらまれているじゃないですか」

 立ち番や受付の警察職員がこちらを見ていた。

「だって部長の言い分が……」

 部長は話を打ち切ってそそくさ表へ出ていってしまった。

「あ、行きましょう楓先輩」

 手を差しだしたけれど、先輩はそのまま横に並んでしまった。

「もう、先輩ったら遠慮しなくていいですのに」

 手をつなぐのに抵抗があるのだろう。

 距離感は大事。これ以上は押さない。

「足は大丈夫ですか? あたし速くありません?」

 気付いたところからやっていこう。少年に言われたように。

「大丈夫です。酷使しなければじきに治るそうですので」

「よかったです。ゆっくり労わりながらお仕事に戻りましょうね」

 ようやく楓先輩と私の(ついでに部長の)帝都での暮らしが始まるのだ。


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暗翳の火床(アンエイのカショウ) 蒸奇都市倶楽部 @joukitoshi-club

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