補遺『楓待つ山吹』1

南海みなみさんが心配だという山吹さんの気持ちは分かりますけれど、今晩は僕が詰めますから、あがってもらっていいですよ」

 そう言って銀嶺部長はため息をついた。部長がため息をつくのは数えるほどしか見たことがない。支部を預かる責任者として事態を重く見ているのだろう。

 でも、私だって楓先輩の身を憂える気持ちなら負けていない。

「いいえ部長。私も詰めます! 詰めさせて……ください」

 それくらいの我がままなら許してくれるだろうか。

 部長は何も言わずに自分の机に戻った。

 自分の判断で好きになさいということだろうか。

 部長に頭を下げて、我が身をぐっとおさえつけるように応接椅子に座る。

 落ち着かないままに立っていると、所在なくうろちょろしてしまいそうだった。

 昔からじっとしていられない子だと言われてきた。


 楓先輩の身の安否と事の成り行きについては良い方に考えられそうだ。

 これは私が楽天的だからというのではない。神楽坂かぐらざか探偵が先輩の件を担当しているからだ。神楽坂探偵が出ればもう解決間違いなしといっても過言ではない。

 それでもただ待つというのはそわそわしてしまう。

 坂下探偵が手伝いの申し出を神楽坂探偵に伝えてくれているといいけれど。


 部長は親指の腹でペン先を何度も押している。帝都に来たばかりの楓先輩が行方不明だなんて、部長だって落ち着いていられるわけがない。

 もっとも部長の心配には上司としての不手際を恥じる思いもあるだろう。

 もちろんそれは上司としては当たりまえの心配で、悪いことだとは思わない。


 だけどそれは純度でいえば不純なもの。


 私が抱いている不安は、初めての先輩への敬慕の念と結びついた純然たるもの。

 初対面の先輩と顔を合わせていた時間はものの三十分にも満たない。そんな短時間で抱ける敬いと慕いなど、たかが知れていると疑問を持つ人もいるかもしれない。

 信頼や情愛についてなら、その疑問はもっともだろう。

 だけど敬慕の念については、ごく短い間に抱いたものの方がより本然としているものだと思う。短いほど直感的なもの、本能的なものに基づいているからだ。

 長い時間が経ってから向ける敬いは上司、部下といった社会的かつ付加的な環境によって形成された、多分に形式ばったものにすぎない。そういう敬いは人が踏みしめた道を歩く危なげないもので、とても本然的だとはいえない。


 私は初めて先輩とお会いした時、稲妻に打たれたように感じた。

 あれはきっと私が心から敬愛すべき人だという直感だ。

 そう、すべてはあの瞬間に始まったのだ。


 私の教育を主務とする赴任だと聞いていたので、もっと年増の、威張りくさった厳かで偉そうな人が来るのではないかと心構えていた。

 けれども、扉を開けて私の前に立っていたのは、ほとんど同年代の女性だった。

 それが楓先輩――南海楓。

 そもそもなぜ先輩が教育役として赴任してきたのか。

 私が〈巫機構かんなぎ〉――正式名称は〈ぜんいつかんなぎ機構きこう〉というのだけど、長ったらしいので私は〈巫機構〉とか機構って呼んでいる――という南国連なんこくれんの下部機関に女性実務員――巫女みことして就職したのが二年前。その時点で私は帝都支部に初めて在籍する巫女となった。

 帝都支部は創設以来、巫女の配属がなかったという。

 このあたりの経緯は就職時に事務方の部長がいろいろ詳しく聞かせてくれた。だけど「別に覚えていなくても、事務や実務には差し障りがない」という一言ですっかり忘れてしまっている。そのあたりは勉強帳を見ればすぐ思い出せるので問題はない。

 ともかく、帝都支部の巫女一期生として入ったものの、その実務を教導すべき者がいないのが問題だった。極東の中原なかはらにある機構本部に送っての短期集中教練も検討されたらしいけれど、最終的には極東方面本部から指導できる立場の巫女を配転するという形に落ち着いたという。

 そうして派遣されてきたのが楓先輩だ。


 ただ、直前まで私は何も知らなかった。

 前日になって楓先輩のお名前を知らされたくらいで、それとて受付として必要だからという理由によるもので、実際に会うまではどういう方なのか、本当になにも知らされなかった。

 だけど楓先輩の諸情報は私どころか、部長さえもがほとんど何も知らされていなかったのだ。機構のこういう体質は昔から変わっていないらしく、部長いわく密室主義なのだとか。


 そして忘れもしない運命の十二月一日。

 両開きの扉を開いて入ってきた楓先輩を見た瞬間、私は稲妻に打たれた。


 不安げに震える瞳と、うっすらとした肉薄な唇。

 瞳に反して強い意志をみなぎらせたような太い眉もかすかに垂れている。

 耳の前にかかる部分だけ伸ばし、後ろは短くばっさり切った髪。

 その髪の色も上級な黒炭で染め上げたようで、しっとりと艶やかに灯りを反射している。

 大きな外套に着られているような小柄で華奢な身体で、外套の下は上衣から袴まで余分なたわみをまったく生じさせず、すとんと落ちて装束の紅白を余さず伝えている。

 やや薄汚れた白衣びゃくえが長旅の疲れを物語っていた。


 一言で言うなら先輩は可愛い。

 実際にお話しをしてみると、外見から受ける印象そのままに控えめなところがあって、照れ笑いをしているところなど実に愛らしいのだ。

 一方で物言う声は凛と引き締まって私の肌を震わせ、芯のある女性らしさを感じさせた。

 私にはまったく真似できそうもないそういうところが先輩の魅力だ。

 といっても、それはきっと先輩の魅力のほんの一端に過ぎないのだろう。

 だって、会ってお話していた時間はほんの三十分程度なのだから。

 なので私がもっと楓先輩の魅力を知りたいと思っても、それはなにもおかしな話ではない。


 さあこれから荷解きをしながら楓先輩といろいろお話を、という矢先にあんなことさえ起こらなければ……。


 特高だ。

 特高が楓先輩と私の(ついでに部長との)出会いの時間を奪い去ったのだ。

 何の権利あってのものなのか分からないけど、どんな権利があったとしても特高は怪人を追いかけて碩学せきがく様を守るのがお仕事でしょう。楓先輩にちょっかいをかけていいような立場じゃないのに、腰高な態度で先輩を連れて行ってしまった。

 その際に自ら行こうと決心する先輩の凛々しさはやっぱり魅力的なのだけれど、強く引き止めない部長も部長だし、押し切られてなにも言い返せない私も私だ。


 黒い安背広の特高は特に腹立たしい!

 今度あの安背広に会ったら絶対に言い負かしてやろう。

 蛇の目ネクタイの上司が止めないから、権柄けんぺいづいてあんな態度に出てしまうのだ。


 そういえばあの蛇の目ネクタイと部長って……。

「ねぇ、ぶちょーう」

「なんですか?」

 ペン先で指の腹を真っ黒にした部長が答える。

「あの蛇の目ネクタイの特高ですけど、お知り合いなんですか? 捜査官なのに、なんかさん付けで呼び合っていませんでした?」

射扇いおうぎさんかな」

「あ、そうですそうです。そういえばそう呼んでましたよね」

「まあ、ちょっとした知り合いですよ。知り合いだからといって捜査の手を緩めるような相手じゃないけどね……」

「イオウギさんと一緒にいたあのすごく横柄な、イオウギさんの部下っぽい人は?」

「知りません。だけど射扇さんの態度を見れば、そこそこ目に掛けている部下といったところじゃないのかな」

「あんなふんぞり返った態度の特高に目を! 私への横柄はいいとしても、楓先輩へのああいう口ぶりはひどいですよ!」

 碩学様や大企業の重役の機嫌をうかがう特高の印象は元々いいものじゃない。

 そのうえで先輩にあんな態度に出られたら、その印象はますます悪くなる。

「特高も色々だからね。彼は射扇さんから見て、なにか光るものがあったんだろう」

 だったらイオウギさんはもっと人を見る目を養った方がいい。絶対に、絶対だ。

「むぅ、それで部長とイオウギさんが知り合いっていうのはどういう関係ですか」

 こっちはこっちでなにか面白い話がありそうだ。興味は私を後押しする強い味方だ。

「ちょっとした縁があっただけですよ」

「その『ちょっとした』を聞きたいんですよ、あたしは。だめですか?」

「だめですよ」

 それ以上は私がなにを聞いても、もう答えてはくれなかった。

 聞かれたくない質問におよぶと、部長は決まってだんまりを決めこむ。それ以上はどう追及しても無駄なのを知っているので、私の興味も自然と退潮する。

 最初のころは興味に背を押された私があまりになんでもかんでも口にしてしまうので、呆れられたり怒らせたりしてしまったのかとはらはらしたけれど、部長としてはだんまりを決めこむ態度は無視したり黙殺しているのではなく、飄々とした態度で聞き流しているつもりだというのを後で知った。

 今では私も部長も互いの性分を知っているので気まずくなりはしない。

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