第二十四章『歩みを止めなければ』3
警察署の正面玄関に進むまでのわずかな間、楓は帝都に来てからの日々を思い返す。
――まだ一週間も経っていないんだ
帝都を訪れた日に巻き込まれた『〈地下炉〉事件』を、ある種の歓迎だと前向きに捉えられるような彼女ではない。
しかしこの一件は、自分がこれまで生きてきた世界と帝都は決定的に違っているのだと、心身に叩きこまれるには十分な出来事であった。
といってすぐに帝都なりのやり方を見つけられる器用さも備えていない。
――これから先の帝都で何事もなく過ごしていけるのだろうか
早くも不安が募りはじめるが、早々に帝都を出ていくわけにはいかない。
――今回の一件を成長の礎にしなければ、私はなにも成長できない
そうして一歩を踏み出せる人に成長するのだと。
恐怖から目を逸らしてしまうような人にはなりたくないと。
坂下への回答は、図らずも己への奮起を促す言葉にもなっていた。
「楓せんぱぁい!」
警察署の一角で楓を待つ山吹が大喜びして彼女を迎えた。
市谷にさんざん「楓姉ちゃん」と呼ばれていたからか、事件後に「楓先輩」と呼ばれてもほとんどむず痒さを感じなくなっていた。もっともそんな慣れ方をしていいのだろうかと、本人はまだ戸惑っている。
「楓先輩! 何もされてませんよね?」
「ぇえ、大丈夫ですよ」
特高に拷問でもされてしまうのでは、またどこかに連れて行かれるのでは、などと楓の身を過剰に心配した山吹は、責任者として迎えに上がった銀嶺に強引に付いてきていた。
坂下に負ぶわれて楓が戻った朝も、彼女は先輩の無事な寝姿を見るなり歓喜の涙を流して帰還を喜んだという。
「どこの悪党が先輩を連れ去ったんですかね。身代金の要求もなかったですし」
「さ、さぁ、さっぱりです……」
〈黄金の幻影の結社〉の存在をはじめ、一連の出来事は口外するなと射扇から何度も釘を刺されている。機密情報なのだと楓は納得して肯いた。
どんな組織にも機密は付きものだ。特高のような機関ならばなおさらだろう。
「でも楓先輩がご無事でしたからそれだけでお釣りがくるほど嬉しいです」
「は、はぁ……」
気詰まりなく直球を投げる山吹と並ぶと、楓の消極性が余計に際立つ。
「容疑は完全に晴れたと見ていいのですか」
はしゃぐ山吹を横目に銀嶺が問う。
「はい。全ての取り調べがすんだと言われました」
「そう、本当に良かったですよ」
「楓先輩に『もしも』がある前に救いだしてみせるなんて、さすがは
「神楽坂探偵というのは《軍団卿》と呼ばれている――」
「そうです! 帝都探偵協会の第三位、碩学級探偵《軍団卿》神楽坂
「会っていないですね。私を助けて下さったのは坂下探偵と市谷さんですから」
「坂下探偵ってあの背の高い男の人ですよね?」
「はい」
楓は通路の方を振り返ったが、もう坂下も市谷もいなかった。
「あれ……? いや、でも坂下探偵は神楽坂探偵の助手だから、それすなわち神楽坂探偵の手柄でもあるわけで――」
納得しかねる様子の山吹がぶつぶつとつぶやく。
――そういえば道化師さんや
帝都に浸潤する《軍団卿》は、探偵の神楽坂和巳として抽象される。
一方で《軍団卿》を認識していない楓はその具象さえつかめない。
「――神楽坂探偵が坂下探偵に手柄を渡したってことなのかなあ」
「神楽坂気違いはいいから、こんなところで立ち話をしていないで戻りませんか」
「あー部長ひどいですよ気違いなんて!」
「神楽坂探偵
「今どきはファンって言うんですよ!」
「ファンなんてそれこそ狂信的じゃないですか」
「どういう意味ですか!」
「意味も分からず横文字を使わないことです」
「そのくらい知ってます、バカにしないでください! 楽しいって意味ですよ!」
山吹と銀嶺のやり取りに出入りの警官が目を白黒させている。
「もう、静かにしてください。にらまれているじゃないですか」
「だって部長の言い分が……、あ、行きましょう楓先輩」
山吹が手を差しだすが、楓は恥ずかしがってそのまま横に並ぶ。
「もう、先輩ったら遠慮しなくていいですのに」
口を尖らせる山吹だが顔は笑ったままで不満なわけではなさそうだ。
「足は大丈夫ですか? 速くありません?」
「大丈夫です。酷使しなければじきに治るそうですので」
「よかったです。ゆっくり労わりながらお仕事に戻りましょうね」
山吹がにこにこ顔で満足げにうなずく。
――これで日々のお勤めに戻れるといいな
体質とはいえ、もう何かに巻きこまれるのごめんだ。
そう
帝都に吹く歳末の
吹き込む風のあまりの冷たさに楓は
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